私の半生

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コラム
言葉にする、文字を書く、自分自身の言葉を表現することが許されなかった。
大袈裟に聴こえるかも知れないですが事実です。
これは私が子供の頃に味わった事です。妹が生まれ姉妹が成長していく過程で母親の子供への勝手な思いと執着心から起こった事です。
妹とは父親が違う事から始まりました。
母親から見た私達姉妹の優劣を付け始めました。世間体を気にするからだと思いました。
私の過去は長い説明をしないととても複雑な生い立ちです。母親の話ですが。東京に親戚がいる関係で結婚話があったそうです。
私の祖父(母方)の弟(大叔父です)が東京に住んでいました。その大叔父の妻の弟が私の父です。その父との結婚話が母に来ました。祖父(母方)も自分の弟が近くにいるから酷い扱いは受けないだろうと思い東京に嫁がせたそうです。
その間に大叔父夫婦が祖父(父方)の敷地内に3軒住宅を勝手に建て、その中2軒は売却し残りの1件に自分達が住み着いたと聞きました。大叔父夫婦の家を見た母が感じたことは物凄く立派な家で城のように見えたそうです。
母の新婚生活はその家の2階住まいになったそうです。母は朝早く起きて叔父夫婦家族の食事の支度をすることが日課になったそうです。母はお手伝いさん扱いされて不満に感じていたそうです。私ができた事もありしばらくは一緒に住んでいましたが、何年か経つと自分の置かれている立場の事を考える様になったのでしょうこのままではいけないと思い始めたそうです。祖父(父方)は娘夫婦(大叔父夫婦)がしたことを不本意に思っていたのでしょう。不安を感じて子供達(大叔父夫婦)に内緒で自分の名義の財産を自分の長男である私の父に生前贈与しました。母はその頃大叔父夫婦と喧嘩して卓袱台を投げ付けられて追い出されたそうです。それから母と父と祖父と母屋で暮らす様になったそうです。
昭和30年頃から祖父と父が身体を壊して入院する事が多くなりました。父は肺病(肺結核)になりその頃から母も働き初める生活が始まりました。母の給料で3人を養う状態でしたが、その5年後に祖父と父の2人を相次いで亡くなりました。そんな折大叔父夫婦から2択を投げ付けられました。私を置いて実家に帰るか!義弟と再婚するか!選ぶように言われたそうです。母はここで妹の父との再婚を選びました。
それから妹が生まれました。姉妹が成長するにつれ言い方は悪いかも知れませんが優秀かそうで無いか差が出はじめ、母親の私への扱いが変わりました。義父の手前もあったのかもしれませんが、少しずつ変化していきました。
小学生、中学生の頃から変わり始め、圧迫感を感じる事が多くなりました。とくに世間体を気にする母親は妹が賢いので扱いが違いました。とにかく私のする事を監視する様になり、威圧、ツネる他には余計な事を口にするな!妹に任せるからおまえは黙っていろと小言を言い出す。この頃から自分の考えや気持ちを表現する事が全く出来なくなりました。妹にも遠慮気味になり、私も人目が気になり初めました。この生活を50年近く過ごして来ました。私が実家を離れてからも母親からの監視は解けることがありませんでした。今は母親も亡くなりやっと自分の考えや、感じた事を言葉にする事が出来るようになりました。50年分の自分を表現するのは下手ですがこれからも素直に感じた事を表現したいです。

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