山王神社の思い出

記事
エンタメ・趣味
そもそも私が初めて山王神社へ足を運んだのは、
小学校1年の春の遠足の時で、
それ以来しょっちゅう友達と徒歩や自転車で遊びに行ったものでした。
私がまだバリバリの若い頃に所属していた草野球チームの「宮崎山王クラブ」の名称もここからとったもので、
それほど旧宮崎町の中部地区の住民にとっては、
山王神社はシンボル的な存在だったわけです。

あの日、春の柔らかな日差しの中急に思い立ち、
ママチャリにまたがって颯爽とでかけました。
心沸き立つ思いでワクワクしながら麓坂を降り、
熊野神社の入り口を通り過ぎ、行沢方面へ向かいます。

まもなく山王神社へと続く小道を降り立って道端に自転車を置き、
そこからは歩いて行くことになります。
ところが何ということか、背丈以上に伸びた笹や草木が生い茂り、
行く手を遮っているのです。

以前の記憶と「勘」を頼りに、
半ば強引にそれらをかき分けていくと、
やがて参道らしき道に出ることは出たのですが、
そこには杉の枯れ枝がどっさりと堆積していて
どこがどこやらさっぱりわかりません。

うっそうとした杉の木立を通り抜けると、
オヤシロの前にちょっとした広場というか原っぱがあり、
かつてはそこに寝転び、心地よい日差しを身体いっぱいに浴びながら
空ゆく雲を眺めたりしたものでしたが、
大雪のために倒れたらしい大木が幾重にも重なり合っていて、
かつての原っぱの面影などどこにもありません。

そればかりか
その倒木を乗り越えたりかいくぐったりして
やっとの思いでたどり着いたオヤシロの屋根にも、
松の大木が覆いかぶさるように直撃していて
無惨な姿になっていました。

ぼうぜんと立ち尽くしてしばしそれを眺めておりましたが、
気を取り直して裏山の方へと歩を進めました。
神社の脇の細い道を行くとすぐに、
ものすごい絶壁の崖の上に出ます。
そこには、
岩の地面にまるで大蛇のように根を張った松の木が、
崖から身を乗り出すように生えています。

春の霞の中に
昼下がりののんびりした街並みと、
水を張った美しい田園が見えます。
正面にはまだ雪の残る船形連峰がたおやかに横たわり、
その手前には薬来山の勇姿がどっしりと腰を下ろしています。
目も眩むばかりの崖下には
田川がかなりの急な角度でその流れを変えています。

その昔、
ここから大声で叫ぶと同級生のBK君が家から出てきて、
こちらに手を振ったりしたものでした。
中学生の時分
ここからの眺めをこよなく愛したTS君は、
よくここに腰を下ろして静かに町を眺めていましたっけ。

青春の入り口に差し掛かった頃の
心の中に同居する光と影。
いわれなき孤独感、
大人になることへの不安と抵抗、
彼の後ろ姿には
それらのものがまるで陽炎のように立ち上っていたのを覚えています。

燃えたぎる熱き血潮が迸るように、
言葉にならない叫び声をあげる奴もいました。
(私ではありません念のため)
しばしの間 時を忘れ、
遠い昔の思い出に浸りながら過ごした
春の昼下がりのひと時でした。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す