「『私』という語の二重性」防衛大学校2017年

記事
学び

(1)問題


次の文章を読み、後の問いに答えなさい。

① 現在の憲法では「思想・信教の自由」が保障されている。これは「人権」の一つである。世間はそんなものを実質的には認めていない。私は子どもの頃から、それをよく知っている。なぜなら、
「お前のその考え方が悪い」と、大人にいわれ続けてきたからである。いまだってそういわれる。考え方とはつまり私の思想で、憲法では「思想・信教は自由」なんだから、大人がいう「考え方が悪い」は、憲法違反じゃないのか。子ども心にそう思ったから、以来これに関する疑問が付きまとった.でもそれに文句をいおうと思うと、憲法問題は最高裁の扱い、などといわれる。そんな立派なところに、子どもが文句を持ち込むわけにいかない。だからそのままになった。そのかわり、古希に近くなってから、またこうしてブツブツいっている。還暦を過ぎたら、子どもに帰るからである。
「お前のその考え方が悪いというのは、憲法違反だといった。しかし、日本人なら、だれも憲法違反だとは思っていないであろう。思想・信教の自由は、いわゆる人権の一つである。それに「表現の自由」も伴っているはずである。人権とは、個人に与えられた権利で、なぜそんなものが与えられているかというと、社会を構成するのは「私としての個人」だからである。こう書くと、多くの人が、
「そんなこと、あたりまえじゃないか」というかもしれない。とんでもない、あたりまえどころじゃない。「私としての個人」とは
「個人が社会を構成する最小の公的単位であり、その内部が私である」ということである。日本の世間では、じつはそれがそうではない。日本語においては、この「私」という言葉が、「自分」個人selfという意味と、「公私の別」というときの「私」privateという、二重の意味を持つことに、ぜひとも御注意くださいませ。

② ここでの議論が厄介になるのは、私という日本語のこの二重性である。というより、「私」という語は、西洋近代的自我の侵入から生じた、自己に対する新しい表現ではないかと思う。最初に述べたように、日本語における「自分」表現は、しばしばできたり消えたりするらしいからである。私自身もよく「私」を一人称として使う。それはたいてい「私見では」という意味である。言論は公だから、そこでいささか乱暴なことをいうには、私個人の意見であることを強調しなければならない。立派そうなことが書かれてあるからと、世間一般の人も私のように思っているなんて、うつかり誤解されては困るからである。

③ 一方、政府は公である。公は公権力を持っている。その権力が及ばない範囲が「私」である。それが公私の別である。それなら日本の世間では「私」とは、自分のことか。なんとそれが違う。違うというより、そこはいまでは完全な混乱状態に陥っている。そう私は見ている。そもそも「私」という重要な語が、二重の意味を持っていること自体が普通ではない。

④ 結論を先にいおう。日本の世間における、私というものの最小の「公的」単位、それは個人ではなく、「家」だった。日本の世間は「家という公的な私的単位」が集まって構成されていたのである。そういえば、年配の人たちはたちどころに理解するであろう。新憲法はそこに「個人」を持ち込んだ。つまり「自分」が最小の私的単位だと、公に決めたのである。公権力は、放っておくと、どこまで入り込むかわからない。だから西洋では、その公権力に枠を嵌めた。公が私に干渉してはならない範囲、それを「人権」として定めたのである。私=個人だから、人権つまり個人権でいいわけである。それならそれ以外は公である。人権週間というものがあって、そこでときどき話をさせられることがある。たいていは自治体主催の集まりである。そんな週間があること自体、人権がいかにタテマエかを示している。この場合のタテマエとは、「言葉とその意味内容と思われるものだけがあるべきものとして存在していて、実体が不在である」ことを意味している。タテマエの裏はホンネだが、そのホンネがもともとない。だって、人権は輸入品なんだから。そもそも人権が世間の常識だったら、人権週間なんてものはない。憲法は個人を公の私的単位と規定したのだが、世間は慣習である。その慣習は、公の私的単位は家だということでやってきた。個人なんか、関係ない。
養老孟司「無思想の発見』(ちくま新書、二〇〇五年)より抜粋
〈推薦採用試験〉

問一 著者の見解を要約しなさい。(一八○〜二二〇字以内。句読点や記号なども一字として数える。アルファベットを書く場合は二文字を一マスに記入する。解答用紙の一マス目から書き始め、段落設定はしない。

問二 傍線部について、あなた自身はどう考えるか。「私」という日本語の二重性を、具体的な事例を挙げつつ、別のことばでわかりやすく説明しなさい。(三八〇〜四二〇字以内。句読点や記号なども一字として数える。アルファベット行大を書く場合は二文字を一マスに記入する。解答用紙の一マス目から書き始め、段落設定はしない。

〈総合選抜採用試験〉問〈推薦採用試験〉問二に同じ

(2)考え方


問一

参考文のテーマである「『私』という語の二重性」を冒頭に書く。

次に、二重性をそれぞれまとめる。

第一が、西洋から輸入した「個人s e l f」で新憲法にも採用されたこと。

そして、公権力との関係から人権思想が発生した経緯についても触れる。

「公権力は、放っておくと、どこまで入り込むかわからない。だから西洋では、その公権力に枠を嵌めた。公が私に干渉してはならない範囲、それを『人権』として定めたのである。」

上記の引用文前半の表現「公権力は、放っておくと、どこまで入り込むかわからない。」を「公権力は放置すると私的領域に浸入するので」と整理した。
太字で示したように、参考文の筆者の舌足らずの部分を意味が大きく外れない範囲で言い換えたり、言葉を補ったりする。

重性の第二が、「家」である。

西欧は私的領域の「個人」から公的領域の「社会」が構成されているのに対し、日本の伝統では「個人」が存在しないので、「社会」も存在しない。したがって、「私」の最小の「公的」単位である「家」から「世間」が成り立つという構造をつかんでまとめる。

問二

憲法の条文にこだわって、自分の意見をまとめること。

防衛大は憲法を基本に考える習慣をつける。

サムネOK先生.png


(3)解答例

問一

日本語には「私」という語に二重性がある。一つは個人(s e l f)という意味で、西洋近代的自我という概念を輸入した。新憲法に規定されている「個人」の意味にあたる。公権力は放置すると私的領域に浸入するので、西洋では公権力が干渉してはならない範囲である「私」を「人権」として定めた。もう一つは「公私の別」というときの「私」(p r I v a t e)である。これは日本の世間における「私」の最小の「公的」単位で「家」である。日本の世間は「家」が集まって構成されていた。(219字)

問二 
 筆者の意見に賛成である。
 この問題について日本の結婚制度を例に考えてみる。憲法第13条の「個人として尊重」されるという原則に基づき、第24条では「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると規定されている。このように、結婚を個人間での契約とみなす一方で、結婚式場の受付で、「〇〇家」を掲げ、司会が「ご両家」と紹介するなど、今でも結婚を家と家との結びつきと考える傾向も残っている。このような考えの延長線上に夫婦別姓に対する反対論がある。理由として挙げられる「夫婦別姓は家族の結合を壊す」という主張は、世間における私的領域の最小単位である家制度を維持しようという意図が背後に窺える。また、日本では同性婚が未だ一般的に受け入れられていないのも同様の事情によるものと考えられる。
 以上のように、日本語というより、日本の社会制度の中に筆者の言う「私」という概念の二重性が認められる。(391字)
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