『鬼と天狗』

記事
小説
「麓の村がのゥ、焼き討ちの難に遭うたようであるのよ。わしを天狗さまと敬ってくれた、物好きどもの集落さ。瞬く間の出来事であったらしくてな、駆けつけてやれなんだ。捨て置くのも心苦しいゆえ、夜が明けたら、ちと様子を見て参るわい……。」
 珍しく神妙な面持ちでそういっていた高鼻ーー鬼はこの天狗をそう呼んでいるーーは、今朝がた山裾へ向けて翼を広げていった。いつもなら偉そうに悠々と飛んで行くはずの後ろ姿が、今回は風に遊ばれる凧のように頼りなくふらついていた。
 鬼の方はといえば、高鼻を見送った後、下界が物騒になったならと、ねぐらを引き払う支度を始めていた。とはいえ、数百年住み着いたわりには、荷物を括ってみても、大して嵩(かさ)にならなかった。これには、思い返すような感慨を作らぬ日々を送ってきたような気にさせられて、ひとり蓬髪を掻いて苦笑う。
 風はまだ冷たいが、新緑は芽吹きつつ、眼下の麓にはちらちらと桜が咲き始めた。旅立つにはよい頃合いといえた。いつでも旅に戻れるが、百年ほどつきあって挨拶もなしでは薄情。高鼻の帰りを待つ事にした。
 高鼻が鬼のあばら家に再び顔を覗かせたのは、とっぷりと日が落ちてからであった。高鼻は、戸をくぐるなり酒を所望した。鬼はこれには怪訝に眉根を寄せた。この鬼と天狗との間では、酒はねだりねだられるものではなく、互いに賭けて奪いあうもの、という作法が成り立っており…だが、それが反されたのだ。いぶかしむ鬼の視線が、高鼻が小脇に抱える“荷物”に止まった。鬼は何もいわずに高鼻を中へ入れた。高鼻は まず“荷物”を大事そうに鬼の寝藁に横たえ、布団のように蓑をかぶせると、くたびれ果てた顔で囲炉裏の傍らに腰を下ろす。鬼は椀と徳利を高鼻によこして勝手にやらせ、かの小汚く煤けた “荷物”にはとりあえず、きれいな布巾を濡らして絞って乗せた。
高鼻は本日目にしてきたものを事細やかに語った。何度も何度も。鬼は適当に聞き流しつつ、時折り気のない相槌を打ち、本題が切り出されるよう何度となく水を向けつつ、辛抱強く待った。同じ話が延々続いたが、高鼻の心情を慮ってなお耐えた。しかし三本目の徳利を空にされた頃、さすがの鬼も痺れが切れて、留まらぬ高鼻の言葉を遮った。
「ああ、ああ、あい分かった。さぞかし無残な光景であったろうの? どこもかしこも、老若男女が死屍累々。歩けば血肉の焼け焦げた匂いに絡まり、村も田畑も見渡す限りの焼け野原。これが気のよい者らのかの村かと思うと、天狗さまとすれば酸鼻の極みじゃったと、そういうわけじゃな?」
高鼻は首が抜けたかと思うほど、大仰に頷いてみせた。
「おお、おお、さもあろうさもあろう。それは散々聞せてもろうたゆえ、げによう分かった。全くもって気の毒な事よ、聞いたわしも心が痛むわ」
「何をほざくかこの鬼めが。おのれなんぞに、わしのこの胸の内なぞ、分かろうものかぁ~ッ!?」
高鼻の呂律はもうだいぶあやしい。そして声もうるさい。随分と悪酔いが回っているようだ。うやむやに進まれてはかなわぬと、鬼はやおら、自らの寝床を指さした。
「でな、高鼻よ。先刻よりわしが尋ねておるのはな、その童は一体全体いかな経緯で、今わしの場所に陣取っておるのかよ」
鬼の寝藁を占拠し、朦朧して息荒く、時折り苦しげにうめく幼子。それが高鼻の持ち込んだ“荷物”であった。
 高鼻は胡乱な目つきを泳がせつつ、禿げ上がった額をぽりぽり掻くと、溜め込んだものを絞り切るような深く長い息をつき、ようやく重い方の口を開いた。
「…村で拾うたのよ」
「そうじゃろう。が、それをなぜ、わしのねぐらに持ち込むか」
事情がどうであれ、人間の子供を人外の生活圏に連れ帰る時点で、鬼からすれば狂気の沙汰に近い。
「かの村へは、人目があれば不具合じゃで、隠れ蓑をかぶって入ったのよ」
「天狗の隠れ蓑じゃな。いまは童の掛布団じゃが」
「然り」
隠れ蓑は天狗一門の秘宝であるはずなので、それを思えば、今の場面での用いられ方はいささかぞんざいである。だが、鬼はこれは黙っておく事にした。というのも、高鼻が続けた次の言葉の方が、衝撃が大きかったからだ。
「だのにこの童、隠れ蓑をかぶったわしの姿を、目に映しておったのよ」
「…ほぉ~ゥ?」
鬼もこれにはいくばくかの関心、あるいは懐疑を覚えた。
「真なればいささか驚きじゃの。年端もいかぬ童が、見鬼じゃと申すのか?」
見鬼とは字の如く、鬼ーオニ、隠(イン)を語源とする「見えざるモノ一般」ーを視覚できる者、もしくはその能力そのものを意味する。長らく修行を重ねた験者や道士がその眼力を得るに至るとされている。人里で暮らしていたような、どこにでもいそうな子供が、そのような大層な能力を持っているとは、到底思えなかった。
「よもや、おぬしの早合点ではあるまいの? 今までかの村で、姿を見られた事などなかったじゃろう?」
天狗の隠れ蓑がどういった作用で働くかは当の高鼻ですら知るところではないが、これを看破して高鼻を視認したというならば、立派な見鬼である。だが、だとしたら、もし高鼻がこれまでも隠れ蓑を纏ってたびたび里を訪れた際に、見つかっていても不思議ではない理屈になる。高鼻は、一度、寝床の童に目をやった。
「こやつがわしの姿をしかと見ておったのは確かよ。死に目に会うて、にわかに身についた能なのかもしれんがな。」
「ほゥ」
「この童、焼け落ちた村のただ中で、ひとり、地に突っ伏しておったのよ。体こそ随分と煤けておったが、見れば傷はさほどにはひどくない。もしやまだ息があるやもと思い顔を覗き込んでみたところな…」
高鼻は唐突に、鬼の鼻をぎゅッとつまむ。
「…と、しっかりとわしの鼻を握ってきよったのよ」
「…はらへ」
「したかと思うと、そのまま気を失いよった」
「はらへろゆうろろうがッ!?」
鬼は、高鼻の腕を乱暴に振り払った。
「お、すまぬ」
鬼は痛む鼻を揉みつつ、悪びれぬ高鼻を睨む。
「…で、“そのまま捨て置くのも気が引けるゆえ、とりあえず拾うて参った”、というわけではあるまいな?」
「いや、然り。ひとしきり探して、唯一の生き残りであった」
「まぁ、それはぬしの勝手じゃ、よいとしよう。で、それをなぜわしのねぐらに連れて参った?」
高鼻は困ったように、額をぺちぺちぺちと叩いた。
「正味なところ、これからどうしようと思ってのゥ。ひとりではどうにもできなんだ」
「…阿呆ゥが」
鬼は呆れて、白く目を細めた。
「まぁ聞け。拾うてはみたもののこの童、抱えてみれば、総身が滅法に熱くてな。しかもひどく苦しげよ。我が庵では、連れ帰ってもとても介抱しきらぬ」
高鼻は、この鬼のあばら家よりもなお標高の高い、風も冷たく草木もまばらな岩山の頂近くに庵を結んでいる。翼のある高鼻なればこそ暮らしに不自由がないが、病んだ子どもが静養するには確かに不向きだろう。
「かといって、そなたの他に、にわかに頼る当ても持たぬのよ。甚だ身勝手を承知じゃが、当座、ここに置かせてもらうわけにはいくまいか?」
そう来るだろうと思った通りだった。鬼は黙って渋面を作る。鬼としては、たびたび人界に出向いては、人間にちょっかいを出し、時にはしたたかにやり返されて帰ってくるような高鼻と異なり、鬼は一切、人間と関わりたくなかった。
「不服、じゃろうのゥ…ぬしが人間嫌いのは、元より承知もしておる。だが、助かるかもしれぬ幼い命を、せめてわしの目の届く範囲で散らす事をしたくないのよ。無体を推して頼む。この通りよ」
高鼻は深々と頭を下げた。やや置いて、高鼻は体を起こし居住まいを正すと、さらに再び頭を下げた…先ほどよりも深く。そして今度は体を起こす気配がない。鬼は少々困った。この鬼と天狗との間では、これまでになかった絵面である。頭を上げぬ高鼻に、何といって断ったものかとしばらく思案した。
(…待てよ?)
鬼に、はたと思い至った事があった。途端に、鬼の顔には、伏す高鼻の目に映らぬまま、底意地の悪い笑みが浮かぶ。
鬼は高鼻の一方的な頼みを聞き入れる事にした。無論、あくまで快諾ではないが。高鼻もいっていたが、助かる命を見過ごすのは、鬼にも本意ではない。鬼の本来の姿勢には反するが、当面の間、人間に寝床を貸すくらいは目をつむる事にする。
「ありがたい、恩に着るぞ」
「さほどの事ではないわ。鬼には鬼の情けがあるぞ。それはそれでよいとして、じゃ」
そう、重要なのは。鬼は一転、満面にさも心配そうな色を作って、高鼻に一つ尋ねた。
「ぬしゃあこの童を、この先いかが致すのじゃ?」
高鼻はぎくりとして半身を引いた。藪から出た棒に、図星を指された気分だった。
「いかが、とは?」
思わず狼狽して、おうむ返す。
「この子の、行く末よ」
絶句する高鼻。全く以って返す言葉がない。この反応を、鬼は予期していた。というのも、高鼻が酩酊した時には毎度のように話していた、高鼻の、ある過去があったからだ。今でこそ峻嶮の山上、いわば人界の対極に居を構えるこの天狗だが、かつて一度、人間の子供を世話していた事があると語っていた。武門の出であったその子は、長じては大きく勇名を馳せたがしかし、最期には非業の死を遂げたという。これを語る時、高鼻は大概、ひどく悔いてしきりを涙を流していたものである。曰くその一件以来、高鼻は住まいを山上に移し、人との関わりを遠ざけるようになったという。とはいえその一方で高鼻は、麓の村々にはちょくちょく出向いているのである。鬼から見ればこの高鼻は、全く懲りないお人好しで寂しがり屋の天狗、という見解になる。いってしまえば今のこの局面は、この邦に渡来してから積もり積もった高鼻の、身から出た錆という事なのだ。
「帰るべき村を失った身の上に加え、もしや見鬼の忌み児なのやもしれぬであろう? 快気したとて、そのままどこぞの寺なりに放り込むのか、それともぬしが育てて後に人の巷に帰すのか、はたまた童の終生に渡ってぬしが連れ歩くのか。童にとっては、いずれにせよ難儀な事であろうの。わしが案じても詮なき事じゃが」
この邦(クニ)においては古来より、人と人外とが交われば、幸薄い末路を辿ってきたものである…それは恐らくは、人と人外とが分かたれた頃からなのだろう。唐つ国より渡来した外様天狗も、今ではそれを苦く深く知っているはずなのだ。だのに性懲りもなく、こうしてあやしの童を拾ってきた。他人事の鬼にしてみれば、高鼻が童をいかにするかは、この上ない見ものなのである。
「そうよなぁ…いかんすべきものか」
高鼻は禿げた頭を抱え込み、鬼は内心でほくそ笑んだ。困り果てる様子の高鼻を、小意地悪くからかう。
「まぁ、このまま童がくたばってしまえば、ぬしの悩みも尽きようぞ? 何なれば、鬼の情けで止めを刺してくれようか。幼子は寿司に漬けたら柔らかくてうまい事じゃろうな」
「おのれはひどい事を申すのゥ…」
恨めしそうに眼を上げた高鼻に、鬼はからからと高笑い。
「あいすまなんだのゥ、悪い冗談じゃ。心配いらぬ、いくら柔らかかろうとうまかろうと、人間なんぞ食えたものではないわい」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
病み児の介抱には備えが乏しいからと、鬼は夜明けを待たずに薬草を摘みに出かけた。高鼻は、鬼ほどこの邦の草木に明るくないため、居残りを言い渡された。手持ち無沙汰に囲炉裏の番をしながら、寝息の童を伺っていた。
“童は熱のため、心がここにない。いわばへべれけと同じじゃ”
“糞も小便も垂れ流しになろうから、下の世話を頼むぞ。寝藁はわしの備えをやりくりしておけ”
“飲まず食わずで汗ばかりかいては弱る一方じゃで、ありあわせだが葛湯を作った。様子を見て与えよ”
鬼は出がけに随分と慣れた手際で、童の世話をし、高鼻には端的な指示を残していった。これには高鼻も素直に感心した。
 いつか、鬼は言っていた。自分たちも、最初から鬼だったわけではない。古くは互いが良き隣人として、人里近くに住まうこともあったのだと。
 邦(クニ)から国(クニ)が立ち上がる頃になると、統治する者に必ずしも追従しない者たちもいるものだ。あるいは、何らかのーー例えば政治的なーー事情で国の民としての立場や居場所が獲得できなかった者たち。さらには…そもそも人間ではない者たち。
 こういった者たちは“服(まつろ)わぬ者”と呼ばれ、人心を惑わすとして辺境に追い立てられた。その果てに、人目から隠れ棲まう者、すなわち“隠(オニ)”になっていったのだという。
 今朝がたの鬼の手並みを見るだに、かつて人里にいたというのも、あながち与太話ではないように思われた。
(鬼には角があるものだと聞くが、きゃつの角など見た事もないしの)
一見してもかの鬼は、多少人より大柄なのを除けば、外見上は人と大きくは違わない。もちろん、かといって人間であるはずもないのだが。この鬼と天狗のつきあいは百年以上に及んでいる。高鼻の知る限り、生身の人間がそんなに長生きはしない。
 炭のはぜる匂いに混じって、下の香りが高鼻の鼻腔をくすぐった。高鼻は布切れを数枚、引っ掴んだ。寝藁に横たわる童の裾をめくって両足を抱え上げ、尻から垂れている緩い汁を丹念に拭ってやる。股の間に除く小さな芋虫も、汚れを丹念に清める…男児だったのを知った時は少しがっかりしたものである。熱は引いたかと触れてみるが、まだその兆しはなし。次いで衣服を脱がし、体中の汗を拭いてやる。童の五体は、力なく、なされるがままだ。
(この童、いつ目を覚ますのかのぅ、いつか目は覚めるのかのぅ…)
手を動かしながら、つい縁起でもないことを考えてしまう。よもやこのまま三途を越えたりはしなかろうか。それではあまりにも憐れだった。拭いた先から脂汗がにじんで出る。天狗の薬はこの子には効くまいか、飲ませたらこの子にも翼が生えてしまうだろうか、それでもこの子は死なせたくない…肌が赤くなる前に切り上げて、居ずまいを正してやる。鬼の葛湯を、童が咳き込まないくらいに少し、口に流しこんだ。しばし待つと、こくりと飲み下した。これを何度か繰り返した。脱がした衣服…鬼の手持ちの布でこしらえた即席である…を、高鼻が川で汲んできておいた水で洗って絞り、鬼のあばら家にかけた縄に吊るす。何着めかになっていた。
 そのような具合に、絶えず童の傍らにいて、あれこれ心配になりながら、時にはまんじりと動かず、時にはあくせくと動いて、鬼の帰りをひたすら待った。
 日が昇り始めた頃、ようやく鬼が戻ってきた。泥にまみれた鬼は、籠いっぱいに草々・甘味・山芋などを抱えていた。収穫多くしてあばら家に入る鬼にしかし、高鼻は待ちわびたと抗議した。
「あン? なぜぬしが待ちくたびれるのじゃ。童が危うきに陥ったのか?」
「まるで弱々しき病み児をひたすら眺めているのは生殺しじゃったと申しておる」
高鼻はほとほと苛立っている様子だったが、鬼はどこ吹く風。
「当の童がもし心で目は覚ましておって、じゃが体の方が思うままでなかったとせば、童はさぞかし生殺しの気分じゃろうな」
高鼻は言い淀んだ。鬼は収穫を下ろすと、自分の旅支度の中から調合道具を取り出し始めた。
「病とは時間がかかるものよ。気を長く持たねばつきあいきれん。本人も、近しい者もじゃ。なに、命とは本来、どうしてしぶとい。熱が出るなら温めてやればよい。命に寄り添ってやれば、悪い方にはいかぬよ。わしはそう教えられたし、これを信じる事にしておる」
語る鬼に、天狗はなおもやや憮然。鬼はそしらぬふりをして、調合の片手間、鍋に火をかけた。
「どれ、芋で粥を炊こうぞ。今日はまだ何も腹に仕込んでおらぬのではないか? 腹が減れば虫も居所を悪くするものじゃ。ほれ、ぬしも手伝わんか」
 ほどなくして、山芋と甘葛の粥が炊き上がった。高鼻は馬のようにがっつくと、そのままごろりと横になる。確かに空腹だったようだ、童にかかりきりだったからか、己が身の事には不如意であったらしい。胃袋が落ち着くと、急に眠気が押し寄せてきた。よくよくしてみたら、数日ろくに寝ていないのだ。一方の鬼は、もはや慣れてはいるものの、高鼻の行儀の悪さに多少辟易していた。外様天狗のお里である唐つ国は、むしろ礼儀にはうるさいところだったはずだが。
「なぁ、鬼よ。あの坊主、助かろうな?」
眠たげに、高鼻。
「さてな。殺さねば死なぬじゃろう」
平然と、鬼。
「なぁ」
何じゃ?
「坊主めは寝覚めてわしを見たら、また気を失うてしまわぬじゃろうか?」
知らぬわ。
「鼻が長くて顔が赤くて翼があってと、もし怖がられたら悲しいのぅ」
弱気じゃの。ぬしゃあ天狗さまじゃったろうが?
「…村は救えなんだ」
ぬしの咎なのか? 人間同士の諍いじゃ。
「そうかのゥ…」
焼いた側にも故はあったろうよ。天狗に阻まれてはかなわぬさ。
「………」
殺して生きるは、みな同じじゃ。
「…気持ちのよい、村であったのよ…」
そうか。気の毒したのぅ。
ああ、まったく気の毒よ…。
数日。
 橘太は虚ろに目を覚ました。違和感しかなかった。ここはどこだろうと考える事もできないほど、ひどく気分が悪かった。体中が泥のように重く、そのくせ全身が綿になったような頼りない。頭の芯と眼の底とが鈍く深く痛み、舌の根はひどく苦く、腹には差し込むような痛みがひどかった。
 吐き気を伴いながらではあれ、徐々に両目と意識の焦点が定まってきた。見覚えのない天井が、やけに遠く感じられた。寝床から起き出すべく格闘してみるが、力も気力も入らない。父母に呼びかけようにも声が出ない。橘太はどうにか首だけを動かして、弱々しくあたりを見回すと、自分の首が乗っていた藁が、かさり、と音を立てた。
「気がついたか坊主?」
聞こえた声は父母のものではなかった。また、聞き覚えもなかった。
「おい高鼻よ、坊主が目を覚ましおったぞ…なんじゃ、そっちが寝ておるかよ」
胸の一か所にずしんと来る、太鼓の音のように太く重みのある声だった。消耗している橘太の体には、耳にするだけで少々堪えた。
 声の主を探す。暗く目も利かずでよくは見えないが、ちろちろと火の舌を伸ばす囲炉裏の傍らに、大柄の荒法師さまが座して、半身を橘太に向けていた。身の丈は、村一番の大男よりも、さらに数回りは大きそうに見える。橘太は、いつか旅の琵琶語りが唄っていた武蔵坊を思い出した。囲炉裏の荒法師さまはのそりと腰を上げると、ゆったり静か橘太の元へ近寄ってきた。肩口でざんばらに揃えた髪が揺れている。眉は太くて眼はぎょろり。まるで、弁慶の図体にお寺の鬼瓦が乗っかっているようだった。瓦の顔にまじと見入っていたら、鍬の柄を束ねたような手が、
「寝ておれ」
そっとふわりと降りてきた。ほんの指三本で、すっかり顔を覆われてしまう。いかつい指先が、しばし額に触れていた。なぜかそれだけで、不思議と気分が落ち着いた。
「だいぶ体の熱は下がったかの。三晩三日添うた甲斐もあったわ」
まる三日? ここはどこ? お父とお母は? 村は? 法師さまは誰? 聞きたい事はたくさんあったが、言葉は出ないし気は朦朧、頭は混乱するばかり。法師さまは橘太の顔から手を引くと、軽やかに笑った。
「ふぁっはっはっ、そりゃまだ寝惚けておるわのゥ。よいよい、まだ本調子でもあるまい。今しばらく寝ておれ」
法師さまは囲炉裏に戻って座りなおし、背を向けたまま言った。
「今一度寝て起きたら、葛湯や薬湯でのうて、粥をくわせてやろうほどにの」
法師さまは鍋の蓋を開けたらしい。ふつふつほんのり、甘やかな薫りが漂った。体の疲れも溶け出しそうな暖かい薫りに、橘太は再び眠りに誘われていった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
童が目を覚ました。そう聞くや、高鼻は満面に快哉を浮かべた。介抱を始めて四日目の、宵の口の事である。
「今はまた寝ておるが、ほどなく寝疲れて起き出してこような。自分で汁なりすすれるようになれば、この齢じゃ、遠からず快気するじゃろうよ」
そういいながら、鬼は囲炉裏の粥をゆったりとかき混ぜた。煮込まれた川魚の身はすっかりほぐれて溶け込んでいる。高鼻は小躍りせんばかりの喜びようである。何がそんなに嬉しいのやらと、鬼が湛えた笑みはどこか冷ややかだった。熾き火に浮かぶ鬼のその表情に、高鼻も気がつく。
「心得ておるよ、皆までいうな。坊主をいかがするかであろゥ?」
意外にも、高鼻の様子は楽しげであった。悩む様が見たかった鬼としては拍子抜けである。
「そうよ。いかなる所存じゃ?」
高鼻は、乏しい髪をくしゃくしゃと掻きあげた。
「実のところの、わしにはよい考えが浮かばぬのよ。坊主に付き添いながら、散々と思いを巡らせてみたになぁ」
鬼は鼻を鳴らした。易々と出せる結論ではないのは分かり切っていた事である。だからこそ困った姿を見ものにしようと考えたのだ。しかしどうも、この間の抜けた天狗にしては、妙に落ち着いている。何がしかの考えがあるようにしか見えないのだが、それがとんと読めない。鬼は手を止め、わずかに首を捻った。
「終生連れ立つ気でおるのか?」
「それも考えた。わしが助けた命なのじゃから、わしが最期まで看取ろうと。じゃがあの子は、たまたまわしが拾ったから今この場でにおるだけで、もしわしが抱えて来ずとも、あの場で生き延びていたやもしれぬ。そう考えるなら、たとえあやしの見鬼の子じゃったとしても、あくまで人の子よ。わざわざ人外の暮らしに引き込むこともあるまい」
鬼は柄杓を手放し、腕を組む。
「まぁ、道理よな。人間(じんかん)に生まれた子なれば、人の間で暮らすが幸い。できるならばじゃが」
「然り。かといって、今いま巷に帰したら帰したで、坊主は自ら、人の間に寄る辺を見つけられようか? 元の村はもうないのじゃ。命が危なきゆえ助けた、助かったのだから帰れでは、いかにも勝手。じゃったらいっそ、あの時死んでいたかったと思われたら忍びない」
「ぬしの事じゃ、そうじゃろうな」
鬼からすればすでに充分酔狂ではあるが、この高鼻も、戯れの思いつきで情けをかける天狗ではない。ここで放り出せてしまえるくらいなら、最初から抱えてはこなかったろう。つきあいの長い高鼻の心のうちを、鬼もそれなりに分かっていた。しかし鬼は指摘する。
「とはいえもし、まことに見鬼なら、それだけでも人間(じんかん)を生くるに差し障ろうな」
ここも悩みの種であるはずである。高鼻は軽く顔を覆った。
「それも然り。じゃが、それはわしとて、いかんともしがたいのよ。坊主の重荷の肩代わりは誰にもできぬ」
「ふむ…わかっておるではないか。で、どうするのじゃ? 巷には帰す、じゃが帰しようがない。手詰まりではないか」
高鼻は、顔を覆う指の間から、目だけをきょろりと覗かせた。
「育ててみてはどうかと思うのよ」
鬼は横目を細めた。
「懲りておらんな、この天狗は」
高鼻は手のひらを上げて否定する。
「やあれ、そうではない。人外の元で養えば、見鬼と同様の理屈で、巷に戻しづらくなろう」
「ふン、その通りよ。人外に交われば人から遠のく道理」
「昔ならばわしにも人界に多少の顔が利いたがの。生憎と、さすがに今ではその伝手も頼りにまではならん」
膝を叩いて、大げさにゆっくりとかぶりを振る高鼻。
「いやぁ、まさに手詰まり。困った困った」
そうはいっているが、そうは見えない。
「随分と落ち着いてはおらぬか?」
坊主を抱え込んできた時の悲壮感とは大違いである。
「そうか。そうかもしれんな」
涼しくいう高鼻に、狐に摘まれた気分である。
「さっぱりじゃ、思惑がとんと読めぬ。妙案があるやらないのやら」
ぱん! と高鼻が、一層強く膝を打った。
「何じゃ、急に」
「然り! まさにそれよ」
この時、高鼻の顔は随分と輝いて見せていた。鬼はいぶかしむばかりである。
「わしにはな、何もありゃせんのよ、わしには。そこでじゃ…」
したり顔を見せる高鼻に、鬼は深い不吉を覚えた。
「鬼よ、ぬしは坊主と何ぞ口を聞いたか?」
「ん? 寝ておれ、といったくらいだの」
「さようか。その時、坊主はぬしに怯えた風であったか?」
思い返してみる。
「怯えるよりは、わけがわからないでいる方が大きかったと思うぞ」
高鼻の背中の翼が、得意げに動いた。
「…何を企んでおる?」
「なに、見るからに人外のわしと違い、ぬしは一目、人と変わらぬ。少々、いかついだけじゃ」
鬼は高鼻の胸先が見えた気がした。そして我が身の迂闊を後悔する。童が目覚めたとの話題になってから、高鼻は困っている気配はついぞなく、むしろ終始落ち着いていた。何かあると悪だくみを疑って然るべきところであった。
「高鼻、わりゃあ、まさか…」
眼前の天狗は満ち足りたような笑みを満面に湛えて、まるで牛飼いに牛を引き渡すくらい無造作に、こう言ってのけたのである。
「ならば鬼よ。ぬしはこれより人間じゃ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヌシハ コレヨリ 人間ジャ
しばし呆ける。唖然を通り越して呆然である。鍋が煮立つ音で我に返った。
「おや、いかんいかん。高鼻、そこな土瓶を取ってよこせ」
「うむうむ、それがよいそれがよい。そうよ、この子はぬしの子じゃ」
高鼻はすっかり自らの案に満悦の様子で、にこやかに鬼に葛湯の土瓶を差し出す。受け取った鬼の手は小刻みに震えていた。心の中で数をかぞえつつ、葛湯をゆっくりと鍋に差し、音が立たないほど静かに、土瓶を囲炉裏の傍らに置く。心で七つを数えたのち、鬼は、はったと腰を浮かせて片膝をつき、ついた片膝に腰を乗せ体を乗り出し、高鼻に噛みつかんばかりである。
「我がねぐらに」
絞る声、はらむ怒気。
「面倒を持ち込んで飽き足らず、さらに尻拭いまでせよとほざくか?」
高鼻は、柳に風のエビス顔で、囲炉裏の熾火を立てたり均(なら)したり。
「鬼とも人ともつかぬ坊主じゃ、鬼とも人とも見えるぬしにこそ、仮の親には打ってつけじゃろう」
唐突に突きつけられた妄言に、鬼は目まいを覚えた。
「寝言は寝て申せ、わしは鬼じゃ坊主は人じゃ」
高鼻は座したまま半身を引いて鬼を見上げた。いくぶん真顔である。
「存じおるさ、確かに鬼よ。したが、わしはぬしの角だに見た事はない」
鬼は頭ふたつほど高きより見据える。
「鬼には角と誰が決めた?」
「鬼に角が人の風聞に過ぎぬなら、人にあらざれば鬼という事ではないか?」
「そうよ」
「鬼のおぬしに角はなく、坊主も同じく角はなし。かたや人外なり、こなた人外ならんや。これいかに、よ」
「何が言いたい」
鬼は忌々しげ。
「仮に、確かに人外の者がいるとして、しかし、その異能を終生、人間(じんかん)に見事隠しおおさば? 人外であっても人外とは呼ばれまいな」
この言に、鬼は内心で少し驚いた。外様天狗の口から出たのは、かつて鬼の間でも説かれていた道理だったのだ。しかし。
「だとして何とするか。わしと坊主を結びつける事にはならん」
「ほう? もし結びついたらやるのかね?」
「結びつかんといっている」
「首が疲れた」
高鼻は鬼に、腰を下ろすよう手で促す。鬼は高鼻を睨みつつ胡坐(あぐら)をかく。
「鬼よ」
「何じゃ」
「わしに、“坊主の行く末をいかがするか”と問うたな」
「それがどうした」
高鼻は真剣に眼差した。
「ならぬし自身は、どこから来て、どこへゆく?」
鬼は言葉に詰まる。
「答えよ」
高鼻は一度ちらりと鬼の旅支度を見やると、心底真顔で向き直り、問うた。
「わしは翼があるで、どこへでも行くし、どこへも行ける。どこにでもいるし、どこにもおらぬ。じゃによって、どこから来てどこへ行く、という事自体をあまり考えぬ」
高鼻は一拍置いた。
「ぬしはどうじゃ。ぬしの素性を聞いてはこなんだが、どこかから来て、どこかへ向かう者ではあるまいか」
鬼は苛めいた。素性を語らなかったのは、語りたくなかったからだ。
「つまり、ここへ来て、わしの身の上を抉(えぐ)ろうというのじゃな?」
「すまぬが、そういう事じゃ。その上で今一度問おう。ぬしは、どこから来てどこへゆく?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーー数え歌が聞こえる。子どもが手毬遊びでもしているのだろう。
 ひとつ ひとよの 夢を見て
 ふたつ ふるさと かなたなり
山里の大路に出てみれば、子どもたちが仲よく遊んでいる。
鬼の子も人の子も異形の子も一緒くた。彼は苦笑する。
 みっつ みつごの たましいは
 よっつ よいやみ 寝ゆりかご
末法の暮らしに嫌気がさしたと、この里の山門を叩く人間は絶えない。
険しい道を乗り越えて山奥深くの里を頼ってきた人々を、大兄(おおえ)は暖かく迎え入れた。
 いつつ いつしか 子は長じ
 むっつ むくろも ふみこえる
伝え聞けば、それら自ら入山してきたはずの人々は、
都では、彼らの里の民、つまり鬼たちが拐(かどわ)かしてきた事になっているという。
 ななつ なもなき はらから(同胞)は
 やっつ やまおく きりにきゆ
そう遠くない将来には、都より兵が使わされるとも噂されていたそうだ。
大兄はどう腹を括っているだろうか…。
「ちいえ(小兄)!」
自分の姿を認めた子が、ひとり、たたたと駆け寄ってきた。小さい体で目いっぱい、脚にしがみついてくる。他の子どもたちも群がり、鈴なりのようにぶら下がってくる。
「ちいえ、あそぼー!」
「ちいえ、お肩に乗せてー!」
「かけっこしてー!」
逡巡して困り顔を見せたが、各々顔をこちらにまっすぐ向けて、大きく目を輝かせる子どもたちにはかなう道理がなかった。ほんの少しの溜め息を交えつつ、肩や頭に乗せたり、着物の胸元に入れたり、帯に足をかけさせたり。
「しっかり捕まったか?」
「「「「「「まったー!」」」」」」
「落ちた子は自分で走れよ?」
「「「「「「れよれよー!!」」」」」」
彼は、ふんぬ、と鼻を鳴らし、
「ゆくぞ!」
朱に染まる大路を駆け抜け始めた。道行く人々も心得たように、笑顔で行く手を開けてくれる。連なる軒先からは手が振られたり。この里のこの時刻の、日常の光景だった。この日常を護るためなら、自分もいつでも命を投げ出せる。
(だが大兄、わしは里の子守ではないぞ?)
大兄の館までまっしぐら。子どもたちは、ぐんぐんと、すごい早さで近づいて見える館に大喜びである。子どもたちの歓声に包まれるがしかし、自分がどの誰よりも、いま愉しげに笑っている事なぞ、彼はとんと気がついていなかった。向かう先には、偉大なる大兄の館が茜に映えていた。
そして。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「鬼よ…聞いておる…か…?」
不意に、鬼の肩がわなないた。高鼻は、虎の尾を踏んだのだと直観し、顔が引きつった。高鼻は命の危険を感じた。この場から逃げ出そうとも正直思った。だが、そんな事ができようはずもない。すれば、大切な友を失ってしまうだろう。鬼が自分をどう思っているかは知らないが、自分は鬼に気を赦している。信頼するなればこそ、面倒事も頼ったし、鬼の過去にも切り込んだのだ。その結果、鬼の怒りを買い、殺されたのだとしても、逃げ出すわけにはいかない。鬼には鬼の情けがあるというなら、天狗には天狗の意気地があるのだ。鬼が蓬髪を逆立てて自分を睨む。高鼻は、気取られぬように静かに、背筋を伸ばした。
 鬼は自分の椀に粥を装い、すすった。うまい。うまいが、すっかり独り者の食事である。自分があと何百年生きるかもわからないが、自分はこのまま隠れ潜んで生きるのだろうか。特段、それを疑問にも思わなかった。自分は隠(オニ)なのだから。しかし。鬼の逆立った蓬髪から、力が抜けていった。
「高鼻よ」
「うむ」
「仮にわしが、人間のように、どこからか来てどこかへ行こうとしているのだとしようか」
「…む」
高鼻は、鬼の気配が変わった事を感じたようである。
「それと坊主と、何か関わりがあるのか?」
「…まずのところは、ない」
言い辛そうだった高鼻だったが、鬼はといえば、しれっとしている。
「だろうの。もしわしと坊主とで、向かう先が近しいのだとすれば。改めて、相身互いを考え始めて見るのはいいかもしれぬが」
高鼻はキョトンとした。先に言われてしまったのである。
「…よいのか?」
「何もよくないわ。やるともやらんともまだいえん。坊主自身の望みが聞けんと始まらんし、何より、ぬしがわしに全部丸投げならば気に食わん」
高鼻は鼻白んだ。
「わしにできる事なぞあろうか」
「できるかできないかは今決める事ではないぞ。そもそもがぬしの持ち込んだ面倒じゃろう。何もせんでは筋違いよ」
高鼻は何も言い返せない。が、鬼が聞く耳を持った事に安堵した。鬼は諦め顔で、立て板に水。
「まずは坊主の見鬼の真贋。その上で、もし真に見鬼じゃったら、それを使いたいのか隠したいのか。一時的な異能じゃったにすぎんなら、人の子として、どこで暮らすか。それを判じるまで時間がかかりそうであった場合は、それを待って里に下りたいか、すぐにでもおりたいか。坊主の中でこれらがはっきりするまでは、わしらが何をどうこう決める話ではない」
「つまり?」
「いつまでか、は、またさて置いて」
鬼は、自分の椀に酒を注ぎ、一息で呑み下し、椀を置いた。
「高鼻よ、わしの荷ほどきを手伝え。それから酒をよこせ。坊主はしばし、ここに置こう」
 高鼻が庵から戻ると、囲炉裏の傍らに膝を交えて座し、互いに酌をする。童はまだ静かに眠っている。当座の話は概ねまとまった。童の快気まではここに置く。また、見鬼か否かかを確かめる。その上で、もし童が望むのなら、当面、鬼が面倒を見る。なお、鬼は鬼ではなく人里を離れて修行中の法師で、高鼻とは山の暮らしで知り合った仲である体裁にする。童が目を覚ましたら、一通りの経緯は説明する事になる。その時は、高鼻を交えた方が話は早そうだ。
 普段から口数の多くない鬼ではあるが、今宵は一層寡黙に杯を傾けていた。やはり、思うところはあるらしい。高鼻が尋ねる。
「人間嫌いのぬしが、どういった風の吹き回しなのか、聞いてもよいか?」
「…人間嫌いだからよ。もしこの子が人ならざる異能なら、同胞(はらから)。人間に苛ませるわけにはいかぬ。それが見定まるまでの間、わしが人間の皮を被るくらいは…退屈しのぎと思うにするわさ」
「そうか」
いわれた事はもっともなのだが、釈然としないものを高鼻は感じた。だが、それ以上聞くのも何だか躊躇われ、他の事を問うた。
「わしは何をしようの?」
「うん…それじゃがな。村の焼き討ちがあったのは、少々きな臭い。戦や謀(はかりごと)の気配がないか、広く気を配ってもらえるか」
高鼻は冗談めいて鼻をこすった。
「きな臭いか」
「ああ、やや匂う。すぐすぐではないにせよ、場合によっては改めてここを引き払う事も念頭する」
「そうか、心得た。戦は嫌じゃのゥ」
「人間は戦をするものじゃ」
高鼻の故郷をふたりは今なお唐つ国と呼んではいるが、唐と名のあった国ははるか昔に滅んでいる。百年ほど前は、馬に巧みな一族が、大陸全土に覇を唱えたそうだ。今ではそれも衰退し、現在かの地には明という国があるのだという。この日本(やまと)でも、戦は続いている。
「人はなぜ戦をするのかのゥ」
「うーーーーーーーーむ」
鬼は腕を組んで唸った。
「畑を切り開くより、人が増える方が早いのかもしれん」
「人が増えねば戦は起きぬのか?」
「いやぁ…人が増えたところが攻めてこようなぁ」
「では到底、戦は尽きぬな」
「なくなる想像ができん。こういっては身も蓋もないが、人間が戦を起こさぬ生き物であったなら、わしは今でも人里におったろうよ。有力な勢力が他を圧するなればこそ、服(まつろ)わぬ者が残る道理」
高鼻はしかめ面しい。
「なぜ他を圧しようとするか。なぜ他を薙ぎ払おうとするか」
鬼は顎先を掻きつつ、目線を逸らす。
「寿命の短い者たちが、国の安定を期するなれば、そうなるのであろうな」
天狗は合点がいかない様子。
「小国寡民が互いに争わぬ向きもあるではないか」
鬼は横目で視線を戻す。
「どの小国も小国であろうとした間は成り立ったろうな。今がそうではないなら、人間の性を歴史が証明したも同じ」
高鼻はやる瀬なげに、天井を仰ぎ見た。
「難儀じゃの。わしは天狗でよかったわい」
「ぬしは天狗でよかったのゥ。わしは生憎と鬼じゃで、“鬼と女は人に見えぬぞよき”よ。もはや人間そのものが怖くて堪らぬ」
高鼻は鬼の言に、恐る恐る顔を戻した。
「面倒を持ち込んですまぬのゥ」
「ああ。全くじゃ」
鬼は静かに、片口に笑みを浮かべた。
 案の定、先に寝潰れたのは高鼻の方であった。腹が立つほど屈託なく高いびきをかいている。囲炉裏の火が落ちてだいぶ暗くなったあばら家に、明り取りから月光が差し込んでいた。椀を片手に、のっそりと外に出る。黒く広がる森の上空から、中天を過ぎた過ぎた月が白々と、森とあばら家と、そして背後に横たわる山脈を照らしていた。
(お山を失い、三百年か)
大兄の里で、仲間たちと共に杯を手向けた月。それと同じ月が独りで浮かんでいる。鬼はかつてそうしたように、椀を手向けてみた。むしろ鬼の心持ちの方が、あの頃と随分と変わっている。昨日も一昨日も、明日も明後日も、晴れでも夜でも、新月でも満月でも。月は変わらず、登っては沈む。鬼は、詮なきを承知で、月に問う。
(月よ。お前は、どこから来てどこへゆく?)
月は何も答えない。
(ここへ来たわしは、どこへゆく?)
月は何も答えない。
(わしはまだ、復讐を忘れておらぬのに…)
「阿呆ゥ。」
急に耳に飛び込んだ声にぎょっとして、鬼は酒を少しこぼしてしまった。高鼻かと思ったが、気配が違う…というより誰もいない。まさかと耳をそばだててみた。何の事はない、フクロウの鳴き声だった。だが、やはり「阿呆ゥ。」と聞こえる。目は見たいものを見、耳は聞きたいものを聞くという。鬼は、自分の心のうちが、自分をたしなめているのだろうと感じた。鬼は酔いのためか半ば無意識に、椀に残った酒を手のひらに受け、それで髭を洗った。
(愉快な頃も、確かにあったのじゃ)
鬼は濡れた顎と手を乱暴に袖で拭うと、あばら家に戻り少し眠った。
 明くる早朝。空は蒼く澄み渡り、薄絹のような雲がなびく。風はひんやりと涼しく、新緑を揺らしていた。ふたりは、あばら家の庭先に並ぶ。昨夜の話を受けて、高鼻は麓の様子を広く見てくる事にしたのだ。
「では鬼よ…」
高鼻がそこで言葉を止めたので、鬼は間が抜けてしまった。
「…何じゃ?」
鬼は怪訝。
「いや、ぬしは坊主に、ぬしを何と呼ばせるのかと思うてな」
ぽんと手を打った。なるほどそれは考えていなかった。
「鬼は鬼ではないのに鬼と呼ばせていては、不自然であろう?」
「聞いておって何が何やらわからんな」
「言うておる方もじゃ」
ふたりで思案顔。そもそもこのふたりにして、互いの名を未だに知らないのである。鬼よ高鼻よと罵り混じりに呼び合っていたのが、そのまま定着して百年を数えていた。
「さて、どうするか…む」
手毬の弾む音が聞こえた気がした。
「…ちいえ、とでも呼ばせるか」
高鼻は片眉を上げた。
「ちいえ? ちいは、小さいのちいか?」
「そうじゃ」
「えらく図体のでかい“ちいえ”じゃな、ぬしなら大きい“おおえ”で…」
そこまでいって、高鼻は絶句した。鬼の目を見た。鬼の目は、何も言うな、と寂しげに微笑んだ。
「今は昔の物語さ」
 かつて、都のはるか北、大江という名の山中に、荒々しき鬼たちが根城を構え、都を恐怖に陥れた。やがて鬼たちは天朝に害なすものとして、英雄たちに攻め滅ぼされた。
 それだけの話である。
 高鼻はここへ来て大いに戸惑った。鬼の、人間に対する姿勢の謎が、諸々と解けたのだ。もし鬼が大江山の生き残りだとするなら、人間そのものに深い恨みと復讐心を持っている方が自然ではないか。
「鬼よ…まことによいのか?」
狼狽する高鼻に比べ、むしろ鬼の方がさばけていた。
「わしがぬしに、坊主の行く末をいかんするかと問うたのじゃったな」
「そうじゃ」
「そしておぬしはわしに、わしがどこからどこへ向かうかと問うた」
「問うた」
鬼は視線を逸らし、口ずさんだ。
 ここのつ ここより なおとおく
 とおで とうげを あとにして
鬼の歌声に、様々な感情が詰まって聞こえた。
「わしの里の数え歌よ。鬼の子も人の子も異形の子も、歌って育った」
高鼻は大江の里を知らないが、漂泊の民の歌と感じた。鬼は続ける。
「天の気が晴れて、風が新緑を抜ける季節には、氷が解けた波が、旧い苔を洗う。時は繰り返すものなのかもしれんが、かといって、滞ってばかりもおらん」
今の言葉は、高鼻もどこかで聞き覚えのある言葉だった。思わず高鼻の口をついて出る。
「気 霽(は)れては 風 新柳の髪を梳(くしけず)り」
意外そうな顔をして、鬼が続けた。
「氷 消えては 波 旧苔の鬚(ひげ)を洗う」
ふたりは静かに微笑んだ。高鼻はばつが悪そうに、鬼は少し寂しげに。
「さて、行って参るかのゥ」
翼の揚力で空中にぶら下がると、眼下の鬼に出発を告げる。
「では改めて。勝手を押し付けてまことに申し訳ないが、しばらく坊をよろしく頼むぞ、ちいえよ」
「よさぬか、腕の肌に粟が立ちよったぞ。おのれまでそう呼ぶな」
「夕餉の支度が始まる頃には戻るとしよう」
「ついでの得物に期待しておるぞ。熊とか猪とか」
「春先はちと狂暴でなぁ」
いつもの軽口を射掛け合いながら、高鼻は両翼で空気を叩き、あばら家の屋根の高さに倍するまで昇った。そこで身をひるがえし、さらに二度三度と羽ばたく。体が風に乗るのを待って翼を大きく広げると、朝もやの煙る谷筋へ、滑るように飛んで行った。鬼は、高鼻が点と消えるまで見送った。
 鬼はひとり残り、森と山と空と、そして太陽を眺めていた。飽きもせず連綿と繰り返される、途方もない命の営みを思う。大兄の教えを、改めて噛みしめていた。答えも過ちもない。死ぬまで生きよ。殺さるるまで生きよ。誰であろうと。誰であろうと。愚かであっても、生命を繋げよ。ひたすらに。ひたむきに。
(どうなるものやら。まぁ、やってみるさ)
鬼は大きく伸びをすると、立ったまま脱力。大きな口を開けてあくびをし、目尻の涙を手で拭う。
「さて、坊主はまだ目を覚まさぬのかな?」
 鬼はきびすを返し、若い命が眠る己があばら家へと戻っていった。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す