IT?プログラミング?AI?教育はどこへ?

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うるさいことをいうと、「IT」と「教育」というのはそもそもかなり違うものです。カッコ付きの「IT」だと、なんとなく「将来役に立つ」とか「良い仕事につける」とか、そのようなココロが入っていると思うのですが、「教育」(特に初等、中等教育)というのはそもそもそのようなものではなく、「人間としての成長」を目指すわけです。

つまりは、小中学校でやるプログラミング教育とは、IT教育ではありません。ここのところを、当初一部業界からの要請で検討を始めたような話だけを覚えていて、将来のプログラマーを養成するためにやっているというような前提で考えていると話が噛み合わなくなってしまいます。

ではなぜプログラミングが主に取り上げられているのかというと、考え方を表現する、という活動のエッセンスを取り出したものだからです。私が以前書いた他の回答にも「プログラミングとは新しい種類の数学である」という趣旨のことを何度か書きましたが、新しい数学としてのプログラミングが、実世界でも使われている、という方向性から考えられているわけです。

他のIT教育、ということでコンピューターを使った他の活動、ということもいろいろありますが、重要かどうかという点においては当初に挙げた「人間としての成長」につながりやすいのは、モノの考え方について考えることになるプログラミングが一番適切、ということだと思います。

コンピューターを使った教育というのは1960年代からあります。イリノイ大学で始まったPLATOというシステムでも、学生がした間違いを認識して、次に出す問題を変えていく、ということはすでに行われていました。その後も例えば分数の掛け算だと間違いは600種類くらいしかないので全てのパターンを網羅した教材を作ったJohn Seely Brownの研究などもありました。比較的最近でもCycorpによるMathCraftみたいなものもありました。


ただ、そちらの伝統は教育の「訓練」という側面、つまりは「間違いをなくして正しい答えが出せるようにする」という方向性だったと言えます。
学習が楽しい、というときにその楽しさはどこから来ているのかについて考えることは非常に重要です。
いわゆるごほうびがもらえるからやる、というのは「新しいことを学ぶ喜びがあるから」楽しい、ということとは違うわけですよね。
教育としては後者のような楽しみをいかに感じてもらうのか、ということが鍵になります。
そのような楽しみの中には、「素晴らしい先輩や先生がいて、それらの人がやっていることをできるようになる」というものがあることは否めません。となると、教育とは人間の成長、である以上、どのような人間になるかを示す「人」はずっと重要であり続けることでしょ?

プロの職人が作った家具が手に入らないからIKEAで買ってきて自分で作る、新聞は大きな紙のものをぱっと開いて一覧する、というのは贅沢で小さな画面で見る、というように教育にも価値とコストとのせめぎ合いがあります。

ちゃんとした先生が一人一人についてわからないところを見ながら教える、というのが職人の作った家具であれば、教育AIによる教育が、"hard fun”という意味での楽しさを与えるという意味で人間による教育を超えることはないように思います。

日本のIT教育が、後追いなのは仕方ありませんが、じゃあ後は追わなくてよいのかって話で、やっぱり追いかけましょうよって事です。
追っかけている最中にその20年とやらを縮める算段もでてくるでしょう、でもまずは遅れてると判ったから追いかけようってことですから、そんな追いかける前から文句言う暇があれば、走り出しましょう。今が後進国だとしても、今から追えば、20年後には追い付くかもしれませんし(ニッコリ
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