京都清水寺、「泰産寺」

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コラム
コロナウィルスの脅威が薄らぎ始めたこの11月、私は京都と奈良を訪れている。
北海道の寓居を飛び出し本州に向かうのは、この七月以来4か月振りの事である。
今回の主たる目的は私のライフワークである、鎌倉時代の武将の痕跡を求めた調査&研究と、現在取り掛かっている北大路魯山人に関する取材旅行、という事になっている。

この手の取材旅行に関して私はコロナが発生するまで、ほぼ二か月に一度訪れていたのであるがコロナ以降年に2・3回となっている。
と言った事もあり、久しぶりの関西である。

私が前回関西を訪れたのはほぼ二年前の今頃の事であった。学生時代の四年間を京都で過ごした私は、ここ数年二年に一度開催される様になったこのクラス会に参加していた。
前回から二年たった今年、本来であればクラス会が開催されるのであるが今年はコロナが収束していないこともあって、今回は見送られ来年以降コロナが収まるまで実施の予定が立っていないのである。
残念ではあるが仕方の無いことだ。

さてその「京都」や「奈良」であるが、言うまでもなくいずれも古都であり神社仏閣が充実してることから、観光客が訪れる街である。
今の私はそれらの観光名所の人出が、かなり増えている事を実感しているところである。

やはりコロナの感染状況が落ち着き始めたことが影響しているのであろう。
かくいう私自身出歩くようになったのは、寓居のある北海道や観光地である京都奈良においても、感染者数が一桁台に落ち着いているからこそである。

因みに京都は平日に滞在し、奈良は休日に訪れたのであったが、それぞれの観光名所を訪れた客層にかなりの差異があった事に、改めて気付かされた。

京都ではかつて北大路魯山人が30代の前半に、日本画家の富田渓仙と共に何年か過ごしたという、清水寺の山内にある塔頭「泰産寺」周辺を訪問したのであった。因みにこちらで見かけた観光客の多くは、小中高の修学旅行の学生達であった。

秋の紅葉がぽつぽつ見られ始めた清水寺奥の山麓に在る「泰産寺」は、いわゆる観光客の数は必ずしも多くはなく、「子安の寺」として知られている事もあってか、相対的に小学生の比率が高かったようである。
それに対し奈良の元興寺周辺の「ならまち」と呼ばれる一帯は、若いカップルや女性連れが多かった。



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           泰産寺周辺の自然豊かな環境


それはそうとして「泰産寺」は魯山人たちが数年間滞在し寄宿した寺であるが、それは彼らの自発的な意思ではなく、彼らの美意識を鍛えるために、彼らのパトロン(後援者)であった内貴清兵衛によって勧められた、一種の「修行」の場所であったようである。

東山山麓の一画に存するその寺の周囲は、言うまでもなく多くの樹木に囲まれた自然環境の豊かなエリアである。
四季折々に繰り広げられるそれら樹木を中心とした自然の移ろいや変化に、魯山人も渓仙も得ることが少なからずあったようで、後の彼らの創作物に活かされてきたようである。

実際のところ魯山人に関しては、彼が著名な存在になった40代に拠点とした北鎌倉の生活拠点及び窯場であった「星ヶ岡」は、実に自然環境の豊かな場所であるが、それはたぶん彼が30代前半に何年か過ごしたこの環境での経験が、大きく影響しているのではないかと、改めて私は感じ入ったのである。

魯山人も渓仙も、
冬には梅をはじめとした寒さにジッと耐える樹木を観、
春には桜と共に芽吹き始める若葉の初々しさに目を見はり、
夏にはむせ返るような樹々の生命力に圧倒されたことであろう。
そして秋にはモミジをはじめとした落葉樹の黄色や赤・茶色の変化に、感じ入ることもあったであろう。

かつて中川一政という洋画家が、「目が育てば、手もついてくる」といった様なコトを言っていたが、魯山人も渓仙もここでの数年間の滞在で、多くの目を養ったに違いない、と私は感じていた。

その後の彼らの芸術家としての成長ぶりを鑑みると、そのように推測することも出来るのである。
やはり人が成長や飛躍を遂げるためには、一定期間の修行というか蓄積の時間が必要であるのだという事に、私は想いを巡らせたのである。
今回の訪問はその私の漠然とした仮説を確かめるために、泰産寺を訪ねた様なものであった・・。

因みに同寺の周辺には「猿の出没」を示唆する警告の案内板が掛かっていたから、サルたちにとっても心地よい環境であるのだな、と一人ニヤついて泰産寺を後にした。



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          泰産寺に向かう途上に佇む夫婦石仏







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