自家のルーツを探る手段としての「家紋」

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コラム
もうすぐお盆である。
しかしながら今年のお盆はここ数年と異なり、帰省やお墓参りをする人は多少増えるのかもしれない。コロナが終わったからである。
その際お墓参りをする人たちはそれなりにいるかもしれない。
自家のご先祖のいわゆるルーツに関心のある人は、ついでにお墓などに付いている家紋をしっかりと見てくることをお勧めする。

なぜならば自分の出自というか、自分の家のルーツを辿るのに家紋が非常に有効であるから、である。
私は昨年自作の物語に関わって、「遠江之守安田義定公と秋葉山本宮の関係」を調べたりしたのであるが、その際家紋が持っている重要性について改めて知ることに成った。

その『遠江守安田義定と秋葉山神社』において登場人物たちに語らせているが、日本の社会で家紋が使われるようになったのは、源平の戦い以降である。
もちろんそれまでも一部の貴族が、当時の自家用車である「牛車」を他家のそれと区別するために、自分の好みの草花や文様/図案といったモノをその牛車に描き標したことはあった。

が、それは一部の高級貴族のいわゆる遊び心にすぎず、広く世の中に流布したわけではなかった。したがって平安時代「家紋」はまだ、社会的な共通認識と成ってはいなかった。
それが世間一般に広く知れ渡り、家紋という概念が社会の共通意識にまで到達するのは、武家が社会の支配者になるタイミングである平安末期から、鎌倉時代初期を待たなければならなかった、のである。

具体的には「合戦」という戦や戦争が、きっかけだったのである。
それは味方と敵とを識別するための旗印が必要になったからである。「家紋」は将にその旗印そのものであった、のだ。
そんな中で最もシンプルは旗印は「源氏の白旗」と「平家の赤旗」である。
色だけで両者の違いを表し、武士たちが殺し合いの戦いが済んだ後、自分が帰る自家の在る陣地を知らせるのが、その旗印であったわけである。

「白旗」や「赤旗」はあくまでもスタート時のものであったが、「地頭」や「御家人」と言われる「一所=本貫地」を守ることに命を懸けた武士たちは、やがて自家独自の旗印を用いるようになって行くのである。
それが実質的な「家紋」の始まりであり、各地の「地頭」や「御家人」が活躍することで、全国規模で「家紋」という概念が普及し拡散して行くのであった。

合戦3.jpg

このような歴史があったから、「家紋」を知れば少なくとも鎌倉時代頃までは自家のご先祖に辿り着くことは可能なのだ。今から800年近く前までは辿れることに成るわけである。
その「家紋」は平安末期や鎌倉時代初頭はその種類は少なく、当初はせいぜい数十~数百であったものが、武士の台頭につれて次第に普及し、武士が支配者となる鎌倉から室町という時代を経て、家紋の数は次第に膨張していき、ついに江戸時代の後半頃には2万以上の種類を数えるようになった、という。

もっともこの間、日本の総人口も600数十万人からその10倍の6千数百万まで膨張しているから、家紋の種類の増加は分家化がかなり進んだことも影響していたである。
いずれにしてもそういった経過を辿ったこともあって、今や数万種に増えた「家紋」は自家のルーツを辿るのに有効な、メルクマール=指標になり得る。
一方で「苗字」があるじゃないか、という意見も当然ある。
しかしこれは主として分家が本家を探すのには役に立つとは思うが、それではせいぜい戦国末期までではないかと、私は想っている。
徳川幕府になって、士農工商の身分制度が確立した時期以降のルーツを辿ることはできても、それ以前まで遡るのは難かしいだろうと私は思っている。
即ち400年近く前までしか辿れない、のである。

それに「苗字」というのは実は「名字」であることが多い。
どういうことかというと「名字」とはその名称が示す通り「字(あざ)の名前」なのである。即ち当該者が居住している「字の名前」から出てきているのだ。
要するに居住地を表しているに過ぎない、のである。したがって、「名字」から自家のルーツを辿ることはできない。かえって誤解を招く。
具体的に言うと「安田義定」は甲斐源氏の一族であるが、甲斐源氏は「武田家」が嫡流となっているが、それは家督を継いだ「源信義」の一族、ということに成る。

源信義は甲斐源氏武田家の家祖になるが、その兄弟は「逸見光長」「加賀美遠光」「安田義定」と名字は異なる。
彼らの正式な名称は皆「源」なのである。彼らの正式な墓には皆「源〇〇」と書いてあり
安田義定も同様で、正式な墓に刻まれている名は「源義定」なのである。

そして彼らの「逸見」「加賀美」「安田」といった「名字」は、将に「字(あざ)の名」なのである。即ち「逸見荘」「加賀美荘」「安田郷」という、彼らが館を構え生活の拠点とした郷や荘(園)の地名なのだ。
これは現在でも同じ一族(すなわち同じ苗字)で呼び合う時、その居住地がある地域の名を呼んでいるのと同じである。

という事であるから、「苗字」を頼りにご先祖を辿ったとしても、それはやはり途中までしか辿れないことに成るのである。
そしてせいぜい身分制社会が固定するまでの徳川幕府まで、が関の山であろうと私は想定している。分家が本家に辿るまで、が限界であろう。

家紋3.jpg

したがって徳川以前の400年以上前のご先祖に辿り着くためには、先ほどの「家紋」が有効になってくる、と私はそう思っている。
より深い年代までご先祖を遡るためには、「家紋」をしっかり確認し、「家紋」を手掛かりに調査を始めれば、より古いご先祖まで辿り着くことが出来るのではないかと、そのように私は想っているのである。
という事で、お墓参りをする際にはしっかり先祖伝来の「家紋」を確認しておくことを私はお勧めする。それが自家のルーツを辿る第一歩と成るであろうから・・。
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