悪魔は悪いとわかっていて悪いことをする

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コラム
聖書に出てくる重要人物パウロは、もともと反キリスト(と言っても今の時代の反キリストよりエグくはない)の筆頭で、厳格なユダヤ教徒のリーダーであった。彼は、キリスト教をユダヤ教の教義を歪める異端、いやもっと言えば邪教であると考えていて、キリスト教の教会を襲撃してはキリスト教徒をひっ捕らえて、裁判にかけ、処刑することまでしていた。彼自身が直接、手にかけていないだけで、間接的には彼が、キリスト教徒を殺していたのである。
彼は、これが正しい行いであると信じ切っていた。間違った正義である。
過去記事でも書いたが、この世では、善を行う自由もあるし、悪を行う自由もある、ただしその責任は死後、地獄でとってもらう、というのがコンセプトだ。だが、イエスは、この男を、もったいないな、と思ったんでしょう。
その間違った情熱、間違った正義を、正しい方向に使えば・・この男を地獄へ行かすわけにはいかない、そう考えたイエスは、霊体となって地上へ降りていき、まばゆい光へと変化し、パウロの眼前に現れた。そのことで、パウロが目が見えなくなってしまったのだが、後でキリスト教徒のヒーリングにより、また目が見えるようになった。これが、「目から鱗が落ちる」の語源となったできごとである。このことをきっかけに、パウロは反キリストから、逆に熱心なキリスト教徒となり、布教活動を処刑されるまで行った。
このように、勘違い、思い違いから、悪いことをしてしまっている人間は、まだ救いに預かれるチャンスがある。真実が見えていなかったからだ。
しかし、悪魔は、真実が見えている。彼らは自分たちが悪いことをしていると、百も承知で悪いことをしているのだ。もし、わかっていなかったら、間違って良いことをしてしまう可能性もあるからだ。
イエスが、ユダヤ教パリサイ派のリーダーたちと口論をしていた時の話、
イエスが弟子たちに、「盲人の道案内をする盲人は正解にたどり着けるか?導き手もろとも穴に落ちてしまわないか」と話していた時、それを聞いていたユダヤ教徒パリサイ派の一団が「我々も見えていないということか!」と突っかかってきたので、イエスは「見えていないのであれば罪は無かったであろう、しかし、あなたがたは見える、と言っている、だから罪は残る」とこう言ったのだ。イエスは人の心の中が見えるので、彼らが、実はイエスの言ってることが真実で、自分たちが間違っているということを内心わかっていると、それがわかっていたから、こう言ったのだ。

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