ペロリと食べきる息子。
かまって欲しさに、わざわざ私をこき下ろすのはいかがなものか。
しかもおまえ、どんだけ、きんぴらが好きなんだよ!!
そういえば夫も、普段の食事については何も言わないのに、
食卓に総菜が増えたときだけは、しっかり指摘してくる。
夫が私の手料理を楽しみにしてくれていることを、
いつも思わぬところで知らされる。
なぜ我が家の男どもは、こうもあまのじゃくなのだ。
裏返った愛情表現を、表にひっくり返すのに慣れすぎて、
もはや何から何まで「アイシテルのサイン」に感じられてくる。
そして、はたと気づく。
私はどれだけ、率直な愛情表現ができているだろうかと。
寂しさを、挑発的な攻撃で発散させてはいなかったか。
感謝の気持ちを、斜に構えた態度で握りつぶしてはいなかったか。
期待が裏切られたことで、相手を責めてはいなかっただろうか。
おそらく、相手に望むことは皆一致している。
つながりを感じたいのである。
気付いてほしくて、わかってほしくて、愛してほしくて、
そして、そのこと本当は諦めたくない。
だから、不快な感情と言葉を使ってでも、
つながりを求めようとするのだろう。
無駄な遠回りだなとつくづく思う。
自分を守るために「私は悪くない」と鎧を身にまとう。
つながりを感じたいはずが、わざわざ自分の殻に閉じこもる。
そして相手を試す。この殻を割って、中に入ってきてくれることを期待して。
気付いてほしい。わかってほしい。愛してほしい。
率直にそう伝えれば、殻などなくなるのに、それができない。
それもまた、人間の愛すべき弱さなのかもしれないけれど。
私はきんぴらを、鍋いっぱいに作る。
そしてこれ見よがしに、大皿に盛り付けて食卓の真ん中に置く。
きんぴらと、ニコニコしている私の様子を見て、
息子は再び得意げな顔になる。
私の不器用な愛情表現が、ちゃんと息子に届いた気がして、
思わず私も、得意げな顔になってしまった。