※(21) 過去に掲載したものを、改正して再投稿。
【短編集(シリーズ)より】
本文
私が窮屈なスーツを脱いで、浴衣に着替えようとすると、
君はまるで、いつもそうしているように、
わたしの足下に跪き、私が脱ぎ捨てたものを手に取り、
皺を伸ばして、ハンガーに掛けて衣装棚に吊す。
私の長風呂の癖を知っている君は
「部屋の鍵は私が持ちますね。」
と、私を促す。
それではと、部屋の入り口へ向かい掛けたところへ
先程の仲居が慌てたように、宿帳を持って入ってきた。
先程一緒に持ってくるはずだったのが、
他の部屋の、お客のところに回っていたのだという。
座卓に移って、仲居が宿帳を広げ、記帳ののためにページをめくっている中に
一瞬見覚えのある名前が見えたような気がした。
が・・
詮索してはいけないことである。
私は「桔梗」と書かれた真新しいページに、
部屋に備え付けの、ボーペンで記帳した。
その時になって初めて、部屋の名が「桔梗」であったことに気付く。
私は、今日は少し動揺している様だ…。
私は万一に備えて、
宿帳には本当の住所と、氏名を記帳することにしている。
住所 東京都世田谷区太子堂・・・・
氏名「神津 良亮(こうづ よしあき)」妻「美鈴(みれい)」
職業 会社員 自宅電話番号 03 3487 ****
記帳しながら、君の顔をそっと伺う
君は、素知らぬ風を装いながら、
妻「美鈴」の文字を見た瞬間
少し上気したように見えたのは、私の気のせいか…。
記帳を終えると、
改めて、私の浴衣姿と、私達が手にしたタオルに眼を止めた仲居は
「ここのお湯は直に湯本から引いている、天然温泉の掛け流しでございます。
地下に大浴場と岩風呂がございます。」
「夜中の12時に男湯と女湯が切り替わります。ごゆっくりお楽しみ下さいませ。」
自慢げに、愛想を浮かべて言い終えると
「夕食はこちらにご用意しますか、それとも大広間の方になさいますか?」
と、尋ねてくるので
ゆっくりと、束の間の逢瀬を楽しみたい私は、
「こちらに頼む。」
と申し出た。
仲居は、居住まいを正すと、予想していたかのように
「かしこまりました。」
一礼すると、静かにふすまを閉めて、引き上げて行った。
君は私に背を向けて
籐で編んだ屏風の向こうで、浴衣に着替える。
紺絣が似合う君には浴衣もよく似合う。
座卓の向こうに
こうして君の浴衣姿を見るのは久しぶりだ。
続
※この話はフィクションです