経歴

職歴

  • 社会福祉法人 旧作業所(現生活介護事業所) 2000年4月 2005年3月

    ・支援員 / チーフ 支援員 / その他 2000年4月 2005年3月

    主に知的障害・発達障害をもつ18歳以降の生活支援や、仕事(作業)を通してできることを増やしていく取り組みを行いました。 働くこと・生きがいを大切にする事業所で、私は紙漉き班・製菓班の担当を担いました。 障害の程度によりそれぞれできることは異なりますが、工程を細かく分けることで誰もが参加できる形を作ることが私の得意分野です。 紙漉きであれば ① 牛乳パックを切り開く ② 煮た牛乳パックから外側の紙をめくり、つるつるのポリエチレンをはがす ③ 残った紙部分をちぎる→更に細かくちぎる ④ミキサーにちぎった紙と計った水を入れてスイッチオン ⑤ 紙漉き液を作る ⑥ 網を敷いた紙漉き枠で液をすくう ⑦ 紙漉き枠から網を外し、タオルの上に置く ⑧ その上に布をそーっと置き、綿棒のようなものでパン生地を広げるように水気を切る(コロコロと命名♪) ⑨2日乾かしたあと、はがきにするため郵便番号のハンコを押す ⑩ はがきとして販売できるように重さを検品 ⑪ 3枚ずつ袋詰め → 完成!! 重度・最重度の方が所属するグループでしたが、何度もの練習を重ねることにより最終的には私たち支援員が声掛けをするだけで取り組むことができるようになりました。 その中で仲間同士の会話も生まれます。 「なんでミキサーに水を入れる時、こぼれるのかなー?」→「立って入れたらいいんじゃない?」 「Sさん、ハンコ押すのじょうず~!」(同じ位置に押すことができるように治具を作りました) あたたかーい雰囲気から出てくる言葉。 ほぼ自発的な言葉がないSさんからのいきなりの「ナスたべた。みそしるのんだ」。 あまりにびっくりして私はお母さんに連絡帳で伝えました。すると、朝食がなすの味噌汁だったとのこと。お母さんも一緒に喜んでくださり、私はとても幸せな気持ちになったのでした。 保護者の方ともとても近い距離で、悩みごとなどの相談に乗ったり、一緒にバザーや草刈りをしたりと、ご家族からもたくさん学ばせていただいたことは、今の私の財産でもあります。 生きがいも大切にする事業所。働いて得た工賃の一部はみんなのリクエストから、カラオケやボウリング・買い物などのお出かけで使った他、「旅行に行きたい」という言葉を受けて一泊旅行の実践につながりました。地元の郵便局に協力を得て、まずは一人ずつ口座を作りました。毎月の工賃の中から1,000円ずつ貯金。一人ずつATMで入金していきます。そのうち、貯金をするといいことがあると思った最重度のKさんは、工賃をもらうと必ず「ちょきん!」と言うように。貯金がパニックを止めたこともありました。 1年ほど経った頃みんなの不安が…。 「いつ旅行に行けるの?」。その気持ちを受けて私たち支援員は「貯金実行委員会」を提案。「やりたーい!」とみんな。 3つあるグループの中から各2名ずつ計6人が代表に選ばれ、私ともう一人の支援員が支えながら「どうすればみんなの不安が減るかな」を考えました。 「今まで溜めた1,000円がいくつあるのか紙に書いたらどうかな」「それがいっぱいになったら旅行に行けるってことにしない?」「でも初めてのお泊りって心配。大丈夫かな」。 たくさんのすてきな案があがり、支援員も忙しくなってきました。1,000をたくさん書いた紙を一緒に掲示したり、事業所でお泊りの練習も行い、今まで見えなかった不安さや夜の過ごし方もわかって、私たちの勉強になったことは間違いありません。 そのあとは「旅行実行委員」が大活躍。ここでも私がみんなと共に考えていけることとなりました。 行先を絞ってグループのみんなの意見を聞き、また実行委員会に戻す。旅行代理店に出向き「このお金で行けることろはありますか?」と聞きに行ったり、宿が決まれば下見にも一緒に行ったり。支援員は後方支援のみ。でも何を見てくるか・聞いてくるかは何度も実行委員会で確認です。下見に行ったあと、露天風呂の説明を聞いた知的障害・ダウン症のOさんは、みんなの前で「おそと おふろ あつい」と発表。こみ上げるものがありました。 旅行は、水族館がメイン。なんと観光バスでの移動。乗った瞬間みんなが拍手。忘れられません。バス内ではカラオケは歌いたい放題、夜の宴会もグループごとの出し物などで盛り上がりました。 実行委員さんは、お世話してくださった宿の方へのお礼も欠かしませんでした。何も伝えていないのに正座をして深々と頭を下げる姿。「ありがとうございました」の感謝の言葉。 私はすばらしい体験・経験をしました。 この事業所は、私が高校2年生の時にボランティアで訪れたことが出逢いのきっかけでした。 「寄り添う」ことを教えてもらった大切な場所です。

  • 社会福祉法人 旧作業所(現就労継続支援B型事業所) 法人内異動 2005年4月 2007年6月

    ・洋菓子工房 / チーフ 支援員 / その他 2005年4月 2007年6月

    一番目に働いた社会福祉法人が、新しくB型事業所を作り、そこで製菓作業にかかわっていたメンバー数人と共に新しい仲間も加わって、クッキーやケーキ作りに取り組みました。 重度の方でも製菓で力を発揮できる人は異動。「新しいところは不安だけど、みんなで行けば大丈夫」と意気込んで始めました。 私が取り組んだのは、メンバーの支援計画作成・日々の作業の工夫・メンバー同士のコミュニケーションづくり・あらゆる場所への商品の営業・商品開発・製菓に関する経理全般。商品が売れないとメンバーの工賃を出すことができないので必死でした。 しかし、メンバーのことも商品のこともどちらも抜くことはできないと、たくさんの人の協力を得ながらメンバーの成長を応援してきました。

  • 障害者就業・生活支援センター 2007年8月 2015年3月

    ・相談員 2007年8月 2015年3月

  • 発達障害者支援センター 2016年2月 2019年10月

    ・相談員 2016年2月 2019年10月

  • 〇〇市教育委員会 2020年7月 2021年3月

    ・一般学級の中で個別な配慮を必要とする生徒への支援 / 学習支援員 2020年7月 2021年3月

    特別支援級ではなく、一般学級の中で困っている児童のお手伝いをしてきました。 私は2年生の担当でした。3つあるクラスを3人の学習支援員が一人ずつ週替わりで入っていきます。 先生がクラスをどのように作っていこうとしているのかによって、学習支援員の立ち位置はクラスごとに変わります。あくまでも主は担任なので、担任の先生と時に話したり、気持ちを汲み取りながら臨機応変に対応することが求められました。 一般学級の中には、先生の指示だけでは理解が難しい児童が1~2割はいます。 「わからない人は手を挙げなさーい」「先生の机のところに立って出て聞きにきなさーい」と言われても手を挙げることも聞きに行くこともできない児童。話を聞くと「聞いてもわからないから」と本音を話してくれる児童もたくさんいました。 音楽の時間にピアニカの自由練習をすることになった時、突然泣き出した児童がいました。耳を押さえてうずくまっています。その児童は発達障害の診断を受けていると聞いていました。もしかして聴覚過敏かもしれないと思った私は「大丈夫?」とやさしく声をかけながら「耳栓って知ってる?」などと話をしました。その後担任の先生に児童と話した内容を伝え、そこから音楽担当の先生にも状況が伝わりました。 児童は帰宅してこのことをお母さんに話したのでしょう。翌日その児童はイヤーマフを持ってきました。保育園の時に使っていたんだそうです。ピアニカの一斉練習では何事もなくいられるのに、いろいろな音が混じる自由練習の時にはしんどくなるのが聴覚過敏。ピアニカの時だけではなくいろいろな場面でそのしんどさは現れます。自分でイヤーマフにさっと手を出す時もあれば、アイコンタクトで私にヘルプを伝えてくれるようにもなりました。 私もHSPで感覚過敏をもっていて、しんどさがとてもよくわかります。理解して寄り添ってくれる人がいるだけで、聴覚過敏のつらさが軽減することを知っていました。だからこそ「つらいよね」と隣に寄り添い「耳栓いつでも使っていいんだよ」と声をかけていたことを鮮明に覚えています。 ある時別の児童がそのイヤーマフを見て「音楽聞いてていいな」と私に話してきました。「あれはね、音楽を聞いているんじゃなくて、音がうるさく聞こえるからつけているんだよ」と伝えると「そっか」と納得。児童同士の「なんで?」をなくすことを支えることも大切な仕事だったような気がします。 授業についていくことが難しい児童もいました。眉間にしわを寄せながらも、でもいつも一生懸命。その児童が「内緒で聞いて」と話してくれたこと。「勉強ができないから、校長先生から『学校に来てはいけません』って言われたらどうしよう」。私は「大丈夫」と受け止めながら、すぐに先生に伝えました。 お母さんとのやり取りが始まり、宿題の調整・通級教室への体験などへと進み、児童は笑顔を取り戻しました。 緘黙症の児童もいました。家庭的にも複雑で、弟・妹の世話をしているとも聞いていました。暑い夏にデニムの長袖ジャケットを着てくる・体育の授業の日に必要な体操服を準備できない・消しゴムを使い切り、先生からも家庭に電話をしてもらっても新しいものを買ってもらえず…と様々な視点から支援が必要な家庭だと先生と一緒に認識していました。 忘れ物をした時は先生に「忘れてきました。貸してください」と言いに行くのがクラスのルール。でも緘黙もあり、ますます一人で前に出ていくなんてできません。そんな時は、一緒に行けば先生の所へ行けます。家庭の事情の部分は先生と相談して、朝私が「消しゴム買ってもらえた?」と聞いて、準備できていない時は私が先生に変わって「これ今日使ってね。一日終わったら私に戻してくれる?」と約束し、必ず守ってくれました。この児童、私がこの小学校で働き始めてから一番目に入ったクラスにいて、なぜかすぐに心を開いてくれました。授業中にも言葉で気持ちを伝えてくれたり、休み時間、私を「こちょこちょ」とくすぐっては逃げて「つかまえてー」というような雰囲気を出したり…。担任の先生はこの児童が笑う姿を初めて見た ととても驚きました。私以外の人には、楽しい時も困っている時もほぼ感情をあらわらさかったこの児童。しかし、私が退職すると知った終業式の時、一番おいおいと泣き続けたのはその児童でした。 終業式の日は忙しいです。1限目は終業式。2限目は、最後の振り返り。でも2限目が終わった時の休み時間、2年生3クラスからたくさんの児童が寄ってきてくれて、いつ書いたのかお手紙やイラストや私の似顔絵のプレゼントをいーっぱいもらいました。聴覚過敏の生徒が一言「ねっ、星野先生はやさしいからみんな泣いちゃうんだよ」。 たくさんの学びをもらった小学校での体験でした。

  • 〇〇学堂保育所 2023年6月 現在

    ・小学1~6年生の発達障害や知的障害をもつ児童や一般児童の保育 / 児童支援専門員 2023年6月 現在

学歴

  • 市立〇〇小学校 1984年4月 〜 1990年3月

    小学3年生で同じクラスになったAちゃん。朝の会・帰りの会、音楽、体育、給食、遠足、運動会などはクラスで一緒に過ごし、その他は「なずな」というクラスへ勉強に行っていました。今思うと「なずな」は特別支援級でした。 Aちゃんは今考えると知的障害の重度程度でしょうか。でもクラスのムードメーカーで、漢字を読むことはできないのにみんなの提出物を配布することが大好きで、クラスメイトの名前は漢字でも読むことができました。 幼い頃私は人見知りでした。自分から友達に話しかけることはまずなかったのですが、Aちゃんになら心を許して話すことができたのです。 ランドセルを一緒に開けて教科書を出すお手伝いや、机の中を一緒に整理することで仲は深まっていき、Aちゃんといることが私の支えになりました。Aちゃんも私を友達として見てくれました。 Aちゃんと一緒に過ごすうち、その周りにも友達が増え、小学校生活を楽しく過ごすことができたのです。 5年生のドッジボール大会の時のこと。これは全校行事でした。 私たちクラスのみんなは「Aちゃんも自分たちも一緒」との思いが強く、ボールを怖がるAちゃんに寄り添いながらも1対1のキャッチボールで練習したり、ドッジボールが得意な子がAちゃんの方にボールが来た時にがんばってフォローしたり…という形をとりながら、休み時間には練習・体育の時間も練習。 本番当日。なんとAちゃんは学校に来れませんでした。 今まで体調不良以外に休んだことのないAちゃんが休んだことは、私にとってはとてもショックでした。 私たち5年生はクラス替えなく、持ち上がりで6年生になりました。先生は変わりましたが。 ドッジボール大会の時期になった時、みんなの気持ちは同じ。 「Aちゃんと一緒にドッジボール大会に出たい」。 Aちゃんは「なずな」の時間、2年生同士の試合に入ると、強烈な横投げでボールを飛ばしとてもうれしそうでした。 「私だってボールが怖い。小柄な私はコートの中で逃げることに必死。この場面でAちゃんを助けることは難しい」。そんな思いを抱えながらクラスみんなでAちゃんのことを考えました。 そこで出した答え…、「Aちゃんは内野に入らず外野にいるだけにすれば怖くないんじゃない?」。 全校行事なので児童会の役員さんに検討してもらわなければなりませんでした。クラスの代表者を通じて児童会に提案。当日は5年生対6年生の試合もあり、5年生からは反対意見も出ましたが、お互いに納得する形でクラスの案も取り入れてもらうことができたのです。 大会当日、Aちゃんは元気に学校に来て、思いっきりドッジボールを楽しみました。私自身はコート内を逃げ回っていましたが、Aちゃんと一緒に過ごすことができたことが何よりもうれしかったことを覚えています。 私はこの5年生から6年生にかけて「配慮」ということを学びました。今でもこの体験は糧になっています。 大人になってから聞いたのですが、私が通っていた小学校は「特別支援教育」にとても熱心だったと聞きました。今思うと「障害」という言葉は一切ありませんでしたが、私より3~4つ下の学年には、障害用のバギーカーに乗ってお母さんと通学するBくんがいました。Bくんのために学校は「なずな」のクラスに、トイレとシャワー室を作ったのです。 今でも私はこの小学校の先生とのつながりがあります。 一度は、市の教育委員会のお声がけで先生向けに「障害のある児童が、小学校で身につけておいた方がいいこと」の内容で講演会をさせていただきました。 その他、私は「全国障害者問題研究会」の会員なのですが、三重支部の勉強会で当時の小学校の先生とも一緒に学んでいます。 このAちゃんとの出会いから、私は小学3年生の頃から「将来福祉の道に進みたい」と思うようになりました。 これがきっかけで今の私がいます(*^^*)

  • 市立〇〇中学校 1990年4月 〜 1993年3月

  • 私立〇〇高等学校 普通科 / 1993年4月 〜 1996年3月

    インターアクトクラブ(ボランティア・国際交流)・手話部に所属 この頃から、私の控えめだった性格が大きく変わります。 同じ価値観をもつたくさんの友達に巡り合えたことが大きく、女子校で、年齢的な発達としてはグループ化しやすい時期ですが、どのグループにも入っていくことができた友達の多い高校生活でした。 ●インターアクトクラブではすてきな先生に恵まれ、私が行きたいと思ったところへボランティアに行けるよう先生は交渉してくれました。一番仲の良かったBちゃんとほぼ一緒にあちこちの活動に参加しました。 ・作業所でのボランティア(畑作業・軽作業・昼食づくり・野菜の販売・バザーなど) ・現児童発達支援センターでのボランティア(親子通園の中での砂遊び・プール・着替えなど) ・特別支援学校でのボランティア(運動会・登山など) ・阪神・淡路大震災被災地でのボランティア(開いているお店のマップ作り) ・あしなが育英会の募金活動 → 何度も経験しているうちにスタッフとしてお手伝い ・あしながPウォーク参加 → 何度も経験しているうちにスタッフとしてお手伝い ・県の高等学校文化連盟主催の文化祭の裏方ボランティア ・県主催:高校生向けボランティア養成講座に参加 ・県主催:中学生向けのボランティア養成講座の各班に寄り添うサポーターとして参加(2泊3日) など ●手話部では高校側が、聴覚障害をもつ先生をクラブ担当として配置。 私はそこで、指文字をはじめ簡単な挨拶・簡単な会話などを学びました。 しかし簡単に手話ペラペラになれるわけではありません。夢ではありました。 一度、インターアクト部でも活動した、県主催の高等学校文化連盟の文化祭で挨拶をするC会長の手話通訳として舞台に立ったことがあります。 もちろん事前に読み上げる原稿をいただき、手話部の先生と猛特訓! 原稿通りには手話ができるようになって当日を迎えました。 するとなんと「挨拶する人が変わってるー!」。 C会長の通訳をするはずが、「C会長が都合で出席できず、代わりに私が来ました」と話すDさん。 そして話す内容も原稿と全く違うー!  「聞いてないよー」と思いながらもその場を取り繕うのに必死で、できる指文字と何とかわかる手話でその場を乗り超えて舞台から静かに去りました。 おそらく手話を必要としていた方には、全く届かなかっただろうなーと思います。でも必死さは伝わったと思いたい(^^ゞ 高校生活最後の卒業式後の教室で、私は急に先生から前に出てくるようにと言われました。 なにか言われるのでは…と心配しながら前に進んでいくと…、 先生はにっこにこの笑顔で「表彰状 星野あずみさま」と読み上げ始めました。 「あなたは『社会のために役立とう』という信念のもとに常に率先して学校・地域において積極的かつ継続的にボランティア活動に取り組まれました。 こうした不断の活動は他の生徒の模範になるとともにあなた自身のボランティアにかける灯がさらに社会を広く照らすことを祈念してここに表彰します」 市の青少年育成市民会議の会長さんからでした。 きっと担任かインターアクトクラブの先生のはからいだったのではと思っています(*^^*) クラスのみんなから盛大な拍手を受け、私はびっくりやらうれしいやら。 年齢を超えてたくさんの方からの学びがあった高校生活でした。

  • 社会福祉が専門の大学  社会福祉学部 Ⅰ部 社会福祉学科  / 学士 / 1996年4月 〜 2000年3月

    どうしてもこの大学に入りたく、猛勉強しました。 片道2時間半の通学。興味のある授業はなんでも学びたい とエネルギーに満ち溢れた学生生活でした。 【授業の取得】 この時の将来の夢は「障害児・者入所施設の支援員あるいは特別支援学校の先生になりたい」。 社会福祉士と教員、どちらかの資格を取得をするかを絞り込めなかった私は、念のため両方の資格が取れるよう、必要な単位の授業を学んだ上、更に興味のある授業はどんどん取っていきました。 私が在籍していたころは二部制でⅠ部は昼間・Ⅱ部は夜間の学生が学ぶ場所でしたが、夜間の授業もとっていいことになっていました。「手話」の授業など夜間にしかないものについてはその授業も取得。 勉強することが楽しくて仕方ありませんでした。 今思うとよくそんなにエネルギーがあったなと思います 笑 【障害をもつ友達へのノートテイク】 私が通っていた大学には様々な障害をもつ学生が通っていました。 その中で出会ったEくん。聴覚障害がありました。出会った頃のEくんのコミュニケーション方法は口話法で、私たちの口の動きを読み取り、自分の言いたいことは発話で という形でした。でも、大きな講堂での授業では先生の言っていることがわかりません。一番前の席に座り、ヒアリングループの力も借りながら、Eくんは補聴器と口話で先生の話を読み取る。プラス、Eくんを挟んで左右にノートテイカーという筆記者が先生の言うことをノートに書いていき、それを合わせてEくんがなるべく理解できるようにする。そのノートテイカーをボランティアでしていました。Eくんはどんどん手話が上手になっていき、私はそこでも手話を学ぶことができました。 【ゼミ活動】 一学年640人もの学生がいる中で、15人程度のゼミの集団は貴重でした。 私は障害児者関係のゼミを選びました。 「入所の障害者施設かグループホームか」のディベート、先進的な取り組みをしている入所施設(児童・成人)4か所への泊まり込みでの実習、たくさんの議論、卒論作成「知的障害者入所施設における豊かさの追求~豊かさを生み出す要因と今後の障害者施設の在り方を考える~」等とても濃い学びをしました。 今でも当時のゼミメンバーとは関係が続いていて、心の底からなんでも話ができる大切な友達となっています。 【サークル活動】 市が運営している障害者青年教室を支える形で、大学で「青年学級」のサークルに所属しました。 学生60人程度、仲間(昼間作業所や一般就労で働いている18歳以上の障害をもつ方)60人ほどの大規模なサークルで、5班に分かれて活動を行いました。平日2回、昼休みに集まって月1行う活動を考え、月に1度は地域のボランティアさんも含んでの会議、そして最終週に市の生涯学習センターでの実践(青年学級の開催)。内容は、調理・買い物・体育館を使ってのスポーツなど、全体では、ピクニック・クリスマス会・お餅つき等とても楽しい時間を過ごしました。 この場で、寄り添うことやパニックやてんかん発作の対応などを先輩から学んだことは大きな学びでした。 このサークルでは、1年生の時にサークルネームが付けられます。好きな食べ物やアルバイト内容など様々な情報から名前が決まります。私は「ぶんちゃん」と呼んでもらっていました。なぜそうなったのか…、聞きたい方はメッセージくださいね(^^)/ 【手話の授業】 夜間の学生と共に手話の授業を受けました。夜間学生は、昼間仕事をしている人が多く、現役の福祉現場から通学している人もいて、年齢差を超えて学ぶことができたことは大きな糧となっています。 手話を覚えることはもちろん、手話ができた歴史なども学ぶ大切な機会でした。 先生は、日本の聴覚障害教育に携わってきた方。その先生のおかげもあって、希望者が、聴覚障害とその他の障害をもつ人のための、今で言う「生活介護・B型事業所+入所施設」「高齢者の特別養護老人ホーム」に実習に行けることとなり、私は2泊3日を2回体験させてもらうことができました。 そこでの共通語は「ジェスチャーと手話」。カタコトの手話しかできない私たちは障害者となりました。マイノリティと言うことです。表情やイラストなどを駆使して私は必死に伝わるように努力したことを覚えています。伝えることはとても難しいことでした。一緒に畑作業をしたあとの反省会で「今日はピーマンの収穫をしました」と私が手話で表現したところ、「その手話は『ピーマン』ではなくて『会議』だよ」と利用者の方に教えてもらったことが忘れられません。伝えることはとても難しかったです。先生は「障害者になる体験をしてほしかった」とあとで話してくれました。 とても充実した大学生活でした。

受賞歴・執筆歴・講演歴

  • 講演

    仕事を行う上で大切なこと(当事者向け) 2020年6月

  • 講演

    発達障害を持つ方の就労支援 講演+コンサル+事例検討会 2021年8月

  • 受賞

    ココナラランク♡ゴールド達成(ブロンズから飛び級しました) 2022年10月

  • 受賞

    ココナラ 介護での4ヶ月のお休み以降シルバーに昇格しました 2023年7月

  • 受賞

    ココナラランク♡ゴールドにようやく戻れました 2023年8月

  • 受賞

    ココナラランク♡プラチナになれました ありがとうございます 2023年9月