私は若い頃、「自分は選ばれた人間だ」と本気で考えていました。恥かしい話ですが事実です。
というのもそう考えないとこの先が不安でたまらない時期があったからです。
何をやってもうまくいかない、思い通りにならない、そんな時努力して直していかなければならない、それはわかっていました。文字通り努力もしました。
でも結果は変わりません。
努力のかけ方が間違っているとか、それほどの能力はないとか、一時的に思うことはあっても、それでも色々と道を選びながら続けてきました。
「自分の姿は本当は違う」と自分に思い込ませてきました。
続けてきたことに後悔はありません。
でももうそろそろ「あきらめる」時期にきています。
いい意味であきらめることにしました。
そんな時、ある新聞記事を見つけました。
お笑い芸人の髭男爵・山田ルイ53世が自らの「6年間の引きこもり体験」について語った読売新聞掲載の記事です。
有名私立中学に通い、近所で神童と言われていた彼が中学2年生からある些細なことがきっかけで6年間引きこもるようになってしまいました。登校中におなかが痛くなりウンコを漏らしてしまったようです。
完璧な自分を求め、中学受験のころから始めた勉強の段取りルーティーンがエスカレートして、掃除をして机を整理し、しまいには、折れたシャーペンの芯がじゅうたんに紛れたら見つかるまで何も手につかないような。段取りに振り回され、夏休みの宿題もできなかった。
休むというと父親にドロップキックを喰らいました。
それまで完璧な息子だったから、父親も子供に対処する引き出しの中に方法が何もなかったように思います。中学は4年間在籍して卒業扱いにしてもらいました。
親に言われてコンビニでアルバイトをした時期もあった。それでも家の近所は友達に見られてやめました。「転落した」と思われるのが恥ずかしかった。
「自分を許してあげられなかった。あきらめてあげられなかったのが苦しむ原因になりました」
苦しい体験をしたからこそ核心を突く言葉に、ハッとさせられます。
簡単だけど難しい「あるがままを認めてあげる」ことが時として本当に大切になってくるのだと思います。
他人のFacebookのアルバムは、その人が最高に輝いていた時です。
そんな写真を羨んでみても意味はありません。
思い通りの自分になれず、心労を感じてしまった経験は、多かれ少なかれ誰にもあります。心が疲れてしまうことは、誰にでも起こり得ることです。そんな時は、無理せず、ゆっくり焦らず休んでみるのもいいかもしれません。
そしてこんなことを言っています。
「みんながキラキラしてないとだめだっていうのはウソです。 みんなが輝かしいゴールを切れるわけでもないのに、みんなそうなろうって風潮があり過ぎる。」
「なんにも取りえがない人間が、ただ生きていてもなんにも責められれへん社会、いうのが正常です」
「何の取りえもない人間が、ただ生きていても何にも責められない社会」
忘れていませんか?
「こうありたいという自分をあきらめて、こうなれない自分を明らかにする」
「あきらめる」という言葉の語源は、あきらむる=あきらかにする。
「あきらめる」とは、自分はそんな大それた人物ではないと自分の評価を下げることではありません。むしろ考えず気負わず、今の状態をそのまま認めることです。
自分をあきらかにしたあと、自分なりの価値観や経験、強みを生かして「なりたい自分」になってください。
自分以外の誰かになろうとしないことです。