【認められることに労力を使わない】

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日常的スピリチュアル、安田です。

認められたい思いは
誰にでもあるのですが
認められることに
労力を使ってしまうと
肝心なことに投入することが
できなくなります。
集中、投入力には
限りがあります。
無限に集中、投入ができれば
どんなことに労力を使っても
何の問題もないのですが
私たちの労力には
限度があるのです。
限界まで歩むことは
必要なのですが
限界まで歩むためにも
無駄なことに労力を
使わない方がいいのです。
認める、認めないかは
その人の主観であり
場合によっては
気分でもあるのです。
つまり、大した基準で
認めたり、認めなかったり
しているのではないのです。
認められることに
労力を使うのではなく
努力することに投入する
意識をしてください。
投入する歩みをして
結果的に認められることがありますが
認められるかどうかは
どうでもいいことなのです。
私たちの歩みというのは
認められるために
歩んでいるのではないのです。
成長するため
貢献するために
歩んでいるので
認められなくても
何の問題もないのです。
これからの時代は
窮屈に歩んではいけないのです。
自由な発想から
創造することが
求められているので
窮屈さを感じては
いけないのです。
認められるために
歩むというのは
自分で自分を
窮屈にしています。
新しい発想というのは
心理的な自由を感じることで
湧き上がってくるのです。
現実的に拘束
縛りの時代は
終わっていきます。
管理される時代が終わり
自己管理で歩む時代に
なっていくのです。
自己管理で歩むようになれば
良い意味で我が道を歩むことができ
価値を創造する歩みができるのです。
創造するというのは
無から有を生み出すことなので
より投入することが必要なのです。
創造は、投入の度合いに
正比例するので
投入する基準を上げることで
価値を生み出す歩みができます。
時代の恩恵によって
一人で歩むしかない
環境になることで
認められることを
求めにくくなりました。
一人で歩むのは
孤独との闘いでもあるのですが
一人で歩むことで
認められることを
諦めることができます。
努力というのは
誰にも知られないようにすることで
最善を尽くすことができるのです。
孤独に耐えられない人が
多いのですが
感じたくない感情に
耐えられないのです。
感じたくない感情は
誰でも避けたいのですが
一人で歩むようになれば
必然的に感じるようになります。
みんなと仲良く歩んでいれば
それなりに気が紛れるのですが
一人で歩むことで
自分が感じていること
考えていることが
あからさまになるのです。
感じたくない感情に
耐えられないのですが
感じたくない感情によって
自我が崩壊するのです。
必要ない自我が崩壊することで
新しい自我が目覚めるようになるのです。
私たちの歩みは
シンプルにするべきなのです。
時間、空間の制限があるので
できることには限りがあります。
労力も使えば
消耗するのです。
無駄なことに
労力を使わないためには
何が必要なことなのかを
明確にしていくことが必要です。
努力は無駄にはなりませんが
どうにもできないこと
コントロールができないことは
無駄な労力になってしまうのです。
認められることを
基準にしないことで
自分の軸を基準にして
歩むことができ
集中、投入する歩みから
価値を生み出すことができます。

今回も読んで頂きましてありがとうございました。
安田 悌
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