経歴

経歴

  • 神職 1999年6月 現在

  • 生まれてから / 神職になる前 1974年11月 1998年3月

    私は兵庫県で生まれました。 私の家は、江戸時代から続くある宗教の教会です。 現在、教会が設立されて、90年を越えました。 祖父が昭和2年に教会を設立しました。 祖父は人の話を聞き、教えを伝え、神様に祈り、たくさんの人が救われていきました。 私はその祖父の一生懸命な姿をみて成長してきました。 その祖父も亡くなり、父が2代教会長となり、私も大学生になりました。 私も思春期を越え、おとなになっていく間に いつしか家業である宗教というものが嫌いになっていきました。 そのころオウムの事件や、霊感商法といった いかがわしい宗教に関わる事件や社会問題が多数あったことも大きな要因ですが、 自分の目で見たものしか信じられなくなっていたことが 嫌いになっていった一番の要因でした。 祖父や父のやっていることは 尊く素晴らしいことと感じていましたし尊敬もしていましたけど、 ただ宗教、神様というものだけ嫌悪感を感じるようになっていきました。 そんな中、京都の大学へ通うようになり、 学生時代は、勉強もそこそこに ずっとバイトをしては世界の後進国へ旅行へ行っていました。 特にネパールへ行ったことが心に残っています。 そしていつかは海外青年協力隊になって、井戸でも掘るんだと思っていまいしたが 急遽、父が倒れることになります。 それは大学生活も4年たち最後の年の秋。 いつものように学食で楽しく友人と話していた時 妹から携帯に電話がありました。 「父さんが倒れたから、今すぐ帰ってきて」 すぐに帰り病院へ行くと、脳内出血で倒れた父が寝ていました。 一命はとりとめたものの、右半身に重度の麻痺が残る状態で これからは介護が必要になるということでした。 「これはえらいこっちゃ、一家の一大事。教会はだれがするん?」ということで、 私は跡取りとして、家業である神職を目指すことになりました。 宗教、神様が嫌いな私が、一年間修行へいくことになりました。

  • 修行時代 1998年5月 1999年4月

    大学もなんとか単位ギリギリで卒業し、 その年の5月から修業に入りました。 期間は一年間。 おなじ神職を目指す人たちと、起居一切同じように過ごしていきます。 全寮制みたいなものです。 朝(?)3時に起き、祈念。 掃除 一汁一菜の質素な食事 午前中は教義などの授業 葬儀など儀式を仕える授業 掃除 祈念 一日に何度も祈りの時間があります。 あとは掃除。 ゴミをとってキレイにすることが第一目的ではなく 掃除をする中で、自分を見つめこころの掃除をして整えていく。 これが第一目的です。 だから、だれかが拭いた畳を、私が拭くこともあります。 それにしても一番の問題は 私自身が神様を信じられず、祈ることができなかったこと。 みなと同じように、ポーズだけでもしてればよかったのですが 私は根が真面目ですから、自分にウソはつけないんです。 みなが頭を下げて、祈念しているのですが 「頭を下げる対象もわからんのに、よぅせんワ」 という思いで、毎日毎日私だけは頭を上げて直立しています。 だからすごく目立つ。 周りから見ると「何しているん」って感じです。 担当の先生にも理解してもらえませんし 同期の人にも「なんで修行に入ってきたん?」 と言われる始末。 でも「私なりに」真面目に考えて向き合っていたのです。 そして一年間、頭を上げたまま過ぎていき 卒業もせまった3月のある日、担当の先生に呼び出され 「あなた卒業できないかもしれませんよ」 と言われました。 私は「なんでですか。授業も出てるし、テストも点数取っているじゃないですか」 というと担当の先生は 「祈ることのできない宗教家はありえへんやろ」 と言われました。 確かに。。。 そして私を「卒業させるか審議会」が持たれたそうで たくさんの先生方が話し合ってくださり 「今後に期待しましょう」 ということで、温情の中、何とか卒業させていただきました。 ちなみにここで今の妻と出会っています。 同期のみなさまに助けられ、妻とも出会わせていただき 今では神様の御縁でつなげて頂いたと、ありがたく思っています。

  • メール相談をはじめて / 祈れるようになる 1999年6月 2001年10月

    卒業後、やはり神様のことはわからないまま やはり祈ることはできまませんでした。 修行に行っていた一年の間に、脳内出血で倒れた父も少しずつ回復し、 家で介護をしながら、母と一緒に教会のこともさせてもらいました。 祈ることはできないけど、雑務の手伝いならできましたからね。 卒業して一年ほどたったある日 修行中同じ釜の飯を食った同期の一人がホームページを立ち上げ メール相談を始めました。 そして私にも「相談員になってくれへんか」と言われて 私はしぶしぶ引き受けました。 それからメールがくるようになりました。 内容のほとんどは、精神疾患を持つ人の苦しみでした。 私はこれまでの人生で「死にたい」といった人に出会わずに生きてきましたが メールで相談を始めてから、一日で一番聞く単語になりました。 一生懸命メールを書いて送っても、返事がありません。 次のメールも同じ。また次も。。。 私の返信内容がいけないのだろうと 精神疾患に関する本読んで勉強して いろいろ考えて、一通のメールを書くのに8時間かかったこともありました。 それでも返信が返ってくることはありませんでした。 ある日、その中でも超ヘビーな生い立ちで もうどうやって返事を書いていいのかわからず 一文字もキーボードを打てないことがありました。 こんなかわいそうな人っているんだ。。。 つらかろうなあ。。。 パソコンの前にそういう思いでいたら 知らないうちに、祈っていました。 「どうにか助けてあげてください」「なんとか。。。」 というふうに、心の中で初めて祈ることができました。 修行中の神様がどうのこうの、というのは吹っ飛んで かわいそうになあ。。。という思いから祈ることができました。 そして祈りながら、一文字一文字、すごい時間をかけて返信することができました。 するとその方から、初めて返信が来ました。 すごくうれしかったです。 うれしいものですから、祈ってメールを送り また返信があり、祈ることが普通になってきました。 そしてだんだん楽になっっていかれました。 本読んだりネット見て勉強したけど 「もう理屈じゃないんだな」 と思いました。

  • 父が二度目の脳内出血で、全身麻痺に / 私は結婚、父親に 2001年10月 2006年4月

    やっと祈れるようになった私は それから納得して、神様の御用ができるようになりました。 父もだんだん元気になり、杖をつき、母の介助を得ながら 散歩ができるようになりました。 教会でも皆さんの前でお話ができるようまでなっていました。 しかし2001年の10月、再び脳内出血が起こり 今度は前と逆の脳が出血し、全身麻痺になりました。 またしても一命はとりとめましたが 全身に重い麻痺が残り、トイレ、食事、お風呂、着替えなど 生活一切、介護が必要な体になりました。 母は父に24時間、つきっきり介護生活になりました。 私はこれを機会に、教会のことを100%私が受け持つことになりました。 祈れるようになりましたが、神様のことはやはりまだわからないままですし 信心を伝えることも、悩みや願いを聞くこともどうやっていいのかわからぬまま とにかくがむしゃらにするしかありませんでした。 様々なことがわからないまま、やるしかありませんでした。 そういう大変な生活の中 ありがたいことに修行中から交際していた今の妻と 2003年に結婚することになりました。 父も車いすで参加できました。 その年の年末、長男も生まれ、 2年後には次男も生まれました。 父の介護、私の教会の御用、育児、結婚生活 家庭の中が激動の渦の中でした。

  • パニック障害になる 2006年10月 2006年11月

    ある日教会で、参拝者の皆様に向けて、 いつもと変わりなくお話しておりました。 すると途中ぐらいから突然動悸が激しくなって、 手にすごい汗をかいているし、呼吸も苦しく、「はあはあ」いうようなことになりました。 心のなかで「やばいやばい」と思いながら、皆さんに悟られてはいけませんので いつものように「ありがとうございました」と 何とか形をつけてお話終わりましたけど、 今となっては何しゃべったのか覚えておりません。 逃げるようにして奥の部屋へ下がり、倒れ込みました。 そしてその日を境に、神様の御用が一つもできなくなりました。 お広前に入ることすらできなくなりました。 それでしばらくの間、もう何日も何日も御用を休ませてもらいました。 私がせねばならない役割を、妻と母が一所懸命代わってやってくれました。 私は部屋にこもり、ずっといろいろと考えました。 初めて自分というものを見ていこうとしましたし、 見ていかざるを得なくなりました。 神様の祀るお広前に入ろうとすると あのときと同じように、動機がし、手に汗を握る状態になります。 そしてとてもしんどくなって、部屋に引き返すことを繰り返しておりました。 1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎる頃、 ずっと仕事を代わってもらっていたので 申し訳ない気持ちがMAXになり お広前の掃除だけでもしようと思って 「死んでもいい」という気持ちでお広前に入りました。 やはり数秒でえらいことになり、部屋の真ん中で倒れました。 すると「今できることだけでいい」と心に言葉をいただき 息をすることから始めました。 「吸って、吐いて。吸って、吐いて。」 すると少し楽になりました。 次は「右手」次は「右足」という風に 一挙手一投足、今できることだけを考えて動かしていくと なんとすべての掃除ができていました。 そしてその日から一週間後に お広前に入っても大丈夫になりました。 どうしてそうなったのか。 父が倒れて自分が教会を引き継いだことで とんでもないプレッシャーで無理をしていたんだと思います。 パニック障害の根本には「死の恐怖がある」とどこかで聞いたことがあるのですが おそらく、私では教会潰れる、「教会の働きの死」が怖かったんだと思います。

  • 電話相談はじめる 2012年10月 2022年8月

    パニック障害から回復し、 自分というものが少しわかった気がしました。 そして無理せず、先の不安より「今できることだけを考えて」生きていこうと 生き方が少し変わりました。 パニック障害を通らせていただいて、本当に良かったと思っています。 今できることだけを考えた時、「電話相談」を始めました。 無理はしない。 先の不安を中心にしない。 困っている人の、少しでもお役に立つために、始めることにしました。 メールでしていた延長ですが やはりいろいろ難しいところを通られている方ばかりでした。 ポートフォリオで書いている内容は、一部この電話相談から抜粋しました。 リストカットは当たり前、OD、摂食障害、クレプトマニア 解離性人格障害、多重人格、希死念慮、DV、性依存症、 もういろいろありました。 親との関係、自己愛の低さ、暴力、などによって これほどまでに生きづらくなる、 自分でもどうにもならない苦しさを抱えてしまう。 口に出して一緒に考え、一緒に祈って、付き添いながら 一つ一つ、一日一日生きていくしかないです。 その中で展開することがあったり、 良い方向へ向かっていくこともあって、ありがたいです。 そうしている間に、父も16年間の障がい者生活を終え 2013年に69歳でなくなりました。 ここまでよく命を神様に継いで頂いたと思います。 亡くなった父が使っていた部屋を、 DV被害者の避難先にしたり、家に帰れない人を泊めたり 人が助かるために、その部屋を使わせていただきました。 電話相談をしたことで、またいろいろな分岐が生まれました。 ココナラさんでもそうですし、 なんといっても養育里親をすることになりました。 何をしても、無駄ごとはないですね。 なにか必要があって、させてもらっているんだと思います。

  • 養育里親① 2019年1月 2019年12月

    まず、私たち夫婦は、平成30年に養育里親にならせていただきました。 一年間何度も研修を受けて、その年末に兵庫県知事から認定を受けました。 この話は、その年に、いきなり始まった話ではありません。 数年かけて夫婦で話し合い、家族ともたくさん話し合いました。 子どもたちに「お父さんとお母さんが養育里親するけどいいか」と しっかり話し合った上、子どもたちに了承していただきました。 養育里親というのは、家庭で育てられない子供を、 里親家庭でお世話をするというものです。 戸籍に入る特別養子縁組ではなく、 戸籍は元のままで、あくまでも家庭でお世話をするというミッションです。 近年、よく児童虐待で子供が亡くなるという ショッキングなニュースがよく報道されています。 その中でもすごく痛ましかったのが、船戸ゆあちゃんの虐待死ですね。 ゆあちゃんが手紙で「明日はできるように頑張るから」 と書いたものがニュースで流れていました。 本当に痛ましい事件です。 もう最近の虐待に関するニュースは枚挙にいとまがありません。 こういうニュースに触れるたびに、 数年も前から 「何とかならぬものか」 「できることはないものか」 という思いは抱いておりました。 平成29年時点で、親元で暮らせない子供がには4万5千人いるとそうです。 満員の甲子園球場1杯分の人数が、親と離れて生活をしているというわけです。 その行き先というのは、ほとんどは児童養護施設です。 4万5千人の4万人が施設です。 後の5千人が一般家庭、里親家庭に委託されているという現状です。 この日本の現状が国連から非難されていまして、 国連の児童の社会的養護の指針では、 「児童たちは原則、家庭環境が与えられること」とあるんですね。 でも日本では、ほとんど施設に入っていますから、 そこをすごく国連から非難されているんですね。 子供は家庭で育てるものでしょう、と怒られているんですね。 こういう国連からの批判と、 今の日本の虐待の件数も増えている現状もあって、 国は里親を増やそうという動きになっているそうなんですね。 そういう中で養育里親にならせていただこうかと、なっていき 平成30年に認定を頂きました。

  • 養育里親② 2020年7月 現在

    平成30年の年末に認定されて、平成31年の年が明けて、 いつ依頼の電話がかかるかと待っていましたら、 半年も過ぎた、令和元年7月5日の金曜日、 児童相談所から、「こういう4歳の子供がいるのですが。。。」 という電話がかかってきました。 何と電話のあった5日後の7月10日に里子がくることになり、 いきなり家族が一人増えることになりました。 この子の背景を簡単に申しますと、 この子はもともと降ろされる予定の子でしたが、 母体の事情により降ろすに降ろせないということになり、 仕方なくといいますか、願われずに生まれてきました。 そして生まれてから、育てられないという理由で、たった4ヶ月で施設に預けられ、 数度実家には帰りましたが、4年の人生のほとんどを施設で過ごしました。 実家に帰っている間に虐待が起こり、保護されて私方に来たという経緯です。 実家では、もう殴られ蹴られ物は投げられ、 暴言も浴びせられという毎日だったそうで、 名前も呼んでもらえてなかったそうです。 「おい」とか「おまえ」とか。 兄弟もいるのですが、親はその子らには機嫌よく接するのですが、 この里子君にだけはだめで、 里子君が部屋に来ると「ママが機嫌悪くなるから、おまえ来るな」 と兄弟に言われ、居場所がなかったような状態だったそうです。 部屋の外で、こそこそと入っていいのか探るような感じだったそうです。 それで2枚程度の着替えと、一つのおもちゃだけを持ってきました。 児童相談所の職員さんが帰られ、とりあえず家の施設案内をしました。 「ここがトイレね、ここがお風呂ね、ここで寝るところよ」 といったように各部屋を見せて回りました。 最後に1階へ降り、お広前を見せました。 「ここはお広前といって神様をお祀りしているところなんだよ。 ここで神様にお願いして守ってもらおうね。 神様は守ってくれるからね。」 といいましたら、「ぱんちとかきっくとかしない?」と聞きました。 「大丈夫だよ。そんなこと心配しなくていい。絶対守ってくださるから!」というと、 すごく安心した顔になりました。 それから毎朝お広前におりてご祈念するようになりました。 こうして家族が一人増えた生活が始まりました。

  • 養育里親③ 2020年7月 現在

    最初は「この子かわいそうになあ」 ということがたくさんありました。 外へ買い物に一緒にでかけて、 帰るとき「どこへ帰るの?」という質問をしてきました。 普通「家」以外考えられないのですが、 もともとの実家や、施設や、一時保護所や、里親家庭や、 過酷な運命に翻弄されて、住むところが定まっていないからなんでしょう。 普通あり得ない質問ですよね。 帰ると言えば家しかないわけですから。 それから夜寝るとき、「明日はだれが起こしてくれるの」と聞いてきました。 今までのほとんどを施設で過ごしていますから、 夜寝るときにいてくれた職員さんと、 朝起きたときにいる職員さんが違うのでしょう。 施設の職員さんは子供のお世話はお仕事ですし、シフト制ですものね。 家庭だとお父さんかお母さんですが、 聞き方が二択の雰囲気じゃないんです。 朝になったら一体どういう人がいて、誰が起こしてくれるの?という感じです。 それからうちに来た当初、 まだ寝るときだけおむつをつけておりました。 自分でおむつをはき、 今まで履いていたパンツを小さい背中を丸めて、 一生懸命丁寧にたたんでいるんです。 その後ろ姿を見ると「ひとりでたたんで偉いね」という思いではなく、 「何とかわいそうなんだ」と涙の出るような思いになりました。 特にかわいそうになあと思うことが、 毎朝、教育テレビで子供向けの番組がありますよね。 里子君は毎朝、その番組が始まる前に、 何冊もアニメキャラクターの絵本をテーブルに並べるんですね。 そしてその並べた本の前で歌い踊るんです。 私も毎朝「不思議なことするなあ」と思っていました。 あまりにも毎朝続くので、ある日聞いてみました。 「何で絵本並べるの?」と。 すると 「このアニメのキャラクターが僕を見てくれるから」 と言うんです。 絵本の表紙って主人公の絵が大きく描かれてじゃないですか。 その大きな目で自分を見てくれていると。 それほどまでに僕を見てもらいたい、 興味をもって注目してもらいたい、 ということなんです。 今に至るまで、そんな風に見てもらえることはなかったのかと思うと、 本当にかわいそうに思いますし、なんて不憫な子なんだと思いました。

  • 養育里親④ 2020年7月 現在

    来た当初は、虐待を受けていた影響で、 まだおでこにかさぶたがありましたし、 私たち夫婦もこのかわいそうな不遇な子のすべてを受け止め、 「家庭とは楽しいところだ」 「親と過ごすのは温かいものだ」 そのように感じてほしいと、一生懸命関わろうとしました。 ところがいざ生活が始まり、 一週間経ち、二週間経ちすると、 「かわいそうに」という思いと、 こちらの「余裕」がじょじょに消えていきました。 日増しに里子君に対して、怒り、失望、いら立ちが生まれてくるんです。 もう全く普通じゃないことの連続、異次元、別世界、別種族。 今までしてきた育児がまるで通用しない。 ちょっと普通じゃないよということばかり起きてきます。 ある一日のことを申します。 朝起きます。起きた瞬間、全力の音量で、アナ雪を歌います。 首に青筋立てて歌いまくる。 近所にも聞こえるぐらいですから、 「ちょっとやめなさい。」と結構きつめに注意して、一応止まる。 施設では当たり前だったのかな、仕方ないな、と思っておりましたら、 次の日になっても同じことを繰り返すんです。 え、昨日言ったやん、と思って、また注意する。止まる。また次の日も同じ。 このループです。 ぜんぜん覚えないし、守ろうという意識がないんです。 午後になり、スーパーへ買い物に出かけます。 店内すべの人に手を振ります。天皇陛下のように。 袋に入っている野菜を開けようとします。 レジで並んでいると、近くの人に見境なくしゃべりかけます。 キスをしようと口を近づけます。 大声で歌う踊る、「人にあたり邪魔になるからやめなさい」と言っても、 しばらく経つと同じようにします。 見てほしいからなんです。 そしてスーパーのお客さんも、私ら夫婦も同じなんです。 それぐらいの絆しかないんです。 あの子からしたら、誰でもいい。 誰でも見てくれればいい。 続く・・・

  • 養育里親⑤ 2020年7月 現在

    くたくたになって、スーパーから帰ると、 本を読んだりテレビを見たり遊んだりするのですが、 それらすべてを見てほしいんです。 「お父さんお母さん見といてや!!」の連発。 本を読んでる自分を見てほしい、 テレビを見ている自分を見てほしい、 普通はブロックで作った作品を見てほしいんですよね。 そうじゃなく「作っている僕を見てほしい」なんです。 このセリフ、10分に一度、「見といてや!!」というんです。 一日中ですよ。毎日その頻度で言われると疲れてくるんです。 ノイローゼになりそう。。。 テレビを見ている姿を見といてと言われて、こちらは何がおもしろいねん、となるんです。 こちらの言うこと一つも聞かずに、里子君は要求ばかりしてくる、 こちらは、どんどん疲れてイライラもたまってきます。 夜になります。 お風呂に入って寝るまでの時間で、塗り絵をしたいと言いました。 お風呂の前だったら手が汚れてもお風呂で洗えるからいいんですけど、 お風呂の後だとまた汚れちゃうから、「また明日にしよう」と言いました。 ですが、少ししたら勝手に塗り絵セットを持ってきたんです。 「どうするかな、まさかしないよね」 と思って見ていましたら、塗り絵をやり始めるんです。 「ちょっとさっき言ったところやん」 ときつめに言うと、泣き出して「ごめんなさい」というんです。 でもこの子のごめんなさいは怒られることを回避するごめんなさいなので、 自分が悪いとは思ってないのですね。 案の定、泣いて謝ってその数分後にまた塗り絵を始めました。 何度言っても、意味がありません。 叱って泣いても反省などしません。 数分後には笑って踊っています。 被害者のようにギャーギャー泣いて「もう怒らないでよ!」と言います。 誰がいけないの?私が悪いみたいに言わないでよ。 もう神経を逆なですることばかり。 いつしか関わりを減らすため、自然と距離をとるようになってきました。 実子たちもストレスの原因である里子君を無視するようになっていきました。 嫌悪感すら覚えるようになりました。 日によっては抱っこできないときがあります。 私の体が触られるのを自然と避けるんです。 ストレスで家庭が崩壊するかと思いました。

  • 養育里親⑥ 2022年8月 現在

    暴力こそないものの、 彼の実家と同じような現象が家でも起こっているのです。 おそらくどの家庭にいっても、程度の差はあれ、同じようになると思います。 これではいけないと、夫婦で毎晩話し合います。 どうしたらいいのか、私たちも反省し、知識も入れ、 あの子のことを分かろうと、何度も来る日も来る日も努力しました。 どうしてこんなに疲れるんだろう。 どうしてこんなにイラつくんだろう。 どうして許せないんだろう。 そしていつも同じ結論にたどり着きます。 それは「結局、まだまだ愛してないからやん」 実子はいつから愛したんでしょう。 きっと大切な妻のお腹に命が宿ったころからでしょう。 お腹をさすって話しかけていましたから。 そして生まれ育つ過程で、 子供が何をしても、どんな失敗があっても、いたずらがあっても、 笑っておれましたし、全然許してきました。 子供たちが掛け値無く私は好きでした。 そういう愛しているという土台の上に、育児があるんですね。 子供も知らず知らず、親との信頼関係を築いてきている。 双方ともにきちんとした土台があるんですね。 そう比べてみると、血のつながりも無い上に、 なんの関係もなくポンといきなり里子君が家にきて、 いきなり愛せといわれても、少し無理があるように思います。 里子君にしても、ポンと家にやってきて、 今日からお父さんですよ、 お母さんですよと言われても、 誰やねんって感じで、信頼してもいいもんやらわからんです。 また暴力を振るわれるかもしれないし。 いきなり信頼できるわけないです。 双方ともに土台がまだない状態。 だからどちらもすごく難しい。 やはりそれ相応の時間が必要なのでしょうね。 信頼関係、絆という土台がない。 そこから始まるということが一番難しい。 問題の根本が、そこに詰まっているため 普通の育児と全く違うんだと思います。 とにかく、そういう壮絶な日が一日、一日、済んでいきました。 彼は家というところで4か月以上暮らしたこともないのですが、 ありがたいことにその4か月も何とか過ぎていきました。

  • 養育里親⑦ 2020年7月 現在

    その頃、発達の医学診断を受けることになり、 いろいろなことがはっきりとしてきました。 でた結果が、ADHD、自閉症、知能の遅れ、それから愛着障害というものでした。 発達の遅れは、先天性のものかもしれないし、虐待の後遺症という可能性もあるみたいです。 虐待により、脳が委縮するということもあるそうです。 ADHD、自閉症は、その子の個性ですし、 いいように発揮できれば、世のお役に立ってきた事例はたくさんあります。 ただ根本的な問題はそこではないんですね。 最後に言われた、「愛着障害」というものなんです。 これが一番大事なところなんです。 ADHD、自閉症、発達の遅れや、施設育ち、虐待による傷、 これらと根本の「愛着障害」というものが複雑に絡み合っています。 「愛着障害」とは特定の人と結ぶ、感情や気持ちで繋がるこころの絆が 作られていない、絆が崩壊していることから起こる生きにくさです。 人との関係がうまく結べなかったり、 いつも寂しさを抱え心が不安定になったり、 ストレスが体に出やすかったり、 不適切な親子関係や養育によって、さまざまな困難が生じてくるんですね。 その絆というのはどうして作られていくかというと、 お腹がすいた時に親がミルクを飲ませてくれたり、 おむつを替えて心地よくしてくれたり、 泣いた時だっこしてくれたり、 欲求を満たし肌と肌が接触する中で、 こどもが暖かく安心で心地よさを感じるなかで形作られていきます。 それは誰でもいいわけではなく、特定の人間との間でなくてはなりません。 里子君の場合は、悲しいかな母親とはそういう関係ではないですし、 人生のほとんどをすごした施設でも、 ある程度特定された担当の方はいらっしゃったでしょうけど、 家庭の親のようにずっと一日中ではない。 お仕事ですものね。シフトもあるでしょう。 ずっと愛をもって興味をもって見続けてくれている特定の人はいないんです。 だから彼の命が本当に欲しているのは、特定の人からの愛情、絆、信頼関係なんですね。

  • 養育里親⑧ 2020年7月 現在

    愛、絆、信頼関係、生命全体でそれが欲しいんだけど、 どうやっていいのかしらない、わからない。 だから初対面で抱き着いたり、 口をつけたり、 スーパーや電車でも誰にでも話しかけ、 だっこしてもらおうとする。 誰にでも。 愛してくれるなら本当に誰でもいい。 手あたり次第です。 家の中では、大人が大事な話をしている時でも、 寂しいから会話に割って入る。 見てもらおうと大声で叫ぶ。 耳が痛くなるほど「見といてや」と繰り返す。 人が寝てても起こして話し出す。 これはこうでしょ!こうしたらあかんやろ!と叱ると、 いけないことをしたことを棚に上げ、 「もう怒るのをやめて」と言わんばかりに、自分が犠牲者のように泣き出す。 こういうことが一日10回20回ぐらいあるもんですから、 私らでなくてもおそらく多くの方が疲れ、結果距離を置くことになる。 本人は余計寂しくなる。 寂しさを満たすためにまた嫌がられる方法をとってしまう。 こういう悪循環により、愛するというところまで非常に遠いんです。 里子君は愛してほしい、私たちだって愛したい。 だけど実際は、どんどん遠い関係になってしまっていく。 というとても悪循環なことになっております。 そんな毎日ですが、これを書いている時点で3年が過ぎました。 毎日命と命のぶつかりあいの中、祈りながら試行錯誤の3年が経ちました。 彼も必死でしょうが私たちも必死です。 彼にとっては家という所で4カ月以上暮らしたことないですから、 只今最長記録を更新中です。 不思議なものです。毎日のことを思うと、 何も変わっていないように思うのですが、 振り返ってみると、すごく変わってきております。

  • 養育里親⑨ 2020年7月 現在

    3年経ち。。 「見て欲しい」ということは、言わなくなりました。 見てもらっている実感が生まれていると思います。 特定の大人(私たち)が、何しろ毎日24時間関わっている。 それが家庭なのですが、家庭の力です。 それと、こちらの言うことを頑張って聞こうとするようになりました。 褒められようと、頑張っていろいろな約束事を守ろうとすることが増えてきました。 この人に喜んでほしいと、私たち夫婦の事を少し思えるようになってきているのかもしれません。 愛着というきずなが少し形成されてきたのかもしれません。 人間、どうでもいい人の言うことを聞こうとは思いませんよね。 この子の中で、私たちが少しずつ特別な意味合いを持った人間と 認識してきているのかもしれないですね。 口もつけなくなってきましたし、 声のボリュームも小さくなり家の音量になってきました。 寝ている人に話しかけなくなってきました。 それから怒られるとき、逃げるためのいいわけや犠牲者泣きをしていましたが、 黙って怒られるようになってきました。 お父さんのいうことを、涙を流しながらもじっと耳を傾けるようになってきました。 外へ出たときも、やさしくされたら誰でもいいから、私たちからすぐ離れていたんですが、 それが私たちの後を追って、ちゃんとついてくるようになってきました。 近い距離で動くようになってきました。 スーパーで皆に手をふることもなくなりました。 家と外の区別ができてきたんだと思います。 少し前後しますが、里子くんが前にいた施設に、挨拶がてら行くことがありました。 来て数ヶ月経った頃でした。 その時、当時担当してくれていた先生が、 里子君とちょっと話したり遊んだり関わってくださって、 その後私たちに向かって「人格がかわったかと思いました」と言われました。 その頃の私たちはストレスのピークで、 今から思えば一番たいへんな時でしたが もうすでに、里子くんはかなり変わっていたようです。 「愛着障害」の克服に向けて 今でも私たちは夫婦協力しながら どうしたら少しでもよくなっていくか話し合いを続けています。 おそらく大人になるまで、この里子くんは家にいると思います。 一日優りでよくなっていきますよう。。。

受賞歴・執筆歴・講演歴

  • 講演

    大阪 教師研修会 2019年12月

  • 講演

    兵庫県西部 教師研修会 2021年10月

  • 講演

    京都信徒会研修会 2022年6月

  • 講演

    神戸信奉者集会 2022年8月

  • 受賞

    ココナラ初出品 2022年8月

  • 受賞

    ココナラ初売上 2022年8月

  • 講演

    兵庫県○○教会講師 2000年10月

  • 講演

    大阪府○○教会講師 2001年4月

  • 講演

    兵庫県○○教会講師 2004年10月

  • 講演

    兵庫県○○教会講師 2005年10月

  • 講演

    兵庫県○○教会講師 2006年4月

  • 講演

    兵庫県○○教会講師 2006年11月

  • 講演

    兵庫県○○教会講師 2007年11月

  • 講演

    兵庫県○○教会講師 2009年4月

  • 講演

    兵庫県○○教会講師 2012年3月

  • 講演

    アメリカ・ハワイ講師補助 2012年3月

  • 講演

    兵庫県○○教会講師 2013年11月

  • 執筆

    1年祭偲び草執筆 2014年12月

  • 講演

    兵庫県○○教会講師 2015年11月

  • 講演

    大阪府○○教会講師 2016年5月