タイ医療通訳と子連れ出稼ぎ:海外で働きたい女性へ

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コラム
私はタイ人である夫とともに、結婚と同時にタイのバンコクへ2003年に移住した。日本の病院で看護師として3年と少しの間、働いたあとだった。なぜタイへの移住を決意したのかということは、当時自分が病院での仕事に対して感じたことと関連しているのだが、それは長くなるので今回は書かない。ともかく、日本を離れ、日本の看護師免許をある意味で「捨て」、タイでタイ語を身につけて通訳・翻訳家になろうと決意してタイへ渡ったのである。日本には、自分がやりたい仕事はない、と思いつめていたところに、運よく結婚話が舞い込んで、タイへ連れて行ってもらった、と言うのが本当のところかもしれない。
それほどの決意でタイへ渡ったので、半端じゃないくらいタイ語を一生懸命勉強した。ほどなく長女を授かったが、つわりの時だけタイ語学校は休んだものの、妊娠期間中に主要なタイ語コースは終えて、かた言のタイ語を使って、自分でタイの産婦人科を受診することができるくらいになっていた。外国語学習というのは、まずは相手の言っていることがわかるということが一番先だと思う。そのタイ語学校は徹底して「聞くこと」を強化する学校だったので、このことが私のタイ語人生を後々まで助けてくれた。
長女も無事出産し、私たち夫婦は実家を離れ、当時大学院に通っていた夫の大学(タマサート大学)のそばの小さなアパートで3人で生活するようになった。それはチャオプラヤー川のほとりにある小さなワンルームアパートだった。3人家族にはあまりにも狭い間取りだったが、ロケーションは最高だった。今でも目を閉じてあの時を回想すると、舟着き場の老若男女の賑わいや、船から降りる時のディーゼルの吐き出す臭い、朝ふんわりと匂ってくる、中国系屋台のおかゆ(タイ語ではジョー(ク)と言う)の香りと光景が脳裡に浮かぶ。言葉がよく通じない日本人の母とよちよち歩きの小さな女の子に、アパートの住人や下町の住人はとても優しく、いつも何気なく言葉をかけてくれた。少し歩くと、静かなお寺や小さなお店が沢山あって、ココナッツやバナナの木が実をたわわにつけて、平和な時間が流れていた。
一方現実的には、夫が大学院に没頭していたので、うちにお金というものが入ってこなかった。経済的なこともあるし、私はもともとタイでタイ語を使って新しい仕事に就くことを目指していたので、求人広告を毎日チェックするようになった。そこである新聞広告に目が釘付けになった。
その新聞「マティチョン」は、タイ人のどちらかというと高学歴な人たち向けの新聞で、普通はタイにいる日本人は読まない新聞だった。日本人駐在員は、タイ文字は読めない、あるいはタイ語が全くできない人が少なくない。読む新聞は英字新聞だったり、タイに移住した日本人が発行している日本語の新聞で十分ことが足りる。だから日本人向けの求人が、その新聞に載っていることがそもそもおかしいのであるが、その貴重な求人広告をたまたま発見したのだった。
その求人は「日本人の病院通訳募集」の一言だった。その当時私はタイに2年半滞在したところで、タイ語の勉強は終了したが実践がほとんどできていない素の状態で、買い物程度の会話くらいしかできなかった。しかし自分の日本での看護師経験が活かせるかもしれないと思い、通訳に応募したいと電話をかけることを決意した。しかし対面で話す時でさえタイ人の言うことはよくわからないのに、電波が悪い電話でタイ語で病院に電話をかけて通訳に応募したい、と言うなんて、そんな無茶苦茶なことが可能だろうかと、電話の前でどれくらい逡巡したかわからない。小さな娘がいると集中できないので、確かその時は誰かに娘を見ていてもらったような気がする。しかしその当時そんなことを頼める人がいたとしたら、アパートの警備のお兄さんか、アパートの下でお店を営んでいる中国系の家族だけだったはずである。夫は日中はほとんどいなかったのだから。そういうことを頼んでも、「いいよいいよ」と彼らは快く預かってくれる人たちだった。それに何より、私は図々しくて楽観的なので、深く考えずお願いしたのだと思う。電話を早く済ませなければいけないのに、緊張して心臓はまるで早鐘のように打つ、やっぱりよそう、という迷いの間で揺れた。でも、そう何回も娘を頼めないし、とにかく仕事が欲しい。それで意を決して電話をかけたのだ。
プルプルプル
「はい、シーラーチャー総合病院です!」
「こんにちは。あの〜、私は日本人ですが、日本人通訳に応募したいのですが‥。」
「日本人通訳ですか?お待ち下さい。」
「え?あの、何ですか?」なんだかよくわからなかったが、一応通じたようで、回線をどこかに回してくれた。
「こんにちは!日本人の方ですか?…‥?」別の女性が出たが、学校で習ったタイ語と響きが違うので、何を言ってるのか全然わからない。仕方がないから、何となく誤魔化して用件を繰り返す。
「こんにちは。あの〜、私は日本人ですが、日本人通訳に応募したいのですが‥。」
「そうですか!」
電話の主は、人事部長のピクンさんだった。ピクンさんは、本人は知らないと思うが私は自分の人生の恩人の一人だと思っている。ピクンさんは、私に小さな女の子がいて、日本では看護師をしていて、病院通訳をしたいと言う申し出に、まだほとんど何も知らないのに即答で「ぜひ来てほしい!」と言ってくれた。その電話で初めてわかったのだが、その病院はバンコクではなくて、チョンブリー県(タイの東部でパタヤ方面)のシーラーチャーという町にある病院だった。日系会社の工業団地が近くにあるので、日本人駐在員が多く住むところで、その病院も増え続ける日本人患者のために、日本人通訳を初めて雇うことにしたということだった。タイの地名や地理を全く知らなかったために、新聞に書いてあった住所がバンコクでない、ということにさえ私は気づかなかったのだ。
しかし「え?バンコクじゃないんですか?」と電話口で答える私に、全く動じなかったピクンさんである。ピクンさんは、日本人向けのサービスアパートが近くにあるからそこに住めばいいし、病院の近くに1歳の娘を預かってくれる小さなナーサリー(保育園)があるので、フルタイムで働くことができると、力強く説明してくれた。ものすごい早口に面食らったが、それくらいは何とか聞き取ることができたのだ。それでぜひ見に来てほしいというその言葉に導かれ、私の心はすでに決まっていた。夫をバンコクに残し、母子でシーラーチャーに移ることを決意したのだった。夜遅く帰って来た夫に説明すると、容易にウンとは言わなかったが、とにかく週末に一緒に見に行くことには合意してくれた。
それで週末を利用して、私たちは初めてタイの長距離バスというものに乗り、旅行で行ったピーピー島以外のタイの「普通」の地方都市へ行くことになった。バンコクは首都であるし、近代化してなんでも揃っているから、やはり特殊なのである。2時間半くらいの時間、バスに揺られたのだが、車窓から見える景色から、タイは平地が多くて土地が広い、という印象を持った。実際タイは、日本の国土よりも少し広い国土を持ち、人口は日本の約2分の1である。
長距離バスを降りてから、病院のあるところまで行かなくてはいけないが、タイではまだ普通のタクシーの他に、「サムロー」と言われる3輪のミニタクシーがあるので、流れてきたサムローをつかまえて病院に向かった。サムローは、客席は屋根とイスがあるだけの構造で外にいるのとほとんど変わらないので、街の様子はよく見えた。地方都市というよりは、小さな町であった。町の中心に市場や大きなデパート「ロビンソン」が一つだけあり、その近くに市立病院が二つあった。その私立病院の一つが、目指す就職先だった。この小さな町に、日本人がそんなに多く住んでいるということがとても意外に思えた。町はこじんまりとしていて、汚いわけでも、すごく綺麗なわけでもなく、タイの標準からいうと発展している方に属する小さな郊外の町、という感じだった。チョンブリー県の工業団地で働く日本人駐在員家族や単身者は、その町にある外国人用のサービスアパートに多く住んでいた。
病院に着いてからピクンさんを呼び出すと、ピクンさんはすぐに来てくれて、病院の中の人事部に通されて色々と話をした。何しろタイ語が仕事で通用するレベルでないのはわかっていたので、会話で「やっぱりこの人だめ」と思われたらどうしよう、と不安でならなかったが、ピクンさんは明るい人でそんな不安を吹き飛ばしてくれた。私のことをテストしようとする態度は微塵もなくて、むしろ最初から私が就職する気持ちになるように説得してくれているように見えた。病院の中を見せてもらってから、私と娘が住むための外国人用のサービスアパート、そしてナーサリーまで連れて行って見せてくれた。事前に全て問い合わせ済みで、すぐにでも入居・入所できるということだった。しかも給料は、バンコクで働くよりも断然高い金額を提示してくれた。ここまでの好待遇をしてくれた理由は、やはり私が日本の看護師免許を持って日本の病院で働いていた、というその経歴にあったのだ。日本を出るときに「捨てる」とまで思いつめていた資格であったが、タイへ来て私と娘を救ってくれることになった。
余談であるが、ピクンさんは元看護師で、病院のマネージメントをするために大学院を卒業し、現在は病院の中枢である人事部長の仕事をしていた。もと看護師が、看護の仕事から発展させて、マネージメントの仕事をするのがタイでは普通にある。日本の看護師より、タイの看護師の方が、そういう意味では社会的地位が高いと思う。看護師という仕事は、あらゆる人を対象に看護をするし、他職種の医療チームでの仕事を通して、高い対人関係能力と情報処理能力を身につけることができる。日本の看護師も、もっと様々な分野に進出していける力があると、私は常日頃思っている。
タイに来てからというもの、ひたすらタイ語の習得に明け暮れ、妊娠中も授乳中もいっときも頭から離れなかったのが、タイで通訳の仕事をしたいという思いだった。だからたった一本の電話で、私を通訳として雇うことを決めてもらったことに、私は本当に感謝して幸せを感じた。ピクンさんも、「日本の看護師さんが日本人顧客のサポートをしてくれる病院通訳第1号になる!」と病院スタッフに宣伝して、とても喜んでくれた。
ピクンさんから、何を見て応募してくれたの?と聞かれ、「マティチョンです。」と答えたら、ピクンさんはとても驚いていた。1年ちかく求人を載せたが、日本人から全く反応がなかったので、もうマティチョンの広告はやめるつもりだったらしい。しかし最後の最後で私を釣り上げることができたので、人事部長としての面子が立って大満足だった。
バンコクに一人ポツンと残される夫だけが曇り顔であったが、仕事をしたいという私の強い想いをわかっていたので、私の「子連れの出稼ぎ」に最終的には賛成してくれた。かくして、私の医療通訳のキャリアが奇跡的な出会いのおかげで、幕を開けた。

教訓1;私の経験から言えることは、追い詰められた状況で一生懸命にやっていると、思いもかけないところから道が拓けてくる、ということだ。しかし、運や縁を味方にして、自分の望みを叶えていくには、湧き上がる勇気とリスクを承知で行う行動力と、失敗から立ち上がる力が必要だと思う。

タイ東部のシーラーチャー市の病院で、医療通訳の仕事を得た経緯について話したが、今日はその後のことに話を進めたいと思う。バンコクで勉強中の夫を残し、母子でシーラーチャへ「出稼ぎ」に行くことを決意してからの私は早かった。翌月から勤務開始と決めたので、早速引越しの準備を進めた。病院の人事部長のピクンさんが手配してくれた通り、住居は病院から歩いて5分のところにある、日本人用のサービスアパートメントに決め、保育園の入園の手続きも済ませた。
保育園は小児科のクリニックの2階に併設されている、個人経営の保育園だったので即日入園することができた。利用料はそんなに高くなかったし、経営しているのは小児科のドクターと奥さんであるナースだったので、とても安心できた。それ以外に、実際の保育を担当するお姉さんが二人いた。日本では保育士の国家資格がないと乳幼児の保育の仕事はできないが、タイはまだそういうレベルではない。その二人は子育てが好きな田舎出の普通のお姉さんで、人件費はいかにも安そうだった。実際どれくらいかというと、こういった仕事の人たちに支払われる給料の額というのは、日本人には想像もつかないほど低い。おそらく月に9000円程度であったと思う。それで週6日勤務で、拘束時間も長い。ちなみに大学卒で一般企業に勤める新卒のタイ人の給料は、3万円を少し超えるくらいである。ちなみに私の病院通訳者としての初任給は、19万円であった。これだけでも、日本と違ってタイがいかに、貧富の差のある社会であるかを知ることができるだろう。
小児科ドクターはエカリン先生という名前で、奥さんは「チュです。」と自己紹介してくれた。もちろん「チュ」とはとニックネームである。タイでは、名前がサンスクリット語からとっていて小難しい名前が多く、その代わりに覚えやすくて親しみやすいニックネームを日常的に使うのが普通である。しかもそのあだ名が一音節のことが少なくない。これが日本人の私には、最初とても違和感があって、覚えにくかった。私がまだその文化に慣れなくて、「チュさん?」と変な顔をしていると、「キスの『チュ』ですよ!」と唇をキスの形にして説明してくれた。タイ人はこういうところが、可愛らしくて素敵だ。みんな「チュ姉さん」と呼んでいたので、私もそれからはそう呼ぶようにした。
チュ姉さんは、少し小麦色の肌の派手な顔立ちで、チークとアイシャドウをバッチリきかせた「ザ・タイ人女性」のお化粧とストレートロングヘアがトレードマークで、服装も可愛らしかった。その格好でエカリン先生の診療の補助もしていたが、看護師らしい白衣などを来ているのは見たことがなかった。以前は病院勤務だったと言うが、ユニフォームを着たくなかったのかもしれない。(これは私の勝手な推測)
チュ姉さんと私は、なんとなくウマがあった。やはり看護師は、看護の心というベースの価値観が世界共通のように感じる。
チュ姉さんがやっている保育園に入園できるのは2歳以下で、4人までだった。1階がクリニックで、2階が広い1部屋だけなので、もちろん園庭などはない。しかし日本のように小さな子が昼間お散歩できるような気候ではないから、これで特に問題はなかった。一番驚いたのは、「何にもしないで連れてきてください!」と言われたことだ。着替えだけは必要だったが、朝連れて行ったら、軽く朝ごはんを食べさせてシャワーをしてくれるし、お昼ご飯とおやつを出してくれて、午睡の後はもう一度シャワーをした状態でお迎えとなる。後年私は日本の認可保育園の保健師となるが、保育士たちのサービス精神のなさに仰天したのだが、それにはこういう経緯があるからだ。
初めての入園の日に仕事を終えて迎えに行ったら、シャワーの後に全身にベビーパウダーを振りかけられて真っ白になって、髪の毛をきっちり二つに結わえてもらった、初めて出会うような我が娘が現れた。私はパウダーを使ったこともなければ、長く伸びた前髪が邪魔だからチョンマゲ風に一つに結うだけだった。1歳2ヶ月の子もおしゃれに装ってくれようとするところに、タイ人の美に対するこだわりを感じた。それがいいかどうかよくわからないが、ともかく可愛がってくれることだけは確かだと思った。
「何にもしないで連れてきてください!」というチュ姉さんの言葉の通り、本当に娘はいつもほとんど起きたままの状態で保育園に連れて行かれることになった。異国でいきなり母子での生活になり、おぼつかないタイ語で初めて就職した私は、朝の時間は自分の準備だけで手一杯だった。
通訳の仕事を得たことも幸運だったが、なんでもやってくれる保育園と、歩いていける範囲に職場と保育園と住居が用意されていたこともまた、奇跡に近い幸運だったと言える。女性が家庭を切り盛りしながら、子育てや家庭内のことを満足いくレベルまでやるためには、職住接近は必要条件だと思う。男性を優遇する訳ではないが、やはり女性は子どもを産み落とし乳を含ませるという使命を負っているのだから、男女の役割が違ってくるのは当然だと思う。
いよいよ医療通訳としての勤務開始となった。私と同時期に、もう一人日本人女性の通訳が採用され、二人で日本人通訳部門を作っていくことになった。彼女は在タイが長い人で、家族もタイ人で言葉もぺらぺらの人だったので、何かと助けてもらった。何しろ私は、病院通訳はなんとかできるが、日常会話はほとんどチンプンカンプンで土地の事情も何も知らなかったから。
ここで、病院通訳の方が日常会話より難しいのではないか、と一般の人は思うかもしれないが、私にとっては逆だった。私は通訳を開始するにあたり、タイ語で書かれた看護学の教科書を読んで語彙を覚えた。看護学そのものは看護師である自分にはわかっているのだから、語彙さえ覚えればいい。医療の専門知識がない人にとっては、タイ語がわかっても、病気のことや治療のことがわからないと、真に理解するのは大変だろうと思う。しかし医療現場の手順や、一般的な治療のやり方や考え方が分かっていると、言葉がところどころわからなくてもある程度予測ができてしまう。それに患者さんの訴えることや気持ちも、そんなにバリエーションがある訳ではない。外来に来て不調を訴える患者さんは、発熱、頭痛、気持ち悪い、咳や鼻水がでる、ヒューヒューする、血圧が高い、くらいのものである。入院が必要となるような別の病気もあったが、それでも、日本の一般病院で見られる疾患ばかりで、大学病院レベルのものはなく、内容が限られていたのである。案外多かったのが歯の治療で、よく歯医者の外来からお呼びがかかった。
そしてもう一つ、私がタイの病院通訳をできた大きな理由がある。これは現代のタイを映し出す事情の一つでもある。それは、タイ人のドクターが華僑が多く、地元のなまりが全然ない標準タイ語を話してくれたからである。タイは半島なので、辺境のミャンマーやラオス、カンボジアから南下して来た人たちと古くから交流があったため、純粋なタイ人という人がそもそも存在するのかよくわからない。しかし例えば、私がタイ語を習った先生が、「僕は純粋タイ人。肌も黒いし、顔は丸くて、鼻ぺちゃ」と自嘲しながら「タイ的」であることを誇張していたことを思い出す。彼は東北出身のタイ人だった。「タイ的」な人には、確かに外見的にも特徴があるし、異なる言語や方言がある。しかしなぜか、勤めた病院の経営者から現場のドクターまで、ほとんどのドクターが華僑の子孫のようだった。記憶に残る限り一人くらいは、肌の色が濃くてちょっと違う雰囲気のドクターがいた。その先生のタイ語は、やっぱりちょっとわかりづらかった。
日本でも医学部に入ることができるような人は、塾に通ったり進学校に行くことができる、親の経済力というバックアップがある人たちである。タイでもやはり同様で、貧しい家庭出身者は、優秀であっても最初からチャンスが限られてしまい、医者になるのは容易ではない。そして現代のタイでは、お金を持っているのは華僑や、もともと資産や家名があるようなタイ系の人たちである。国を追われても今だに内政に影響力を及ぼす元タクシン首相も、一見してわかる華僑である。そんな訳で、華僑ドクター連中の、話し言葉と思えないくらい丁寧でスマートな標準タイ語に助けられて、私は通訳者としてなんとか面目を保つことができたのだ。

教訓2:海外で看護師の仕事をしたい、という方へのアドバイスは、語学が堪能になってから仕事をする、というのではなくて、言葉は仕事をしながら覚える、と思っていた方がいいことである。専門知識と専門領域が、自分で考える以上に語学力を補ってくれる。日常会話こそ難しいものであり、病院の中の会話の方が、専門職にとってはずっと簡単なのである。

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