「あの頃の”時代”はアホ果てしなく!💜」🎾🏸🚴‍♀️🏓🤿⚔️⛳😎😍

記事
コラム
💎あの頃は、今思うと”アンポンタンの時代”と感じています。
今の時代、機械技術が進展しています。
故に、機械に任せていいことは、機械に任せるという時代に進んでいると思っています。
その感覚を身に着けるという事が若い人たちの課題となっていると思います。いいとか悪いとかの問題ではなく.....


💎今のあるファッション店の経営というものが
こういう服があれば役に立つはずというものを形にできて
それが多くの人に受け入れられるという現実があっています。
つまり、機械技術の進展によりアイデアを形にできているという事です。
それが多くの人に受け入れられて多くのお金が回ってきて
そのお金をとにかくさらに技術等に生かし、
販売の方は店舗づくりを、受け入れられた商品をメインに展開。
その他の商品は、昔、着ていたファッションを売り場に飾る。
この商品は、今の人たちは知らないファッションなので目新しく感じるのです。そして、店舗数を多くすることにより市場支配と同時に売り上げ確保。
これが今の経営というものと思っています。
店舗数の拡大はあの頃と一緒です。
それと、接客というものを無くしています。
これも機械技術の進展を優先にしている時代の表現と思っています。
当然この機械技術の進展の中にスマホが含まれているのは当然です。
言い換えれば販売優先の時代ではないという事も言えると思います。
ということは、徹底しての経費削除が優先となっているともいえると思います。機械技術の進展というものは、機械を活用することにより
時代の波にも乗るという事、さらに経費面の削除により利益を確保するという経営に代わってきている時代と言えると思います。
堅実経営と言えると思っています。
これは、家庭のやりくり(経営)にもいえると思っています。

あの頃のファッション店は、機械技術が進展していなかったので
販売主体でした。
株式上場ということが目標になっていました。
販売の方法に主体がおかれ、さらにオリジナル主体で
デザイナーブランドを用いて接客をして、その服を買ってもらうという半ば
無理やりな販売方法が主体となっていたのです。
そして、目標数字(販売高)というものが存在していて
数字を達成できない社員は、自腹をきって購入するというパターンだったのです。さらに、会員カード(クレジットカード)と称して、人の囲い込みが主体となっていたのです。
こんな方法が長く続くわけがありません。
社員もお客さんも疲れるだけだったのです。今思うと.....!
これぞ、アンポンタンと言わずなんと表現するのでしょう!
そう思われませんか!皆さん!


💎あの頃は、ワルもふつうもそれなりに!
中学三年も二学期の後半にさしかかると
さすがにぼちぼち進路のことが気になり始めます。
特にH中学という泣く子も黙る無法中学にいると、
果たしてまともに高校に行けるのだろうかと本気で心配になってくるのです。
そんな中、真っ先に推薦入学の決まった連中がいたのです。
しかも決してレベルの低くないM工業高校へであるのです。
その連中とは、バレー部員たちだったのですが、
彼らがそんなラッキーをするには、もちろんそれなりの理由があったのです。
その年は、ミュンヘンオリンピックが行われた年だったのですが
それを控えて「ミュンヘンへの道」というテレビアニメが放送されていました。覚えている人も多いと思うのですが
これは日本代表の男子バレーチームを扱った番組だったのです。
森田、大古、横田といった選手をエピソードを交えながら紹介をしたり、
松平監督がチーム作りにいかに苦労したかをドラマチックに描いたりしてありました。
さて、チームの中にN口という選手がいました。
スター選手ぞろいの全日本チームの中では、地味で目立たない存在でした。
そのN口選手が、H中学のバレー部の出身だったのです。
そして、「ミュンヘンへの道」で、彼が取り上げられたのです。
そして、H中学の名前と正門の写真がテレビ画面に映ったのです。
H中学にとって画期的な事だったのです。
この盛り上がりは、本番のオリンピックで日本チームが
金メダルを取ってしまったことで最高潮に達したのです。
アナウンサーのコメントに
「ベンチで大声をだして、チームのムードを盛り上げましたN口選手」
というのが、ちょっと情けない感じがしました。
その後、N口選手は、H中学に挨拶に見えました。
このN口選手が、M工業高校に進んだのです。
要するに、M工業高校は、再びN口選手みたいな逸材が得られるのではないかと期待をして、H中学のバレー部員をほとんど無条件で受け入れることにしたのです。短絡的というか、いい加減というか、ま、おおらかな時代だったと
いうか、やはり、”アンポンタンの時代”.....!


💎やっぱり門は狭かった!
この春、姪が高校を卒業して、大学に入ることになりました。
つまり、彼女は、受験に成功したわけです。実にめでたいことです。
良かったなあと思います。
だがどうも物足りない気がするのは、
彼女の受験がちっとも受験らしくなく終結しまったからです。
いわゆる推薦入学というものです。
高校が某女子大の付属であり、そこそこの成績とそこそこの出席率
そして、そこそこの印象点を確保しておけば、一般の受験生みたいに
目の色を変えて、勉強せずともその女子大には入れてくれるのです。
姪は、最初から、それを狙ってその高校を選んだというのだから
これはもう彼女の作戦勝ちというしかないのです。
当然彼女の高校生活は、いかに推薦への道を確保するかに最もウエイトが
置かれたものになったのです。
中学時代は、ズル休みの女王とさえ言われていたのです。
そして、クラブに所属していないと推薦の時に
不利かもしれないとセコク計算をして、手芸部に籍を置いたのです。
さらに、生徒会長に立候補をして、当選。
自分の部屋もろくに掃除しないものぐさがそんな思い切った行動に出た背景には、内申書のポイントを稼いでおこうという腹黒い目的がひそんでいたのです。

現在は、毎年のように受験システムが変わり、
入試関係者以外は、誰も正確な仕組みを把握していないという状況ですが
あの頃は、すこぶる簡単で分かりやすかったのです。
一月と二月に主な私立大学の試験があって、三月には、国公立大学の一期校と二期校の入試が行われるというものです。
共通一次試験が開始されたのは、この二年後なのです。
私は、まず試験慣れを目的に、私立のk大学を受験しました。
まさかここを落ちることはあるまいとタカをくくっていたのですが
ある有名なコメディアンが卒業しているという理由で受験したのです。
のみならず「もし合格しても、あんなアホ大学へはいかんぞ」などと
命知らずの事を豪語していたのです。
それだけに試験が終わった直後には、顔が引きつっていたのです。
どの科目も、めちゃくちゃに難しかったのです。
これはやばい、脇の下からだらだらと冷や汗が流れ出したのです。
「ああ、神様、K大学を馬鹿にした僕が悪かったのです。
もし合格したら、喜んでいきます。ですから不合格にはしないでください。
お願いします。」
普段は、信心のシの字もないくせに、この時だけは、神棚に手を合わせました。
合格発表の日、友人たちといそいそと出かけて行きました。
ボードの前に立ちました。
友人の番号はありました。しかし、私の番号はありませんでした。
友達がぽつりと言いました。
「お前が受験したのは、電気やなくて、機械工学科では」と。
確かに機械だ!
番号が輝いて見えました。合格でした。
しかし、勘違いして受験票を破いていたのでした。
そして、予備校生活へ!
”アンポンタン”!!


大学受験に失敗した後、屈指の予備校に通う事になりました。
日本語の歌詞をつけて、西城秀樹が歌ってヒットしたと言えば
大抵の人ならわかるはずです。
予備校に行くことは気が進まなかったのです。
受験に失敗した者ばかりが集まって、陰気な空気を発し合っているという
イメージがあったからです。
そんな中に身を置くなんて想像するだけで鳥肌が立ったのです。
自分の性格を考えた場合、一人で勉強するなんてことが続けられるとは
とても思えなかったのです。
それに何より親が承知しなかったのです。
という訳で予備校に通いだしたわけです。
思ったより雰囲気は暗くありませんでした。


💎嗚呼(ああ)、花の体育会系!
F大学の合格発表の日、掲示板に自分の受験番号を発見した時の喜びは、
ベストテンぐらいに入る幸福な瞬間の一つでした。
何しろ浪人していたし、他にいく大学がなかったし、まさに崖っぷちだったのです。電機工学科合格。
この感激をじっくり味わっていたい、そう思った時です。
左横から黒い影が近づいてきて、僕の腰に抱き着いたのです。
体格のいい男が、ラクビ―のタックルをするような格好でしがみついているのでした。
「ボート部です。」男は、胴体に腕をまわしたまま言ったのです。
「あなたの為にカレーライスを用意してあります。ぜひ、部室へお越しください。」と。
「えー」
「腹減っているでしょう?カレーがほどよくにえてますよ!」
「ちょ、ちょっと、ちょっと、ちょっと待ってください」
「まだ、これから合格証明書をもらわないといけないのです。」
そしたら、それを受け取ったら来てもらえますね!
なに、今日すぐに入部してほしいとは言っていません。話だけでもぜひ!
話を聞いて、カレーライスを食べて帰ってくれたらいいのです。」
「ほんとにそれだけですか?」
「それだけです」
僕は、仕方なく承諾をしました。
証明書をもらうべく並んでいると、後ろから肩を叩かれました。
パンチパーマの男がにやにやしていました。
どう見ても受験生には見えませんでした。
「ボクシング部はどうかな?」と言われました。
しかし、ボート部の人に連れられて、カレーを食べる羽目になったのです。
高校の先輩から、ボート部はやめとけよと言われていたのでした。
結局、どこかの他のクラブに入るのがもっとも確実にボート部からの
勧誘から逃れられる道だという考えになったのでした。
早速(さっそく)次なる悩みが生じたのでした。
大学に入ったらどこかのクラブに入ろうと決めていたのです。
中学時代は、剣道部に入っていました。
小学校4年生からしていました。
男らしいというイメージと防具もかっこいいと思ったからです。
結局、アーチェリー部に入部をしました。
何となく垢抜けした響きがあったからです。
毎日ただでアーチェリーゲームができるという事だったのですが
矢を実際にいるようになったのは、入部から二か月以上たってからでした。
それまでは、何をしていたかというと、ただひたすら弓を引く格好ばかりだったのです。そして、その合間に「ちわ」とか「アシタ」だとかわめいていたのです。アンポンタン!!

大学で運動部に入った場合、一番つらいのは、夏休みがほとんど潰れてしまう事です。
夏休み前は、他の学生たちは、うきうきした顔で遊びや旅行の計画を
立てているのにこちらは、猛暑の下で練習に明け暮れる日々を想像して
ため息をついているしかなかったのです。
しかし、どこへも行けないというのではなく
夏の間一度だけあるのです。それは、合宿です。
でも、「おしゃれ」とか「さわやか」という感じからは、まったく無縁の
生活が始まるのです。


💎就職まで!
日本の大学の最も悪い点は、
入学に比べて卒業が簡単すぎるという事です。
これは、昔からよく言われていることなのです。
試験の時にちょこっとテクニックを使うだけで単位が得られるので
かなりパープーの学生でもスイスイと進級してしまえるわけです。
今思うと全く異常なことと思うのですが
入学から三年がたった日、知識を身につけないまま四年生になっていました。
途中停車なしの順調コースです。
それだけでも相当に厚かましいのに、そのまま試験テクニックのみで
卒業までこぎつけようと目論んでいました。
さらに命知らずな事にどこかの会社にもぐりこむことさえ考えていたのです。
四年生になると、卒業研究テーマごとに数人ずつのグループに分かれて
担当教授の研究室に詰め込まれることになったのです。
これから一年、ここで実験をしたり、レポートを書いたり、勉強会をしたりするわけです。
しかし、実はこの部屋には、もう一つ大きな意味があったのです。
それは、就職対策の作戦基地でもあったのです。
「一つの目安として」と教授は続けた。
「近所のおばちゃん連中でも知っている会社に入れるのは
一握りの優秀な学生だけだ。自分の事を優秀だと思っていないものは、
そういう高望みをしないように!」
頭の中で、いくつかの某有名メーカーの名前が、がらがらがちゃんと壊れていったのです。
「もし就職できなかったらどうしよう、というようなことを考えると
どんなに小さな会社でも素敵に見えてくるから不思議です。」
とにかくN社に入社することになりました。
独身寮に入ることにしました。
「これから三十年以上、この会社で働くわけか!」
そう思うと不安と恐怖に包まれました。
”よしやるぞ”、というようなガッツは出てきませんでした。
「まあとにかく」と自分に言い聞かせました。
「アホな事をするのもこれまで!今日からは真面目に生きていこう」
この時点では、まさか数年後にアホな事をやらかして
この会社から尻尾を巻いて逃げ出すとは夢にも思っていませんでした!
”アンポンタン”!!!


💎現代は、機械技術の進展により
人間の生き方に昭和と比べると変化が起きています。
しかし、人間の本質は、当然変わっていません。
人間に備わっている感性と理性!
昭和は、感性の時代だったといえると思います。
そして、機械技術の進展がもたらした理性優先となっていることに気づいたのです。つまり、仕事と趣味中心の時代と!
故に、感性の面は、二の次になっているので
人間にとっては、超ストレス社会とならざるをえないということが
いえると思います。
ということは、感性表現の趣味をすることにより
ストレス軽減と知らぬ間にスキルの身に着けも!
一挙両得が、効果を発揮するという事になると思っている次第です。







サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す