【オリエンタリズム】でサイードは何を訴えたかったのか

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(1)はじめに


国際関係学部や外国語学部、文学部の入試小論文の受験生に対して、基本文献としてサイードの『オリエンタリズム』を紹介する。

特に比較文化論を大学で専攻する受験生は、入学後のゼミの必読書として読まされる可能性が大であるから、今から買っておくのもよいだろう。

また、哲学科や慶應義塾大学文学部、秋田国際教養大学受験生も読んだほうがいいだろう。

内容は多少難しいので、通読するのは無理であれば、序説だけでも読むことをお勧めする。

(2)『オリエンタリズム』の衝撃


パレスチナ系アメリカ人の文学評論家エドワード・サイード(إدوارد سعيد Edward Wadie Said、1935 - 2003年)は、1978に発表した『オリエンタリズム』(今沢紀子訳、平凡社、1986年/〈平凡社ライブラリー〉、1993年)の中で、これまで西欧人が東洋に対して抱いてきたイメージを厳しく批判し、西欧のエスノセントリズム(自民族優位主義)を暴き、世界に衝撃を与えた。
この本の中では、古代ギリシャ詩人のアイスキュロスからユゴー、ダンテそしてマルクスに至るまで、東洋蔑視のオリエンタリストとして槍玉に挙げている。

はじめにオリエンタリズムとは何かをサイードの言葉で簡単に定義すると「『東洋(オリエント)』と(しばしば)『西洋(オクシデント)』とされるものとのあいだに設けられた存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」ということになる。

この思考様式を解きほぐすことで、東洋ではなく、鏡像としての西洋(人)の本質をあぶりだすことができる。

『オリエンタリズム』とは、東洋を理解するための研究ではなく、逆説的な手法で西洋を見極め、その権力構造を糾弾する書物であると言うことができる。
このような離れ業を成功させたのは、著者のサイードがパレスチナ出身であり西洋的教養を幼少時より身に付けた、いわば東洋と西洋の境界に生きる人生を歩んだからである。

(3)オリエンタリズムとは西洋のアイデンティティ形成の拠り所


西欧人の東洋(人)に対するエキゾチックなロマンをかきたてる憧れの裏には、「ヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現われを他者イメージ」がある。

そしてこうした東洋(オリエント)と関係する西洋(オクシデント)の伝統的な態度やものの見方をサイードはオリエンタリズムと呼ぶ。

ここで、サイードは「他者イメージ」という言葉を用いたが、『オリエンタリズム』の背後には、異文化理解を考える場合、自己(の帰属する文化)とは異なる他文化は、常に「他者」として立ち現れるという視点がある。

そして、この東洋(オリエント)という「他者」を通して西洋はオリエントと対照的なイメージ、観念、人格、経験を有するものとして自己のアイデンティティを見定めるうえで役立てた。

サイードの語るオリエンタリズムは、単なる東洋に対するイメージだけではなく、「諸制度、語彙、学識、形象、信条」、植民地官僚制と植民地的様式(コロニアルスタイル)という実態に支えられた文化的・イデオロギー的な言説(ディスクール)であるとする。
これは、多文化共生の問題を考える場合だけでなく、健常者の障がい者に対する関係や、ジェンダー論からの男性による女性支配の問題など、広く現代的な課題を哲学的に俯瞰(ふかん)して「他者」問題を考えるときに大変参考になる視点である。

(4)「知のエピステーメー」とオリエンタリズム


サイードの説くオリエンタリズムはさまざまな問題が複雑に絡み合っているが、なかでも重要と思われる問題は学問に関係するものである。

西欧の学者たちも例に漏れず、「オリエンタリストたることを権威の拠り所として、書物が書かれ、学術集会が開かれる」。

つまり、西欧の東洋学自体が東洋に対する優位性を前提として「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」として権威的に行われてきた。

これは、ミシェル・フーコーの『知の考古学』や『監獄の誕生――監視と処罰』のなかで主張されている議論がオリエンタリズムの本質を見極めるうえで有効だとする論点につながるということだ。

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この議論とは、フーコーの言う「知のエピステーメー(ある時代を特徴付ける枠組み)」のことを指すと考えられる。つまり、伝統的に西洋の学問に、東洋に対して優位的な立場で支配する権力構造をここに見るのである。

ここまでくると、こうした議論は一般大学の入試小論文を越えている。

あえて近いテーマの問題を探す場合、慶應義塾大学文学部や秋田国際教養大学などの過去問レベルに行き着く。

この論点は西欧の学問領域に限定されるものではなく、学問全般に当てはまる議論であり、日本の大学も例外ではない。

かつて、大学の権威や権力を「象牙の塔」として揶揄し、大学紛争では、これを徹底的に破壊する批判的な対象とみなされていたが、現在ではこうした議論はすっかり影を潜めている。

しかし、サイードの『オリエンタリズム』を敷衍すると、大学や大学入試そのものに対する懐疑に至る。

文学部哲学科の入試小論文では、このような思い切った視点で書くと、インパクトのある答案に仕上げることができる。

大学入試小論文をせっかく書くのだったら、学校の教科書で習った「お勉強」の範囲に留まらず、思いっきり牙を立てて、エッジの利いたトンガッタ議論を原稿用紙に展開してみてはいかがだろうか?

私が大学入試小論文の採点者であったら、従順でおとなしい優等生、去勢された羊のような学生ではなく(このような学生は学科試験で大量に入学してくる)、フーコーやサイードを読み込んだ、ちょっと生意気な若者を採る。

読者のみなさんには、元気のあるところを答案でぜひ見せてほしい。



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