「戦争と平和における善悪と正邪」慶應義塾大学法学部2022年

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(1)問題

次の文章は,「戦争と平和」の問題について論じている。著者の議論を四〇〇字程度に要約した上で,著者の立論に連関して考察を深めてください。なお,論述に際しては,論旨を補強するために,あるいは思考を深めるために的確と考えられる具体的事例への言及を行ってください。

① 今日の日本人を表むき支配している道徳的な思想としては,戦争を悪とする考えがまず第一にあげられるだろう。これは当り前のことで,いまさら問題にするまでもないとも考えられる。しかしながら,この思想は見かけほど単純ではない。戦争が悪であるというのは,病気や貧乏,失敗,あるいは死が悪であると言われるのと,ほぼ同じであろう。苦痛や苦労,悲惨,損失と喪失,破壊など,われわれが不幸と呼ぶところのものが,それに結びついて考えられるからである。

[中略]

② しかしながら,戦争が害悪であり,不幸であるということと,戦争について加害者と被害者を区別し,罪を定めることは,まったく別のことである。戦争が不幸であり,悪であるということは,比較的単純なことであると言える。そしてその不幸をもたらすものとして,戦争を罪悪とすることも,また比較的単純だと言えるかもしれない。しかしこの二つの考え,この二つの言い方はすでに同じではない。前者は戦争を直接その悲惨と破壊,損失と苦痛のままに捉えているわけであるが,後者は戦争をそのような不幸をもたらす原因として,因果に分けて考えているからである。

③ ところが,このように戦争を,それがもたらす不幸や悪から区別して考えることが可能になると,戦争と悪という,この二つのものの間に,また別の関係を考える可能性も出てくるわけである。つまり戦争の結果が,いつも必ず悪でなければならないかどうかということも疑問になりうるわけだ。つまり戦争にも他の面があるということである。具体的に言えば,勝利者にとっては,戦争は栄光であり,利得であるという一面があるとも考えられるだろう。また部分的には,戦争は堂々たる行進や勇敢な行為,あるいは敵陣をおとしいれて勝ちどきをあげるよろこびなどとともに。思い浮かべられることもあるだろう。戦争が損失と悲惨と苦痛のみであるというのは正確な考えではないかもしれない。

[中略]

④ 戦争は勝利者に栄光と利得をもたらし,一般参加者にもおもしろい体験をさせる一面があるにしても,それは他の多くの人びとに悲しみと不幸をもたらし,多数の人を殺し,また傷つけるのであるから,断じて容認することはできないと,怒りをこめてわたしたちは答えることになるだろう。われわれのこの感情から言えば,戦争がこれらの不幸を含み,これらの不幸の原因となるかぎり,他にどのような面があろうとも,これを罪悪として告発しなければならないのである。

⑤ そしてこれはなにがなんでもという形の絶対主張なのであるから,もうこれ以上は議論の余地がないということになりそうである。しかしながら,もしわれわれがこれらの問題について,単なる感情論を固執するのではなくて,もっとよく考えられた思想をもちたいというのであれば,戦争を告発し断罪するこの主張を,われわれは思想法廷にうつして,そこで反対の弁論とも対質させなければならないだろう。

  [中略]

⑥ 若干の現象を指摘すると,例えば,ベトナム――あるいは他のどこかでもいいのであるが,そこ――に「平和を!」というようなことを言いさえすれば,他にどんな悪事をはたらいていても,わたしたちはだれでもひとかどの道徳家になれるし,なにか高尚な気持ちになることもできるのであって,それは念仏をとなえることが,あらゆる罪からわれわれを救うのにも似ていると言えるかもしれない。しかもわれわれの場合は,自分自身の罪の意識におののくというようなことは無用なのであって,ただ他を告発し,断罪すればいいのだから,なんとも気楽な話だと言わなければならない。しかしただ怒りをこめて,他を非難すれば,だれでも道徳的に高揚された気分になることができるというのは,いったいどういう道徳なのであろうか。

⑦多くの場合,道徳は自分だけのアリバイ証明と自己弁護,そしてただ他を非難するための手段として利用されるにすぎないのである。そしてもっとも多く他を断罪する者が,最大の道徳家ということになりかねないのである。逆に法廷弁論の派手な演出によって,悪徳弁護士にすぎないような者が,正義を代表するかのように見られることもあるだろう。たしかに,道徳と法律とは大部分において重なるところがあると言わなければならない。しかしすべての道徳論が法廷弁論に還元されてしまうものではないだろう。わたしたちの道徳意識は,このような狭さから解放され,このような低さを脱しなければならない。わが国の政治論も,多くは法廷弁論の域を脱しないものばかりであるが,われわれは機会あるごとに,その考え不足を指摘し批判して,政治論や道徳論の本来性を回復するよう努力しなければならないのではないか。

[中略]

⑧ ヘロドトスの『歴史』に,アテナイがイオニアの叛乱を助けるために二十隻の船を派遣したということが記されているが,それについて,「しかしこれらの船がギリシア人にとっても,またペルシア方の人たちにとっても,もろもろの不幸(悪)のはじめとなったのである」という短い言葉がつけ加えられている。[中略]ペルシア戦争へと発展し,ギリシアとペルシアの両方に多数の死傷者を出すことになったのである。[中略]しかしこれによってヘロドトスは,ペルシア戦争を罪悪であるとして否定したわけではない。もし否定していたのなら,この戦争で「ギリシア人やギリシア人以外の人たちによって行われた驚異すべき大事業が,その栄光を失ってしまうことのないように」これを書き留めておくという,かれの『歴史』も書かれえなかったはずである。

[中略]

⑨ 「もしアテナイ人が迫り来る危険に恐れをなして,自分の国をすてて逃げ出すか,あるいはすて去らずに,自国にとどまるにしても,ペルシア王クセルクセスに降参するとしたら,海上においてペルシア王に敵対しようとする国は一つもなかったろう。[中略]しかし現実には,アテナイがギリシアを救ったのであると言っても,真相を間違えたことにはならないだろう。なぜなら,事態は,アテナイ人の向背によって,どちらへでも傾くペルシアなっていたからである。しかしかれらはギリシアが自由の国として残るほうを選んだのであり,まだペルシアの勢力下に入っていない残余のギリシア人すべてを奮起させ,神明の加護によって,ペルシア人を撃退したのは。まさにかれらだったのである。」[中略]

⑩ トロイア戦争にしてもペルシア戦争にしても,戦争は不幸なことであり,悪である。これを避けるためには,アテナイは水と土をペルシア王に献じて,すぐに降参すればよかったかも知れない。しかしかれらはギリシアの自由を死守することを選んだのである。それはかれらの罪であろうか。戦争は悪であり,不幸である。これはかれらの認識でもあった。しかしかれらは侵略者と戦い,自由のために戦うことを不正であり,罪であるとは信じなかったであろう。むしろその戦争を正義であると信じたであろう。つまり戦争において,善悪の区別と正邪の区別とは一致せず,むしろ分裂しなければならないのである。

[中略]

⑪ われわれは,戦争が悪であるというところから出発した。それは病気や貧困が悪と言われる意味において悪なのである。しかし戦争が悪であるということは,それだけでは道徳や倫理の問題とはならないのである。われわれが苦を避けて,快を求めるように,われわれは戦争をきらう。これは自然の傾向である。しかしそれが直ちに正邪の問題になるわけではない。わたしたちは戦後の「あまったれ民主主義」のなかで,戦争はいやだ,戦争に巻き込まれたくないというような悲鳴をあげれば,それが正義の叫びとなり,誰もがわれわれを救うために馳せつけて来なければならないと,簡単に考えてしまう傾向にある。

⑫ しかし正邪を空名にすぎないとする,立場の人たちは,われわれの悲鳴を聞いても,これを全く無視するか,あるいは意地悪くこれをからかって,そのなかへ原子爆弾でも投げこみたくなる誘惑にかられるかも知れない。われわれが無事でいるのは,かれらがそういう気まぐれを起こさないためか,あるいはもっと別の計算や深慮遠謀があるためか,あるいはひょっとして正邪の考えが独立の拘束力をもっているためであろうと考えなければならなくなる。そしてこの最後の場合において,はじめて道徳が意味をもってくる。それは正邪を空名とのみ考える一元説の立場がゆらいだ結果なのである。しかしその道徳は,かれらの意識,かれらの思考のうちにあることであって,悲鳴をあげるわれわれが道徳の立場にあることを意味するものではない。それは乳を求めて泣く赤児が,たまたま侵入して来た強盗を道徳の世界に引き入れるにしても,赤児自身が道徳的行為をしているのではないというのと同じであろう。われわれは戦争を罪悪とし,平和を主張しようと思うなら,われわれ自身がはっきりとした正邪の意識をもち,まず自分自身を道徳の,立場におかなければならない。

⑬ しかしながら,すでに見られたように,われわれの道徳論は他を非難し,他に罪をなすりつけるためのもの,法廷弁論の手段たるにとどまるのであって,それ以上は道徳について何も知ろうとは思わないものなのである。それは肝心の自分自身を抜きにした道徳論なのである。そしてこのようなことが可能なのは,心の奥底において道徳は無であり,単なる美名であると信じられているからなのであろう。正義はただ利用されるためにある。[中略]正義を無視して,ただ利益だけを追求するというようなことがすぐに見破られてしまうような者は,きわめて幼稚な愚かしい悪漢である。不正の極は,むしろ正義の仮画の下に不正を行なうことであると,プラトンは規定した。正義とは戦いにおける最後の勝利にほかならないと信ずる者は,戦争のために平和を利用し,他人の正義を自己の不正のために利用するだろう。

[中略]

⑭ もう一度はじめに帰っていえば,戦争は悪であり,不幸なのである。それは病気や貧困が悪である意味において悪なのである。しかしもしそうだとすれば,病気や貧困と同じように処理する道があるわけである。という意味は,われわれは病気や貧困を罪悪や不正であるとして,法律論や道徳論をもち出すようなことは,今日もはやしていないのである。この不幸と悪を取りのぞくために,われわれは罪人を探すよりも,薬や治療法を求め,施設をととのえ経済政策を研究するだろう。戦争の不幸についても同じことで,それの原因となるものを研究し,これを防ぐための積極的な方策をたてなければならぬ。そうすると,法的秩序というようなものも,罪人をつくるための組織ではなくて,戦争を防ぐための規定となり,問題も法廷から行政,あるいは立法の場にうつされることになるだろう。

⑮ 本来の政治というのは,司法よりも,立法にあるわけで,これは平和で幸福な社会というようなものを目ざして,その必要条件を法的に規定し,法的秩序を築いていく仕事なのである。議会は,告発したり,裁判したりする場所ではなくて,建議し,立案し,提案する場所なのである。そしてそれが政治の本領なのである。そしてここにおいて,法というものは人間の幸福,社会の善に奉仕する地位を得,正義と善との結合が,法廷弁論とは逆の積極的な意味をもつことになるのではないか。われわれは政治が,このような政治の本来性を回復することに協力しなければならない。それが恐らく世界平和への最も有効な努力になるだろう。
田中美知太郎『直言,そして考察―今日の政治的関心』(講談社。昭和四六年)所収。試験問題として使用するために,文章を一部省略・変更している。本文の初出は,「道徳問題としての戦争と平和」(「中央公論」昭和四一年一月号)である。著者は,「悪」の事例として,貧困と病気を比喩として提示している。今日の価値観からすれば付合しないという考えもあるだろうが,論旨の展開を生かす観点からも原文のままにしている。

 (2)考え方


項目を立てて、要約する。

(1)現代日本の2つの戦争観の弁別①②③⑩
・今日の日本人を表むき支配している道徳的な思想としては,戦争を悪とする考えがまず
第一にあげられるだろう。①
・しかしながら,戦争が害悪であり,不幸であるということと,戦争について加害者と被害
者を区別し,罪を定めることは,まったく別のことである。②
・しかしこの二つの考え,この二つの言い方はすでに同じではない。前者は戦争を直接その悲惨と破壊,損失と苦痛のままに捉えているわけであるが,後者は戦争をそのような不幸をもたらす原因として,因果に分けて考えているからである。
・つまり戦争の結果が,いつも必ず悪でなければならないかどうかということも疑問になりうるわけだ。つまり戦争にも他の面があるということである。③
・戦争は悪であり,不幸である。(中略)つまり戦争において,善悪の区別と正邪の区別とは一致せず,むしろ分裂しなければならないのである。⑩
(2)倫理的な立場(道徳論)での戦争反対論者に対する批判(この立場は感情論である)④⑤
・それは他の多くの人びとに悲しみと不幸をもたらし,多数の人を殺し,また傷つけるのであるから,断じて容認することはできないと,怒りをこめてわたしたちは答えることになるだろう。われわれのこの感情から言えば,戦争がこれらの不幸を含み,これらの不幸の原因となるかぎり,他にどのような面があろうとも,これを罪悪として告発しなければならないのである。④
・そしてこれはなにがなんでもという形の絶対主張なのであるから,もうこれ以上は議論
の余地がないということになりそうである。しかしながら,もしわれわれがこれらの問題について,単なる感情論を固執するのではなくて,もっとよく考えられた思想をもちたいというのであれば,戦争を告発し断罪するこの主張を,われわれは思想法廷にうつして,そこで反対の弁論とも対質させなければならないだろう。⑤
(3)道徳論からの解放と本来性の回復⑬
・しかしながら,すでに見られたように,われわれの道徳論は他を非難し,他に罪をなすり
つけるためのもの,法廷弁論の手段たるにとどまるのであって,それ以上は道徳について何も知ろうとは思わないものなのである。それは肝心の自分自身を抜きにした道徳論なのである。そしてこのようなことが可能なのは,心の奥底において道徳は無であり,単なる美名であると信じられているからなのであろう。⑬
・わたしたちの道徳意識は,このような狭さから解放され,このような低さを脱しなければならない。⑦
・われわれは機会あるごとに,その考え不足を指摘し批判して,政治論や道徳論の本来性を回復するよう努力しなければならないのではないか。⑦
(4)結論⑪⑫⑭⑮
・戦争が悪であるということは,それだけでは道徳や倫理の問題とはならないのである。われわれが苦を避けて,快を求めるように,われわれは戦争をきらう。これは自然の傾向である。しかしそれが直ちに正邪の問題になるわけではない。わたしたちは戦後の「あまったれ民主主義」のなかで,戦争はいやだ,戦争に巻き込まれたくないというような悲鳴をあげれば,それが正義の叫びとなり,誰もがわれわれを救うために馳せつけて来なければならないと,簡単に考えてしまう傾向にある。⑪
・われわれは戦争を罪悪とし,平和を主張しようと思うなら,われわれ自身がはっきりとした正邪の意識をもち,まず自分自身を道徳の,立場におかなければならない。⑫
・もう一度はじめに帰っていえば,戦争は悪であり,不幸なのである。それは病気や貧困が
悪である意味において悪なのである。しかしもしそうだとすれば,病気や貧困と同じように処理する道があるわけである。という意味は,われわれは病気や貧困を罪悪や不正であるとして,法律論や道徳論をもち出すようなことは,今日もはやしていないのである。⑭
・戦争の不幸についても同じことで,それの原因となるものを研究し,これを防ぐための積極的な方策をたてなければならぬ。そうすると,法的秩序というようなものも,罪人をつくるための組織ではなくて,戦争を防ぐための規定となり,問題も法廷から行政,あるいは立法の場にうつされることになるだろう。⑭
・本来の政治というのは,司法よりも,立法にあるわけで,これは平和で幸福な社会という
ようなものを目ざして,その必要条件を法的に規定し,法的秩序を築いていく仕事なのである。⑮
・そしてそれが政治の本領なのである。そしてここにおいて,法というものは人間の幸福,社会の善に奉仕する地位を得,正義と善との結合が,法廷弁論とは逆の積極的な意味をもつことになるのではないか。われわれは政治が,このような政治の本来性を回復することに協力しなければならない。それが恐らく世界平和への最も有効な努力になるだろう。⑮


戦争.png

 (3)解答例

  戦争を悪とする道徳的な思想が戦後の民主主義のなかで日本人を表むき支配しているが,戦争が悪で不幸であるという倫理・道徳的な観点と戦争の加害者と被害者を区別し,不幸をもたらす原因として戦争を考える観点を弁別せねばならない。前者のように感情論に基づいて他者を非難し罪をなすりつけるといった、自身を抜きにした道徳論から解放されて本来の政治論や道徳論を回復するよう努力しなければならない。それは戦争の原因を研究しこれを防ぐための積極的な方策をたてるものである。法的秩序は罪人をつくるための組織ではなく戦争を防ぐための規定となり,本来の政治は司法より立法に求められる。これは平和で幸福な社会を目ざしてその必要条件を規定し,法的秩序を築いていく仕事である。ここにおいて法は人間の幸福や社会の善に奉仕する地位を得,正義と善との結合が積極的な意味をもつことになる。それが世界平和への最も有効な努力になる。

 ただ戦争反対を声高に叫ぶだけでは戦争はなくならない。世界史は戦争の歴史であり,利害関係のある組織や国同士で戦争は生起する。戦争を抑止する方策を考えなければならない。第一次大戦前までは,対立する国家間で建艦競争を繰り広げ,不足分は軍事同盟を結んで補いあう勢力均衡方式で戦争を防ぐ試みが模索された。しかしバランスが崩れた結果,世界大戦を引き起こした。その反省から,国際機関をつくり対立する国家を縫合する国際連盟や国際連合を設立して,侵略行為が為された場合には,集団でこれを制止する集団安全保障方式が定立された。

 1991年,イラクが隣国クウエートに侵攻した際,国際連合安全保障理事会はイラクに対する武力行使容認決議を下し,多国籍軍がイラクの侵略行為を破砕した。この湾岸戦争に際し,日本国内では倫理・道徳的な立場から反対論が起こったが,戦争を絶対悪としてすべての戦争を否定するだけではイラクのような武力侵攻を止めることはできない。国際機関や国際法のない状態では,国家間の暴力の連鎖が果てしなく続き,戦争の惨禍が終わることのない世界に我々は置かれることになるだろう。

 1国の国益を超越した国際法は,国家間の紛争や独裁者の苛政や暴力から人々を守る働きを持つ。偶然生まれ落ちた国の独裁者の恣意や暴力的な国家体制により不幸な状態を甘受するといった理不尽があってはならない。個人の生命や財産の権利を守り,人としての尊厳を保つために法の支配が要請される。法は人の幸福追求を担保する普遍的な原理である。戦争を抑止するためには,どのような国際法をつくるべきか。法の支配が国際間で保たれるためには国際機関はどうあるべきか。このような平和と人権をめぐる問題についての法秩序の在り方を大学に入学した暁には,私は真剣に学んでゆく所存である。
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