【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 014】楊志

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※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。
※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。
※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

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『水滸伝(水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。
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楊志(ようし/yáng zhì)

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<三元論に基づく個性判定>
12番 **とても強い生存欲求**、**弱い知的欲求**、**とても弱い存在欲求** - **「孤高の戦士」** - 他者に頼らずに自分一人で行動することを好み、強い自己防衛意識を持つ。

<概要>
顔には大きな青い痣のある男。そして『水滸伝』の中でも特に"ツイていない"男。それが楊志(ようし/yáng zhì)だ。あだ名は顔の痣に由来する。「青面獣」。中国史における英雄、楊家将(ようかしょう/yáng jiā jiāng:後述参照)の末裔であり、武術試験に合格して武官の地位に就いた。その後、地道に殿帥府の制使を務めていたが、花石綱(徽宗皇帝による特別税:東南アジアにある珍しい草花や奇岩を収集する輸送部隊または財そのものを意味する)の任務において悪天候により収集物を失ってしまう事態に陥って失職。奸臣の高俅(こうきゅう/Gāo Qiú)に復職を懇願するも叶わず、困窮のあまりに家宝の刀「金花嵌龍宝刀」を街中で売ろうとする。その刀の売却を巡って地元のヤクザ者である牛二と揉み合いになり、彼を刺し殺してしまう。楊志は自首をし、大名府に配流。そこで奸臣の梁中書(りょうちゅうしょ/liáng zhōng shū)が彼の武芸の才能に目を付け、彼を管軍提轄使に昇進させると共に、生辰綱(誕生日祝い:民からの増税によって蓄えた賄賂)の護送任務を担当させる。生辰綱は前年も山賊に強奪される事態に陥っていたので、楊志は細心の注意を払って任務を遂行。しかし、途中までは問題なく任務をこなしていたものの、晁盖(ちょうがい/cháo gài)や呉用(ごよう/wú yòng)らの策略によって生辰綱を奪われてしまい、これにより失職。彼は刑罰を恐れて京には戻らず、二龍山の山賊勢力に逃れるしかなかった。二龍山勢力と梁山泊勢力との合流によって彼は百八の英傑のひとりとなり、大結集の際は序列第17位に定まった。その後は花栄(かえい/huā róng)、徐寧(じょねい/Xú Níng)に続く「騎兵八骠騎兼先鋒使」として全戦で活躍。しかし、最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)勢力の討伐時に丹徒県で病を患い、回復する事なく他界した。後に朝廷は彼に忠武郎の称号を追贈した。

<北宋、南宋は英傑の宝庫>
宋王朝時代はどことなく現代の日本社会の構造に似ている。政治家や官僚は派閥と権力闘争に腐心して自己保身と責任転嫁で大忙し。戦争や疫病などの有事によってどれだけ民が疲弊しようが、"お友達"と手を繋いで一生懸命に自分の陣地を守る事に熱中する。あまつさえ彼らは気まぐれで何の実行力もない愚策ばかりを撒き散らしながら、増税に次ぐ増税によって民の生気を吸い取り続ける。そのような統治者の強烈な弱体にも関わらず、商業と文化の大発展によって何となく民は太平を巡遊していて、戦争や疫病などにおいて直接被害を受けない大多数は"不正な平和状態"を満喫。このような状況で誰がもっとも割を食うかと言うと、天(統治者)と地(大衆)の間にいる、最前線で活躍している実務者たち(下級役人、地方武官、反乱指導者など)となる。彼らは自分の所属する組織がどれだけブラックでも、必死に家族と国と文化を守る為に奔走し続ける。この天地の圧迫の結果、過酷な環境で栄養と味わいが濃縮されて作物が育つのと同じように、中間にいる実務者たちの中から突出した英傑が登場していった。楊志(ようし/yáng zhì)の祖先であると設定されている「楊家将(ようかしょう/yáng jiā jiāng)」もまた、そうして生み出された宋王朝時代の英傑たちである。

<楊業の忠義の戦いと悲劇的結末>
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『楊家将演義(楊家の武将たちの物語)』は『水滸伝』同様、大衆物語の創作気風に満ちていた明王朝の時代において大人気の題材とされた。現在でもドラマや漫画など多くの派生作品がある。実在の「楊家将」は楊業(ようぎょう/yáng yè)という人物から始まる。彼の生年は不明、没年は986年。麟州新秦の出身で、後漢の麟州刺史であった楊弘信の息子。元々の名前は楊重貴。後に北漢の世祖である劉崇から劉繼業という名前を授かって、北宋への帰順後に楊業へ改名した。

この楊業は幼い頃から豪放な子であったらしく、騎馬射箭が得意で、狩猟を好み、その成果は他人よりも数倍も多かったらしい。彼はかつて従者に「将来、私は将軍となり軍を率いることになったら、鷹や猟犬で野鳥や野兎を追うように指揮する」と語った事があるという。弟の楊重勳は後周(『水滸伝』の柴進[さいしん/chái jìn]はこの後周皇族の末裔)に帰順したが、楊業は幼少時から北漢の世祖の劉崇に従った。彼は劉崇の保衛指揮使として名を上げて昇進を続け、建雄軍節度使となって多くの戦功を立てた。開宝元年(968年、北漢天会十二年)、劉繼元が北漢の皇位を継ぐと、彼は侍衛都虞候として北宋との戦争に参画。大苦戦を強いられて撤退を余儀なくされるも、遼国(りょうこく/liáo guó)の軍事支援を取り付けて北宋軍の撃退に成功。この時、楊業はこの遼国が後に裏切る事を予見して、「契丹(遼国)は利を貪って信を捨てる輩です。他日、必ず我が国を破るでしょう。今、救援軍は傲慢で備えがないので、これを襲撃し、数万の馬を獲得し、河東の地を取り戻して中原に帰属させることで、晋人を戦禍から免れさせる事が出来るはずです。」と進言している。しかし、劉繼元はこれを拒絶。この楊業の予見は後に現実のものとなる。

太平興国四年(979年、北漢広運六年)、北宋との戦争に決着が付く。劉繼元は宋軍の猛攻に敵わず降伏を決意。宋の太宗は楊業の名声を聞いていたので、劉繼元に楊業を降伏させるよう説得。楊業は北面再拝し、泣きながら甲を脱いで降伏し、太宗に謁見。太宗は彼の降伏を非常に喜び、彼を元の姓である楊氏に復す事、そして名を単に「業」と改める事を命じて、以後は北宋の武将として活動するよう命じた。彼は太宗の信頼を得て、左領軍衛大将軍、鄭州防御使、代州知州兼三交駐泊兵馬部署を歴任。太平興国五年(980年)三月、楊業が予測していた通りに遼国(りょうこく/liáo guó)との戦争が勃発。十万の兵を率いた遼国の侵攻に対して、楊業は数千の騎兵を率いて西陉から出発し、雁門関の北に回り込み、遼軍を南北から挟撃。この戦いで遼の驸馬侍中萧咄李を討ち取り、馬步軍都指揮使李重誨を生け捕りにした。この「雁門関の戦い」における彼の功績は国防面において極めて大きなものであったので、彼は太宗から更なる信頼を言えて雲州観察使に昇進した。この頃から彼は朝廷内部や既存の武将たちの嫉妬を買うようになっており、楊業に対して言われのない誹謗を上奏する者もあった。しかし、太宗皇帝はそれらに目を通しても、楊業を一切罪には問わなかった。

雍熙三年(986年)、宋太宗は遼国を北伐し、燕雲十六州を取り戻すことを決意。忠武軍節度使の潘美(ばんび/pān měi)を主将に、楊業を副主将に任じ、各路の大軍が連続して雲州、応州、寰州、朔州の四州を攻め取る作戦を敢行した。しかし、東路の曹彬の部隊が岐溝関の戦いで惨敗した事を発端として、北宋側は全軍撤退を余儀なくされる。まもなく朝廷はこれら四州の民を内地に移すよう命じ、潘美らに部隊を率いて民を護送するよう指示をした。楊業は戦況が極めて悪い事から防御体制で護送任務を徹底するべきであると言ったが、彼の存在を妬んでいた王侁や劉文裕らが「大々的に雁門北川に向かって進軍すべきだ。将軍は『無敵』と称されていながら、敵を見て躊躇している。何か別の考えがあるのか」と非難した。楊業は「私は死ぬのが怖いのではなく、時機が悪いのです。無駄に士卒を死なせるだけでは何の功績も立てられません。」と反論したが、最終的に命を賭けて戦いに向かう事を決意。彼の軍隊は援軍を要請した上で戦地に繰り出したが、その援軍は遂に到着せずに遼国軍に生捕りにされた。夜明けから午前中まで戦い続けた楊業は、陳家谷口に到達して援軍が見当たらなかった時、胸を叩いて激しく悲嘆したという。

彼は部下と共に奮闘し、十数箇所の傷を負い、ほとんどの兵が戦死した。彼の二男である楊延玉も戦死者の一人となった。その中でも楊業は数百の遼軍を斬り倒したと記録されている。生捕りにされた楊業は遼国から手厚く扱われるも、「私は太宗皇帝の信頼を裏切ったのだ。私は敵を討ち、国境を守る事で陛下に報いるつもりだったが、奸臣により敗北を余儀なくされてしまった今、どうしてのうのうと生きていられようか」と言って、絶食により餓死をした。これは雍熙三年(986年)七月十二日の事であった。遼国は彼の勇猛な生き様に感嘆。彼らは密雲古北口に楊無敵の祠を建て、楊業を祀ったという。

北宋の太宗皇帝はこの訃報を受けて激しく悲しんだ。彼は次の詔を下した。「武器を持って国を守り、鼓の音を聞けば将帥を思い出す。全力で敵と戦い、節義を立てた。彼を表彰しなければ、その忠義と剛烈はどう伝えられるだろうか。元雲州観察使の楊業は誠に金石のように堅く、その気節は風雲を動かした。彼は陇上(現在の陕北・甘肃またはそれより西の地域)の雄才であり、山西の名門であった。軍に身を委ね、戦功を立てることを誓い、虎狼のような軍を指揮し、辺境を守り国に報いた。しかし将領たちは約束を守らず、援軍も前に出なかった。楊業は孤軍で奮闘し、沙漠に陥り、剛毅忠烈でありながら死を恐れなかった。古人に彼以上の者がいたろうか。特別に典礼を行い、その忠烈を表彰する。彼の魂がこれを知れば、私の深意を理解するだろう。追贈して太尉、大同軍節度使とし、家族に布帛一千匹、糧食一千石を与える。大将軍潘美は降格三級、監軍王侁は冠を免じて金州に流し、劉文裕は官を免じて登州に流す。」 

その後、朝廷は楊業の長男である供奉官の楊延朗を崇儀副使に任命し、次男の楊延浦、三男の楊延訓を供奉官に、四男の楊延瑰、五男の楊延貴、六男の楊延彬を殿直に任命した。物語の『楊家将演義』は、彼ら息子たちの活躍を中心に描いている。『水滸伝』の楊志(ようし/yáng zhì)は、この実在の猛将一族たる楊家の直系子孫(楊業の孫)という設定なのである。

<勇猛たる血脈の割には"小心者">
楊志は武芸には秀でているが、よくよく彼の言動を追ってみると"小心者"の気質を帯びているように感じられる。(尚、中国語は「小心=慎重で思慮深い様子」を、日本語は「小心=器の小さい様子」を示しており、そのニュアンスには大きな乖離がある。私が楊志に覚えるのはその中国と日本の両面である。慎重でもあり、また臆病でもあるのだ。)彼は花石綱と生辰綱の輸送任務を失敗しているが、そのどちらの状況でも刑罰を怖がって東京(とうけい/Dōngjīng)には戻らなかった。厳密に言えば、花石鋼の失敗後は時機を見計らってからこっそりと東京に戻り、奸臣の高俅(こうきゅう/Gāo Qiú)にありったけの賄賂を送って免罪と復職を懇願しており、その姿は他の英傑たちと比べるとかなり情けない所がある。そうした"小心者"の性質は、人物設定の原型のひとつにも類似点が見受けられる。北宋末年、実在の人物として西軍の将領に同名の楊志がいる。彼は童貫(どうかん/tóng guàn)に従って遼国との戦闘に参加しており、種師道の指揮下で選鋒軍を統率した。『靖康小雅』によれば、彼は「招安巨寇(招安を受けて朝廷軍の一員となった大悪党)」であったらしく、その後は種師中と共に太原を支援して金軍との戦いに繰り出したものの、榆次(現在の山西省晋中市付近)で戦況が悪いと見るや戦わずして逃走してしまった。この彼の逃走によって、種師中は戦死をしている。国と皇帝の為に死地に身を投じた楊業とは真逆の存在だ。

<その他の原型>
南宋初年に山東で劉忠という有名な盗賊が「花面獣」と呼ばれていたようだ。彼の部下は全員、白毡笠を被っていた。『水滸伝』の杨志も初登場時に范陽毡笠を被っており、あだ名が「青面獣」である事から、この形象が混ざっている可能性が指摘されている。また宋元時代の『大宋宣和遺事』に、楊志は既に宋江の部下の36員頭領の一人として登場をしている。同時期の龔開の『宋江三十六人贊』にも楊志が登場している。先の楊家将とも併せ、楊志は多様な要素が混じり合った人物として設計されたようだ。

<評価>
- **余象斗**:「1. 楊志は高俅に追い出された。その時の運命がいかに不遇であっただろうか。」「2. 楊志は周到に準備していたが、生辰の風がすでに動いており(生辰綱の強奪事件)、公孫勝の策略によって災いを避けられなかった。」

- **陳忱**:「1. 杨志は一生が不運であり、花石纲を押送中に船が沈没し、金銀を整えたが高俅に失敗され、金が尽きて宝刀を売ることになり、牛二に奪われた。梁中書が生辰綱を押送させたが、全てを奪われた。これこそ梁山泊の鈍秀才(明王朝時代の小説『警世通言』に収録された「鈍秀才一朝交泰」に登場する主人公:後述参照)と呼ばれるべき所以である。」

※日本人が日常的に用いている言葉「秀才(勉強が出来る人)」は、中国が二千年以上に渡って続けて来た国策、立身出世の登竜門である「科挙試験(官僚登用試験)」に由来するものである。時代によって意味合いや定義が変わるものの、基本的には「科挙試験を受験または合格した者」を指し示した。『水滸伝』の舞台である宋王朝時代以降は、科挙試験に臨む諸生(学生)全般を「秀才」と評した。すなわち、上述の陳忱が取り上げた「鈍秀才」とは、その当人の名前ではなく、「鈍(不吉な)学生」を意味する。

<疫病神のレッテルを貼られた男:鈍秀才>
明英宗天順年間、福建延平府将楽県に、馬万群という名前の清官(清廉潔白な官僚)がいた。彼の妻は早くに亡くなってしまったが、一人息子の馬任(ばにん/mǎ rèn)が父親の心を支えた。この馬任は幼少期から聡明で学識に富み、文章能力も素晴らしかった。彼の才能と輝かしい将来性を見込んだ富家の子弟たちはこぞって彼に媚びを売った。その中でも特に黄勝と顧祥は馬任と親密な関係になった。彼らは兄弟のように接し、馬任の言う事は何でも引き受けるほどだった。馬任は忠厚な人柄であったから、この二人を知心の友として大切にした。

ある日、黄勝は妹の黄六媖を馬任に嫁がせる事を約束した。馬任はその黄六媖の才貌を聞いて非常に喜んだが、すぐには結婚しなかった。というのは、彼は「洞房花燭の夜を迎えるのは、金榜(科挙試験の順位表)に名を連ねた時だ(=科挙試験に合格して官僚になるまで、結婚はしない)」という誓いを自分に立てていたからである。しかし、馬任はその二人の親友と共に書物を買いに行き、たまたま近くの算命所に立ち寄った時、算命師の張鉄口から次のように言われてしまう。「あなたは今から2年後、22歳の時に運気が急激に悪くなり、官運(官僚としての仕事運)が困難となるだけではなく、破産や絶命の危険も生じてしまうだろう。」黄勝と顧祥は激怒して不吉な予言をした算命師を罵り、馬任もその言葉を信じなかった。しかし、その後の科挙試験では全く成績が振るわなかった。ここから、次第に彼の運命が暗転していく事となる。

馬任が22歳の時、馬万群の門生が大太監の王振を贈賄の罪で告発する。その王振は道連れとばかりに馬万群をも巻き込み、逆に彼を贈賄罪で告発した。馬万群は清官であったにも関わらずに不当な罪を着せられ、心労の末に亡くなってしまった。馬任は家財を売り払って罰金を支払おうとしたが足りず、友人たちに相談をした。しかし、周囲で媚びを売っていた連中は馬任が役に立たないとみるやそっぽを向いた。顧祥も彼を裏切り、黄勝も借りていた古董や書画を返さなかった。彼は杭州の親戚も頼ったが援助を得られず、完全に困窮し孤立した。

遂に南京で一文無しとなった彼は、最終手段として寺院に身を寄せ、斎飯を求めて日々を過ごした。この様子を知った人々は「他人の不幸は蜜の味だ」とばかりに意地悪く笑いながら、「馬任は不幸を招く疫病神だ」という噂を広めた。これによって、彼は「鈍秀才(不吉な学生)」と蔑まれるようになった。その哀れな学生を耳にして、浙江の直爽な人物である呉監生が彼を庇い、同郷の呂公に紹介した。呂公は彼をもてなしたのだが、彼を引き入れた途端に家庭内での不運が続いてしまう。終いには、馬任は放火の罪で投獄されてしまった。呂公は彼を救出したが、この一件においてもますます彼は「鈍秀才」として知れ渡るようになってしまった。

一方、馬任を見捨てた黄勝は科挙試験に合格し、一時は栄達したのだが、贅沢三昧の末にあっさり病死してしまった。その妹、黄六媖は兄とは違い、心から馬任の事を心配して慕っていたので、彼を探し出す為に北京へ長旅を続けて、やっとの思いで再会を果たした。その瞬間、「鈍秀才」の馬任の運命が逆転する。彼は黄六媖と共に困難を乗り越え始めた。

馬任は困難の果てに、科挙試験に合格し、徐々に地位を回復していった。明英宗の北伐失敗後、新しい皇帝の下で父親の名誉も回復され、彼自身も出世した。自身の誓い通りに官僚となった彼は黄六媖との結婚も果たし、家庭も繁栄しました。こうして彼の家系は代々官職に就き、栄華を極める事になったのだった。

<若干の改修>
楊志は様々な要素が集まった人物であるが、その様々な要素が物語とあまり上手く繋がっていない人物だという印象を受ける。特に、彼の人物設定には「楊業の孫(稀代の猛将)」「水滸伝の鈍秀才(不吉な男)」という非常に強烈な要素があるのだが、それらが物語に影響するマクガフィン(物語展開に強く影響する小道具)になっていない所が残念だ。この彼の魅力を活かす為には、次の改修が必要であると私は考える。

- 事象の改修:彼が生辰綱の護送任務に失敗して二龍山の山賊勢力に身を寄せた時、その二龍山で首領を努めていた魯智深(ろちしん/lǔ zhì shēn)から「お前の背後に何か見えるぞ」と言われる。魯智深がその不可思議な何かを斬り落とすと、楊志は何やら急に肩と心が軽くなった。そしてその後で、急にこれまで抱いて来た恐怖や不安の気が消滅した気がした。

- 心理の改修:彼自身の意図しない超常的な話となるが、彼の祖先である楊一族が二世代に渡って無数の敵兵を殺した為に、その霊たちの恨みと畏れが積み重なって、彼に取り憑いている。この結果、彼は重要な場面においていつも不吉な出来事が降りかかってしまう。幼少時からこの経験を重ねて来た彼は、重要な局面において常に小心者(慎重・臆病)となる癖を抱えてしまった。だが、思いがけず、その怨霊たちを魯智深(ろちしん/lǔ zhì shēn)が追い払った。その代わりに楊家の英霊たちがようやく守護者となって現れ、楊志を支えるようになった。

- 関係の改修:二龍山で合流する楊志と魯智深は、それぞれ序盤で丁寧な逸話が描かれている人物だ。後者の魯智深は「序盤で活躍した人物は終盤で目立たなくなる」という『水滸伝』の傾向に反して、最終盤まで見せ場が用意されている英傑だ。しかも、その見せ場の内容はかなり霊的なものとなっている。魯智深が霊感を発揮し始めたきっかけと楊志との交流にする事によって、その最終的な結末への伏線を描くと効果的だ。(原書ではその伏線がなく、急に魯智深が超常的な現象に巻き込まれしまう。)

<三元論に基づく特殊技能>
※上述の改修事項を反映する。

#### 英霊の加護(心術)
**説明**: 楊志は、重要な局面になるほど英霊の力を借りて普段以上の力を発揮できる能力を持つ。この心術は、彼の精神的な強さと決意に基づき、戦闘や危機的状況においてその真価を発揮する。
- **効果**:
  - **道具性(なし)**: この心術は、道具に依存せず、楊志の精神的な強さと英霊の力に基づく。
  - **思考性(中程度)**: 英霊の力を呼び覚まし、その力を効果的に利用するためには、高い集中力と内面的な強さが必要。
  - **関係性(とても濃い)**: この心術は、楊志自身の力を高めるだけでなく、仲間たちにも勇気と希望を与える。

#### 具体的な使用例:
1. **決戦の時**: 戦闘の最中、重要な局面で楊志は英霊の力を借り、普段以上の戦闘能力を発揮する。
2. **危機の回避**: 危機的な状況において、楊志は英霊の力を借りて困難を乗り越え、集団全体を救う。

※画像:DALL-E
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