愛と憎しみの葛藤

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コラム
一度、「最後まで妻に寄り添う。たとえ離婚になろうとも。」と言っておきながら、昨日は憎しみを募らせました。

憎しみと悲しみ


憎しみを募らせて、自分自身がとてもひどくなりました。 
涙が止まりませんでした。
いつの間にか何度も、
「卑怯者、卑怯者。出てこい。姿を見せろよ。」
と叫んでました。
一方的に出ていかれ、説得にも応じず、電話にもLINEにも出ない。
そして、離婚したい理由を手紙で送り、後は応答なし。
もしかしたら、これからは弁護士が連絡して来るかも知れない。
そうなれば、もう妻と話すことは不可能です。
それほどまでに私が怖いのでしょう。
怖くても、されてる私からしたら、物凄く苦痛です。
じわりじわりと嬲り殺しにされてる感じさえします。
愛するかたわら、憎しみが募るばかりです。

憎しみの奥にある悲しみ

カウンセラーに以前言われた言葉があります。
「表面の怒りや憎しみだけでなく、その奥にある自分の弱い気持ちに目を向けて下さい。」
「そして、その弱い気持ちを自分で分かってあげて下さい。」
この言葉を何度も言われていたためか、この時に思い出すこともなく、私は憎しみの底にある悲しみに気づきました。
叫びながらも、
「悲しい。悲しいんだ。憎いのではなく悲しいんだ。」
「弁護士から連絡が来るのが怖い。俺からLINEが来たとき、妻はこんな風に怖かったんだな。」
と思いました。
そう、私は悲しいのです。
妻から離婚と婚姻費用を切り出されたこと。
弁護士から連絡が来てこのまま終わりになるかも知れないこと。
こうも叫んでました。
「弁護士から電話来て、会えもせず終わりかよ。嫌だ。」
この数々の悲しみが憎しみになっていたのです。

悲しみの更なる奥にあるもの 

憎しみの底に悲しみがあるのはわかりました。
では、その悲しみの更なる奥にあるものは何でしょうか。
悲しみだけでしょうか。
いや、違います。
悲しみの更に奥底には、妻への愛情が、想いが残っているのです。

愛情があるからこそ悲しい、そして憎い 
愛情がある相手にここまでされたから悲しいのです。
そして、憎くなるのです。
何とも思ってない相手なら、私からむしろ距離をおきます。

悲しみと妻への愛があることを、自分で理解する 

ここまで見つめることができたなら、後は、その悲しみと妻への捨てられない想いを分かってあげるだけです。
もう離婚も覚悟しなければなりません。
妻を想えばこそ、離婚を選択することもあります。
愛するなら、まずは妻の気持ちに寄り添うことからです。
寄り添わなければ、ただの依存、執着です。
もう依存や執着になっているかも知れません。
自分では分かりません。
それはそれで、また自分で分かってあげようと思ってます。
やれるだけやってダメなら仕方ない
やれるだけはやります。
可能性は低いですが、調停で復縁した夫婦がいない訳ではありません。
まだ弁護士から手紙が来たわけではありません。
それに、来たとしても調停になれば、私が話すのはあくまでも調停委員です。
調停以外で弁護士から交渉を持ちかけられもするでしょう。
しかし、
「もう調停してるんだから、調停でしか話せません。」
と言うつもりです。
弁護士と直接交渉は避けなければなりません。
素人がプロに勝てる訳ありませんから。
調停までしてダメならもう仕方ないです。
諦めて離婚する他ありません。


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