蛍橋(ななせの本棚①)

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●こんにちは!ショートショート/短編小説専門作家の瀬名那奈世です。
このブログでは3日に一本のペースで短編小説を投稿していきたいと思います。生活のちょっとした楽しみに、ご依頼の際の参考に、ぜひお役立てください。(※無断転載等は禁止です!※カクヨム等で投稿した作品も含みます)

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No.1  蛍橋

 祖母が死んだ。
 がらんとした周囲を見回し、こんなに物があったのかと意外に思った。土間と台所はもともと何もないような場所だったけれど、いざ食器棚や冷蔵庫を運び出してみると、あれでも人が一人暮らしているだけの重みがあったことを実感した。今目の前にあるのはだだっぴろい板張りの床だけだ。窓から差し込むわずかな光の中に無数のほこりが漂っている。それに紛れるようにしてたんぽぽの綿毛が一つ通り過ぎた。
「なあ、克己、父さん村に挨拶に……」
「うん」
 父の怯える気配がした。がらり戸を閉めて、丸まった背中がすごすごと立ち去っていく。いらだちを抑えきれずに舌打ちをしながらスニーカーを脱ぎ、居間に通じる引き戸を開けるが、年中出されていたこたつも穏やかな祖母の笑顔もそこにはない。蒸し暑い八月の空気から切り取られたように涼しい部屋が、認めたくもない事実を突きつける。鼻の奥がつんとした。「ばあちゃん」と呼べば優しい声の代わりにしらじらしく鳴く蝉の声が庭から聞こえてくる。こらえきれずに顔を背け、再び引き戸を開けた。さっきまでなかった封筒が床の上に落ちていた。
「なんだ、これ」
 窓も扉もしっかりと閉まっている。不審に思いつつ拾いあげると、表に読みやすい楷書で『克己くんへ』と書かれていた。
 祖母だ。
 とっさに直感して慌てて封を切る。克己のことを『克己くん』と呼ぶのは祖母だけだった。封筒と揃いの白い便箋の上に、あて名と同じ字で短い文が書かれている。
 蛍橋にいらっしゃい。
 克己はスニーカーをつっかけ、はじかれたように走り出した。
 その橋の名を聞いたのはもう何年も前、克己が小学一年生の夏だった。
「ばあちゃん」
「なんだい」
 うつむいて歩く克己の手を引きながら祖母はゆっくりと答えた。
「お母さんはどこにいるの」
 幼い克己はしゃくり上げながら祖母の顔を見上げる。目が合うと、祖母ははっと目を見開いてから困ったように笑い、つないだ手をしっかりと握り返した。
「今お母さんはね、蛍橋にいるんだよ」
「ほたるばし?」
「死んだ人がお空に還るために通る橋さ。おばあちゃんの家の近くに大きな山があるだろう? 蛍橋はそこにある」
 ――死んだ人が通る橋――幼い克己の脳裏に、その言葉は強く焼き付いた。
「あった……」
 蛍橋は水の枯れた川にひっそりとかかっていた。右も左も考えずに走った克己の頬に一筋の汗が伝う。迷信だと思っていた。病死した母にもう一度逢いたいと泣く自分をなだめるために祖母がついた、優しい嘘だとばかり思っていた。それでも克己は不思議と、苔と蔦に覆われたこの橋こそが蛍橋であると認識できた。
 かつて母が通った橋。
 今祖母が通ろうとしている橋。
「ばあちゃん?」
 やはり返す声は聞こえない。静かな風が克己の声をさらっていく。
 自分の呼びかけに答える声がなくなることを、覚悟していなかったわけではなかった。生き物が死ぬものであることを克己はよく知っていた――同年代の子供たちよりも早くに母を亡くして、むしろ慣れたつもりでいた――でも違った。慣れるものではなかった。長く時を過ごした祖母との別れは母との別れよりもずっと……。悲しみを自覚した途端に立っていられなくなる。膝を抱えて顔をうずめると、唐突に父の背中が脳裏に浮かんだ。妻も母も亡くした彼はどんな想いであの家を片付けたのだろうか。いつか父も自分を置いて去っていくのだろうか。
 獣のうなるような音を聞いて、克己はとっさに立ち上がった。
 恐怖で涙は引っ込んだ。必死に辺りを見回してもざわめく草木が見えるだけ。それでもうなり声は確実に近づいてくる。山裾から克己のいる蛍橋へ向かってどんどんせり上がってくる。足がすくみ、逃げようにも逃げられない。もう終わりだ。もう、もう、
「――父さん!」
轟音が山全体を震えさせた。恐る恐る目を開けた克己の前には、黄金の世界が広がっていた。
蛍だ。
日本中からかき集めてきたかと思われるほどの大量の蛍が、水の代わりに枯れた川を流れていた。普通の向きではない。山裾から天に、重力に逆らって力強く這い上がっていく。蛍橋からはその全てが見渡せた。視界を遮る木々はいつの間にかなくなっていて、橋と克己だけがその場に取り残され、やがて黄金の波に飲み込まれる。
『克己くん』
 祖母の優しい声がはっきりと聞こえた。
 それだけでもう、十分に思えた。
 台所で眠りこけていた息子を部屋に運び込み、曽根原克人は大きく一息ついた。額ににじんだ大粒の汗を右腕でぬぐい、顔を下に向けて、ぷっと噴き出す。
背も態度もでかくなったわりには、寝顔の幼さは変わらない。
大変な思いをさせたとよくわかっていた。早くに母を亡くし、父親である自分は仕事詰めでほとんど遊んでやれず、そしてこの夏、唯一心を開いていた祖母も亡くした。寂しくないわけがない。悲しくないわけがない。もし自分がもっと克己と話をしていたならば、今頃その辛さを克己自身の口から聞けていたに違いなかった――たった二人の親子なのだから。寝顔ににじむ涙にこっそりと心を痛めるのではなく、もっと堂々と語り合い、泣き合えたはずだ。
これから目指していくしかないのだろう。
克人は夕飯の献立を考えながら立ち上がり、部屋のふすまをそっと閉めた。
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