命がただ尊い?それはあまりに空々しい

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仏教は単なる悪魔教なので、寺社や坊さんが、存在している意味も、ありがたがられている意味も、私にはわかりませんが、まあ一応、地獄へ導く案内人としての役割はあるから、そういう意味で、意味はあるのでしょう。
「天上天下唯我独尊」という言葉、命がただあるがままに尊いという、ありがたい?お言葉らしいですが、果たして現実はそうでしょうか?
尊いはずの命が、自然災害や戦争や飢餓や病気で、理不尽にも失われていく様相を見て、ああ命は尊いなぁ(棒読み)とこう思いますか?
さらに人身売買や臓器売買、さらには死体を標本にして博物館に飾る、それを嬉々として見に行く人、どこにも尊さはないではないですか。
なので、聖書にははっきりと、「地上の人間は虫けらに等しい」とはっきり書いてあるんですよ。ばっさり切り捨てていて清々しいでしょう。

人間は虫けらに等しい、最初の人間アダムだって土くれに過ぎなかったわけですからね。だから命がただ尊いというのは空々しいキレイごとでしかない。
神の霊が入った人間が、はじめて尊いと言っていいのです。そして神の霊が入る人間は、神に愛されていて、最終的に神と同化するのです。
そのとき、自我意識は消失するのか、部分的に存在しうるのか、それは私にはまだわかりません。そもそも私自身は孤独に一人で生きてますので、集合生命体になるというのは、ある意味、恐怖でしかありません。
しかし、イエスが我々と一つになるのは良いことだというなら、それを信じるしかありません。神の言うことは絶対です。
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