勉強したり散歩したり楽器の練習をしたり

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コラム
私はかつて中高の数学の教員でした。よく大学時代の友人知人に原稿を書いてもらって「東大合格者の高校時代の勉強法」などと表題をつけて生徒に配っていたものです。それはあまり好評だとは言えないものであり、しかも教員でなくなったときに消えた原稿ですが、結果的に私自身の勉強となったものでした。

そのなかで、複数の人が挙げていた勉強法があります。典型的だったのが、オーケストラのある先輩で、物理学で大学の先生になっている人の書いていたことです。その人は、勉強したり、勉強に飽きると散歩をしたり、また勉強をしたり、部屋の掃除をしたり、あるいは楽器の練習をしてはまた勉強をするというサイクルだったそうです。いろいろなことを同時進行で行うやりかたですね。その人は「自分は飽きっぽいからかも」と書いていましたが、これは多くの人の実践している勉強法であるようです。

このほうが勉強ははかどるということの「証拠」みたいなものがあります。学校の「時間割」というものの存在です。1時間ごとに「国語」「算数」「図工」「体育」みたいになっていたでしょう。それが1週間続いて、1週間に1度、日曜日は休みます。あの「時間割というものの存在」がまさに、「あれをしたり、これをしたり」というやりかたのほうが頭に入る証拠ではないかと思います。「月曜は1時間目から6時間目まですべて国語」「火曜は1時間目から6時間目まですべて算数」というふうにはなっていません。それは人間の生理に反していることは感覚的におわかりになるのではないでしょうか。そして、水曜が1時間目から6時間目まですべて体育だったらとてもではないですが身が持ちません。

あるとき、ある数学の教員が、授業の遅れを取り戻すために、春休み中に、大教室に数クラスの生徒をいっぺんに集め、午前4時間、それを月から木の4日間行ったことがあります。とてもパワフルな教員ですが、内心、私は「乱暴なことをするなあ」と思っていました。数学の授業というのは、週に4時間くらいあるものです。たとえば「月、火、水、金」という感じですね。その「集中講義」は、1日で1週間分進めたのであり、たった4日間で4週間分を進めたことになります。「いくらなんでも消化不良を起こすだろう」と思って見ていました。

私のある友人は、とても本が好きですが、同時に何冊も読み進めます。しかも「入浴中はこれ」というふうに本が決まっているそうです。考えてみると、私も本は数冊を同時進行させています。そのほうがスムーズなのです。聖書を読んだり漫画を読んだり、ときに過去の日記を読んだり。これは、上述の「時間割」と同じ感覚だと思います。

私の友人で、現役時代に司法試験に受かった法学部の仲間がいます。(とても司法試験が難しかった時代の話だと思います。いまの司法試験がやさしいと言っているわけではないことをどうぞご了承ください。)彼は、1週間に1日は、まったく勉強をしないという日を決めていました。確か彼はそれが木曜日だったと思いますが、これも同様の発想だと思います。彼はわれわれの年で、文系で一番で東大に受かったのだと他の仲間から聞きました。つまり彼はわれわれの年で「文系で日本一賢かった人間」かもしれないのですが、彼もそのような勉強をしていました。彼が「民法」や「刑法」までサイクルさせていたのかまではしりませんが、確かに同じころ私も大学で「解析」「代数」「幾何」「応用数理」のサイクルで必修の数学を学んでいました。

「7日に1度休む」というのは旧約聖書にルーツがあります。神が6日間で天地万物を造り、7日目に休んだというところから来ているのです。おそらくは「7日ごとに休む」という習慣が先にあったのだろうと思いますが、これはだいたい人間の生理なのでしょう。「時間割」に限らず、習い事の多くは1週間に1度だったりしますね。

そのようなわけで、勉強をしたり散歩をしたり掃除をしたりまた勉強をしたりするのは、人間として自然であるように感じられます。個人差はあると思いますが、多くの人にとってそれは「頭に入りやすい」勉強のしかたのように思われるわけです。
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