イエスが処刑されるシナリオを描いたのは神である

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コラム
過去記事で何回か書いていることだが、イエスが祭司長や律法学者らに捕らえられ、処刑台へ送り込まれる、というシナリオは天の父であるヤハウェが最初から決めていたことである。
なぜ、イエスが処刑されるというシナリオが必要であったのか、逆に言えば違うシナリオであったならば、なぜダメだったのか、ということを考察したい。

さて、イエスは神の分身のようなものなので、当然のことながら、祭司長や律法学者や兵隊が束になってかかってこようが、その気になれば軽く吹っ飛ばすこともできたしょう。ですが、ペトロが勇敢にも彼らを相手に戦おうとして剣を抜いた時、イエスは「やめよ、ペトロ、剣を持つ者は剣に倒れる」と言いました。ドラゴンボールや北斗の拳のように、正義の味方が圧倒的パワーで悪漢どもをなぎ倒す、というストーリーばかり見ていると、この「剣を持つ者は剣に倒れる」という言葉の真意がわからなくなってきます。
悟空やケンシロウのように、強けりゃ強いほどいい、とこう考えるならば、結局は世の中、「力」ではないかということになり、力のない者は無価値ということになります。でも、そうではない、信仰心のほうが大事だと神は教えてくれています。その証拠にイエスは一度も暴力で物事を解決したことがありません、それと、現代においても、格闘家やスポーツ選手といった「強者」が、例のワクチンで弱体化して命を落としています。強いはずだった彼らが結局死んでます、これは否定できない事実です。

さて、それではなぜ逃げなかったのか?戦うのがダメなら、せめて逃げれば良かったのでは?確かに神ならば、チーターのごとく俊足で逃げ切ることもできたでしょう、なんなら瞬間移動だってできますよ。神に不可能はないのですからね、でも逃げなかった。このシナリオではなぜダメだったのか、それは、正しい者が逃げる必要がない、からです。
もし、おめおめ逃げ延びて、こそこそ隠れながら生涯を全うしたところで、神の子だなんだと言いながら、結局は逃げ隠れて世間から消えた臆病者ではないかと、こう結論付けられてしまいます。また、悪に屈したことにもなります。
だからこそ、戦いもせず、また逃げもせず、堂々と捕らえられて、処刑されたわけです。それでも、当然、神を殺すことなどできませんから、のちに生き返るわけです。殺しても殺せなかったのです。
戦いもせず、逃げもせず、殺されても殺されず、そして真理を人々に伝えた。
まさにこれこそが、神なのですよ。
そしてもちろん、イエスの死と復活には、さまざまな意味があります。
一般的に言われてるような、全人類の罪をかぶって死んだ、というような
解釈ではピンとこないでしょうが、人間が信仰を守るために神自ら死ぬことで人の弱さに寄り添ったと。人間は罪ばかり犯して信仰を守らないがゆえに地獄へ行く運命だが、それじゃ救いがないから罪が一つもない神がその命を人間のために使うことによって完璧な存在である神も高みの見物で偉そうに上から命令したり裁いたりするんじゃなくて、私自らも命をお前たちのために使う、とこういうわけですから実に人を愛しておられることがわかります。この思いに報いるために信仰を守らねばならないし、神の命をないがしろにする者には、もはや慈悲はないでしょう。

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