閉校となる宮崎中学校

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コラム
夕日に照らされた木造の校舎の窓が
紅く光り輝いていた光景を、
50数年経った今でも忘れることはありません。

私が宮崎中学校に入学したのは、
昭和41年(1966年)のこと。
2年前の昭和39年、
東京が空襲で焼け野原となってからたったの19年で
奇跡と言われたオリンピックが開かれ、
それまでの高度成長が一段落した頃でした。

4クラス160人の同級生は宮崎小と旭小の卒業生です。
その年、男子バレーボール部が県大会で優勝。
それから4年連続で県大会を制しました。
(女子バレー部も2回準優勝しております)
その練習はまさにスパルタ。
勝つ事を義務付けられた練習姿には、
ある種の悲壮感さえ漂っていたのを覚えています。
(その後、同町内の賀美石中が県大会を制して新設された東北大会に出場)

郡内に在住の当時の先生方は、
皆さんお亡くなりになりました。
あの頃は問答無用で平手打ちをする先生がほとんどで、
何を隠そう私も随分と頂戴いたしました。

当時半グレ状態だったある先輩などは
A先生から数発の平手打ちを喰らい、
その日を境にまともな生徒になったという嘘のような本当の話もあります。
(暴力礼賛する気持ちは全くありません。)

それから時が流れて平成元年。
宮崎中と賀美石中が統合して新宮崎中学校が誕生。
その年の郡の陸上競技大会で新生宮崎中の生徒が大躍進し
「赤い旋風」と呼ばれました。

そして平成4年と5年。
たまたま私がPTAの役員をしていた時も同様です。
30数種目中の半分以上を宮崎中の生徒が制しました。
赤のユニフォーム姿が
当然という顔つきで次々とゴールテープを切る様は、まさに圧巻。
「何なんだ、この子たちは。」と
ある種の寒気すら覚えたものです。

平成4年には、
3年生の確か7割以上の生徒が
部活か陸上大会で県大会に出場しています。
スポーツの宮崎中の面目躍如。

また平成6年には頭髪の自由化が実現しました。
実は私が宮崎中に入学した当時は、
頭髪は自由だったのです。
それが忘れもしない中学1年の11月、
校長先生が朝礼で突然断髪令を宣言しました。
「男子は今週中に全員丸坊主にして来い。」

自分の子供たちで頭髪の自由化が叫ばれた時、
親からは不良化につながれるのでは、という心配が出ました。
行政区の先生との懇談会の席で私は、
髪を長くして不良になるなんてナンセンス、
仮に学校が荒れたらそれは時期的な問題だ、
みたいな発言をした覚えがあります。
自分の代に丸刈りになり、息子の代に自由化になる。
その長い年月を思うとなかなか感慨深いものがありました。

また、中新田署での青少年犯罪についての会議では
旧宮崎町の犯罪率が極端に低かったことも印象に残っています。
当時は県内の多くの中学校が荒れていた時期で、
特に大崎地方の全ての市町村で憂慮する事態となっていました。
その中で旧宮崎町だけが極端に低い犯罪率だったのです。
(人口が少ないから当然?いいえ、それは数ではなく、率。つまり人口千人あたりの割合です。)

私が旧宮崎中学校に入学して56年、
その後平成元年に宮崎、賀美石両中学校が統合した新生宮崎中学校が誕生して33年。
来年には新設の統合中学校が誕生して当校の歴史が幕を下ろします。
この中学校に関わった全ての方々に
感謝。

思い出すのは故郷の道で
みんな一緒に離れずに
ゆこうと言った仲間たち
「仲間たち」より。クラス












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