ウクライナのことから考える(後半)

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コラム
(昨日の続きです)
 小林秀雄(批評家)は『思い出のない処に故郷はない。確乎たる環境が齎す確乎たる印象の数々が、つもりつもって作りあげた強い思い出を持った人でなければ、故郷という言葉の孕む健康な感動はわからないのであろう。』と述べています。

 自分や家族が生まれ育った故郷を「命に代えてでも守ろう」という強い意思は、単にウクライナという物理的な意味での“土地”に向けられたものではなく、小林秀雄が言うところの故郷に近い想念が込められているのだろうと思います。

 だからこそ「命に代えてでも」ということになっているのだろうと私には感じられます。東日本大震災でも、自宅に大切な“想い出”を取りに帰って津波に飲まれでしまった方もいます。それを「愚かだ」と言うことを私にはできません。また特攻隊の遺書に書かれている故郷への想いにも通じるものがあるようにも思えます。だから、第三者が「死ぬくらいなら逃げろ」などと軽々しく言うことはできないと思うのです。
 そのようなことを考えながら、一刻も早い自体の終息を願っています。
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