「日韓中三国比較文化論⑧」

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3、「才人」日本の理知と集団性~宗教紛争・民族紛争を免れた稀有のポジション③

「*1最近、京大名誉教授日沼頼夫(ひぬまよりお)博士が興味深い説を提唱した。氏は生物学者で京大ウイルス研究所の前所長、歴史学者でも考古学者でもない。日沼教授はATLウイルスのキャリアが、東アジアでは日本人にしかいないこと、日本以外では沿海州からサハリンに分散している少数民族に発見されているにすぎず、中国・韓国にはいかに調査しても全くいないことを発見した。
 ATLウイルスがどのようなウイルスかの説明は省く。そしてこれは母から子へと一〇〇パーセント伝わるわけでなく、大体四〇パーセントぐらいしか伝わらない。そこで人口が増えればキャリアの数は次第に少なくなるわけだが、近親部族外婚による混血が進めば、ますます減少していく。白人は今までの調査ではゼロ、中国・韓国もゼロとすると、東アジアではなぜ日本人にだけATLウイルスのキャリアがいるのか、これは日本人の先祖を考える場合、興味深い問題である。
 さらに興味深いのは、そのキャリアの日本における分布で、全国的に平均しているわけではなく、第一に九州・沖縄に圧倒的に集中していること、第二が離島や海岸地域に大きな密度をもつ地があること、第三に約三十年ほど前のアイヌ人の調査ではその密度が沖縄以上に高かったことである。この南北両端という密度の高い地を除くと、五島・壱岐・対馬・宇和島・紀伊半島の先端部・牡鹿半島・三島・飛島などが高い。いわば日本列島の周辺部が高いわけで、稲作が早く伝播(でんぱん)したと思われる瀬戸内地方や名古屋などが少ない。このことから、縄文人はATLをもっており、稲作を持って来た弥生人にはATLがなく、それとの混血が早かった地方ほどATLのキャリアが少ないという仮説が成り立つ。そしてATLを今も濃厚にもつ地方はほとんどが、現在に至るまで主として漁撈が行われている地方である。これは縄文文化が狩猟と漁撈と採集を基礎としていたことと関連する。そしてその文化圏がいまの日本とほぼ同一である。日本が大陸から切り離されて島になった一万年前を日本の起源とするなら、日本史に於て最も長い期間は、このATLをもつ縄文人の時代である。
 このように見れば、縄文文化が日本文化の基底にあると見てよいであろう。その期間は八千年前後と推定され、その文化圏の中で地方的な小文化圏を形成したが、その細部は省略する。そして共通する点は、生活は採集・狩猟・漁撈によって行われ、*2農耕も牧畜も行われていなかったことであろう。
 ただ土器・住居地・精巧な石器や骨角器等から見ると、その生活水準は必ずしも低かったと思えない。その食料はドングリやトチの実などの木の実を主体にしたという人もいるが、いずれにせよ日本はそれだけ天産物に恵まれた地であったということである。
 面白いのは、日本料理の中には今も縄文料理の食物の名残が数多くあることである。ある料亭で数人の学者と会合していたが、その一人が縄文文化の食物残渣を発掘した話をした。すると別の一人が「では、いまわれわれが食べているものと余り変わりがないのですな」と言った。そこでみなが改めて食卓を見ると、栗・ぎんなん・貝・川魚・沢ガニ・エビなどがあり、みな思わず笑い出した。料理の方法は変わっても、この種の日本の天産物を料理することは昔も今も変わっていない。*3前述の中国人が指摘したように、料理に関する限り、日本人は縄文的であって中国的ではないらしい。
 一体なぜこのような、中国とも韓国とも違う食文化が生じ、それが現代まで継続しているのであろうか。高谷好一(たかやよしかず)氏(京都大学東南アジア研究センター教授)は、ユーラシア大陸の文明生態史的な構造を次のように記す。すなわち中央の砂漠帯の周囲をナラ林、照葉樹林、熱帯多雨林、という三つの単位に分け、日本は照葉樹林に属するからであるとする。面白いことに西ヨーロッパと韓国はナラ林で、ここへ有畜農業が入るとナラ林は破壊されて再生しない。一方カシやシイなどの照葉樹林は食物が豊富で、一度破壊しても二次林として再生し、食糧となるものを多く期待できる。照葉樹林は日本でも減少しているが、国土に対する森林面積の比は今でも日本は世界一であり、この点では昔も今も「森の国」であろう。
 高谷教授は、縄文人はこの林を切り開き「半栽培屋敷園地」を形成して生活していたのであろうと、次のように述べている。
「半栽培屋敷園地というのは次のようなものである。例えば小川にのぞんだ丘陵の端に小集落を作る。縄文期だと、家そのものは竪穴(たてあな)式の草葺(ぶ)きである。集落のまわりだけは照葉樹林が伐(き)り払われていて、そこにクリやドングリそれにイチゴなどが比較的多く生えている。ヤマイモなどもあるかもしれない。これらは意識的に植えたのではないかもしれないが、生活をしているうちに自然にそうなったのである。こうして、暗い照葉樹林の中で、そこだけは明るい林になり、また食糧になるものが多く集中している。これが私の想像する半栽培屋敷園地である。照葉樹林帯でのこの種の生活は一旦確立してしまうとかなり安定したものである。
 私は右に描いた照葉樹林の生活を、ただ空想で言っているのではない。
 照葉樹林のなかでの初期の日本人の生活は豊かな自然に抱かれ、それにすっぽり入り込むようなかたちで行われていた、ということになる」
 その後の日本人の生活は大きく変化しているが、豊かな自然にすっぽり包み込まれるのを好み、縄文式の食文化が根強く日本人に残っているわけであろう。」
(山本七平『日本人とは何か。』より、一部改変)
*1…『新ウイルス物語―日本人の起源を探る』(日沼頼夫、中公新書、一九八六年)
*2…現在では、縄文時代にすでに農耕が行われており、こうした縄文農耕の土台の上に、縄文晩期に水田稲作が朝鮮半島から北九州付近に伝わったことが明らかになっている。
*3…この記述の前に、ある中国人が「日本料理が中国と全く無関係なのに驚いた」「豆腐や味噌は中国伝来ですが、料理そのものの基本は全く違う」と指摘した話が出てくる。

「足利義満の時代はかなり非日本的な要素を持ちながらも、新しい文化を創造しはじめたといえようが、足利義政はそれを完成の域に高め、その後の日本人の芸術趣味を完全に決定したと言ってよい。
 それは日本の芸術・芸能における幽玄(ゆうげん)趣味の確立であり、渋さの発見であった。そして、彼がこの日本趣味を確立するためには「応仁(おうにん)の乱」が必要だったのである。
 畠山氏一族の争いがきっかけとなって、応仁元年(一四六七)、細川勝元と山名宗全(やまなそうぜん)の争いが勃発(ぼっぱつ)し、それぞれの一族や支持大名がそのバック・アップをやったため、天下は細川の東軍と山名の西軍に二分され、両軍合わせて三〇万近い大軍が一一年間にもわたって、主として京都を中心にして争うことになったのである。
 その間に将軍の義政は何をしていたのであろうか。
 事実上、彼は何もしなかったし、また何もできなかった。ただ、対立する細川・山名の間に立って不即不離(ふそくふり)の中立を維持しただけである。細川方も山名方も将軍を自分の味方に引き入れて事を有利に運ぼうとしたが、義政はどちらにもコミットしなかった。
 それで門の外では戦闘が行なわれていたときにも、義政の邸の門内では人々は漢詩を作り、和歌を詠じ、また酒を飲んで宴会をしていた。
 このように、義政は完全に趣味生活によって戦乱を超越してしまったので、細川方も山名方も、将軍義政をチャンスがあれば自分のほうで担(かつ)ぎたいと思うだけで、義政を憎むということはなかった。
 京都を壊滅させた大乱のまっただ中にあって、義政は台風の眼の中のような静かさを維持し、趣味生活を深めていったのだから、結果的には、きわめて巧妙に立ちまわったことになる。
 外に戦乱があったほかに、また家庭内でも義政には面白くないことが多かった。それは義政夫人である日野富子(とみこ)の兄、つまり義政の義兄の勝光(かつみつ)が政治に口を出すし、富子もまた口を出して勝手なことをやるので、富子を新しい邸宅に移して人の出入りを禁止したこともあった。しかし、それも効果がなく、依然として日野家側の介入が止(や)まない。
 それで義政は面倒くさくなって、将軍職を九歳の息子の義尚(よしなお)に譲って、自分は隠居してしまったのである。
 そして応仁の乱が一応終わったころに、前から念願していた東山(ひがしやま)の山麓に自分の理想の風流生活のための建築工事をはじめ、新第(しんてい)を落成させた。
 これが東山山荘、つまり銀閣寺(義政の死後、遺命によって禅寺とした。正式には慈照(じしょう)寺という)のあるところである。それ以後、死ぬまでの七年間、義政はここで風流三昧(ざんまい)の生活をやることになる。
 応仁の乱以前の義政の遊びは豪奢(ごうしゃ)であった。それは義満のものと本質的には同じことであった。
 しかし応仁の乱の間、万事不如意なときに、悶々(もんもん)としながらもひたすら風流に没頭することによって、義政は新しい美を発見したのだった。それは普通の豪奢な美を「金」であるとすれば「銀」に相当するものであった。
 つまり、「燻(いぶ)し銀」の中に、最も高級な美しさを見るという審美感覚が生じたということなのである。
 われわれ重厚信実な友人のことを「燻し銀のような人間だ」と評することがある。
 しかし「燻し銀」というのは、英語で言うとオキシダイズド・シルバーになろう。酸化銀、つまり表面が錆(さ)びたのことなのである。どこの国の人が酸化銀を金よりも美しいと言うだろうか。外国語では、重厚信実な性質のことを「金のようだ」と言って、「酸化銀のようだ」とは言わないのだ。
 「燻し銀」に高級な美を見ることが最終的に義政の到達した境地であった。そこには何もきらきらと光るものはない。すべては光をその中に納(おさ)めてくすんでいるのである。それが美しいというのだ。
 この東山山荘で義政と村田珠光(むらたじゅこう)が茶を通じて知合いになったが、これがいわゆる茶の湯のはじまりであるとされている。
 こうした義政の趣味生活ののちに、日本人は「渋(しぶ)い」という色彩がよくわかるようになった。
「渋い色」とはどんな色か示せと言われても困るが、それは義政が東山にこもってから好きになった色であるとしか言えないであろう。まず「渋い」という言葉を覚え、それから何度か「渋い」と言われる趣味を示している実物を見せられてはじめて、われわれの目には「渋い」色が見えてくるのだ。われわれ日本人は「渋い」という言葉を知っているから、そういう色も見ることができるのである。
 金閣寺と銀閣寺はどちらが好きか、あるいはどちらが美しいかと聞かれるならば、平均的外国人ならば躊躇(ちゅうちょ)することなく金閣寺と答えるであろう。しかし日本人の場合はそう簡単にはいかない。銀閣寺の「渋さ」は、金閣寺よりも高い趣味だと思う人が少なくないからである。 
 政治の世界に対する無力感と、そこからくる懊悩(おうのう)を忘れるために発達した美意識は、われわれ日本人に不思議な魅力を持つのである。そしてこの美意識は、雪舟(せっしゅう)の絵や、宗祇(そうぎ)の連歌などに連(つら)なるものであり、時代が少し下れば芭蕉(ばしょう)に継承されて、われわれまで及んでいるのだ。」
(渡部昇一『日本史から見た日本人 鎌倉編 「日本型」行動原理の確立』)
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