本日は納品がなかったので自分の願意で
世界平和を祈願しました。
サン=テグジュペリの『星の王子様』で、
「大切なことは目に見えない。だから心で見るんだ」
というセリフがあります。
心や空気は見えないもの
たとえば、心を見た人は一人もいません。
ポケットから小銭を出すように
「これが心だよ」
と人に見せることはできません。
それでも私たちにはたしかに心があり、
「お金よりも心が大切だ」
と考える人はたくさんいます。
もっとわかりやすく言うと、空気は人間の目には映りませんよね。
水は目に見えますが、空気は目に見えないものです。
それでも生きていくには水も空気も必要で、
「見えない空気よりも、目に見える水の方が大切に決まっている」
と言う人はまずいないでしょう。
心も空気も例えですが、人というのは目に映らないものがなければ生きていけない存在です。
そう考えると、私は
「目に見えないものにこそ、大事なものがあるのではないか」
と感じ、それはもしかしたら神様そのものなのではないかと思ってしまいます。
神様も見えないもの
神様も神話も目に見えず、確かめようがないものです。
しかし、「信じる」「信じない」ではなくて、「大事にする」という考え方の方が私にはしっくりきます。
見えないものは見えないままでも、何かを感じ取るというのは豊かなことです。
見えないものを感じる
見えないものを「感じる」ためには、そちらに意識を向けなければなりません。
私たちは無意識に呼吸しているとき、空気も、自分の体内の肺や血液の働きもまったく感じないものです。
しかしひとたび意識しはじめると、驚くほど緻密は作業が行われていることが想像できます。
「空気を吸って、吐いている」
という単純な作業のように思えますが・・・
「口と鼻が息を吸い、それを肺が受け入れる」
「肺は酸素を血液に送り込んで、血液中の二酸化炭素と交換してもう一度、息を吐き出している」
「これを24時間365日、休みなくやってくれている」
「だから私たちは生きていられる」
という意識が芽生えませんか。
「見えない何か」に感謝
こんな風に考えると、ただただ、「すごいなあ」と思ってしまいます。
これが科学者なら「人体の仕組みは素晴らしい」と言うかもしれません。
自分大好きな人なら「俺ってすげえじゃん」と誇らしくなるかもしれません。
そして私は、「ありがたいことだなあ」と感謝の気持ちを抱いています。
空気という目に見えないものがあって、
今の科学では完全に証明できない
『命の仕組み』という「見えない何か」
が存在している。
そんな気がしてなりません。
その気持ちの延長として、「見えない何か」に感謝したくなります。
私はたぶん、その「見えない何か」を神様だと思っているのでしょう。
何か良いことや嬉しいことがあったとき、
「偶然」と思うこともできるし、
「神様のおかげだな」と思うこともできます。
神様に関する仕事をするようになってから、私は朝、
「あ、今日も目が覚めた、生きてる。ありがたいなあ」
と感謝できるようになりました。
そして神棚に向かって
「今日も新しい一日を迎えられてありがとうございます」
と感謝の言葉を述べます。
当たり前という誤解
人は朝になれば目が覚めるのは当たり前だと思っていますが、
「明日の朝、目覚める」
という保証はどこにもなく、たとえ若くて健康な人でも、夜中に呼吸が止まったり心臓が停止することもあるでしょう。
また夜中に火事が起きたり、強盗に入られるかもしれません。
脳が機能停止することだってあるでしょう。
神様を意識すると、そんな目に遭わないように、私たちが寝ている間も働き続けてくれた自分の身体と「見えない何か」に対して、感謝の気持ちが湧いてきます。
そんな気持ちで発する
「おはよう」
は、我ながら清々しい挨拶だと思います。
もちろん、忙しいときや寝坊したときは
「もう朝か・・・」
「やばい、朝食抜きでいこう」
となって感謝などできません。
そんなときでも数秒だけ時間をとって
「朝、目が覚めた、ありがたいな」
とあえて意識することにしています。
多少わざとらしくてもこれを繰り返し、感謝する習慣ができると
「普通でいられることの幸せ」
を感じられるようになります。
何も起きないことの幸せ
朝、目が覚める幸せ。
太陽が光を照らしてくれる幸せ。
ご飯を食べられる幸せ。
食べたものを健やかに消化してくれる幸せ。
たとえ平凡で何もなかった一日も、
「今日も何事もなく穏やかに過ごせた」
と幸せを感じることができます。
トラブル続きでわりとヘビーな一日であっても
「まあとりあえず生きているし、いい経験ができたと思えばいいかな」
と幸せを味わうことができます
燃えるような恋をしたり、仕事で大成功を収めるような
「感極まって心震えるような幸せ」
が銀座で食べるお寿司や高級フレンチだとしたら、
「今日を普通に生きる幸せ」
は、毎日のお米やパンです。
いつも食べているものがおいしいなら、人生はそう悪いもんじゃない。
そんな気がします。
幸せはすでに自分の手の中にある?
多くの人は
「幸せがほしい」
「幸せになりたい」
「幸せを手に入れたい」
と必死になって、実体のない「幸せ」を探し続けています。
しかしそれは単なる欲求や欲望にすぎず、
「幸せ」はもうすでに、自分の手の中にあるのかもしれません。
「幸せ」は手に入れるものではなくて
「幸せ」は心で感じるもの。
そう思いませんか?