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経歴

経歴

  • 岐阜県立加納高校美術科 / デザイン科 1980年4月 1983年3月

    当時この高校の普通科は岐阜県で一番頭の良い学校でした。普通科8クラス、音楽科1クラス、美術科1クラス。音楽科・美術科は普通科には劣りますが、それでもかなりのレベルでした。 美術科は女性31人男性9人の比率。音楽科は女性38人男性2人。 モテモテかと思いきや、高校3年間で女子と話した思い出と言えば、隣になった美人の細野さんに「鉛筆かして」の一言。無言で貸してくれました。 その細野さんは後に、第一勧業銀行のイメージキャラクターとして起用され、等身大ポスターとして入り口に立っていました。当然、僕は等身大ポスターと一緒に帰りました。 頭のいい高校でしたので、そんな所に来る生徒は、授業だけ聞いていれば出来る生徒が多く、僕はハナから勉強を諦めて、デザインの実技だけに集中してました。 当然クラスの成績順位は、40人中40番が指定席です。と言うことは、普通科には絶対勝てないのですから、学校一のバカ決定となります。いやいや、俺はやればできる子なんだと、数1だけ勉強してみようと、県で2番目に頭のいい高校に行っている友に教えてもらい頑張ってみることにしました。 試験後、担任が数1のテスト成績発表を教壇からすると言うことになりました。今までそんなことしたことありません。普通、成績上位3人の発表が定番なのですが、4位までの発表とおかしい。 やはり僕が4位で、クラスがどよめき。担任がネタとして言いたかっただけでした。 卒業後、このエピソードをクラスメートに覚えてるか聞きましたが、誰も記憶してません。まさに自分だけのオリジナルなメモリーになっています。 できる子だと証明できたので(誰も記憶してないので、証明になっていないのではないか?)その後は指定席に戻りました。

  • 美術大学進学予備校(上京) / 視覚デザイン科 1983年4月 1986年3月

    美大進学の為上京し、2年浪人しました。 80年代のバブルの時代ですから、デザイン科の生徒はブランドの服を着て、華やかな生徒ばかりでした。 田舎から出て来て金もなく、中古で買った背広(内ポケット付近には、「南部」の刺繍ネーム入り)を着たきり。 そんなんですからデザイン科に友達ができず、彫刻科と油絵科の生徒ばかりと遊んでました。彫刻科と油絵科の生徒は、粘土やら絵の具やらで、いつも汚い。おまけに4浪・5浪と言う猛者もいまして、こんな所で社会を初体験したもんですから、未だに人生に悪影響を及ぼしています。 5浪の人は、カリスマ講師かと思うほどに、アーティストっぽかったです。仕送りが送られて来たら、1週間で飲んで使ってしまい、その後の生活は砂糖を舐めて生きてました。 そんな彼の顔は「郷ひろみ」以上に男前ですから、砂糖を舐めていても美しいのです。 こんな社会体験が楽しすぎて、2年間で一度も学科の教科書を開いたことがなかったです。 デザインの実技を鍛えれば当然合格すると思っていたのですが、一次試験の勉強の学科で落ちてしまい、デザインの実技試験を受けることなく不合格。 なんの為の浪人だったんでしょうか?

  • 引きこもり / 絵画(イラストレーション)制作 1986年4月 1988年4月

    バイトもせず、家族の誰とも会話せず、友達とも会わず、家からも出ず。2年間昼夜無く、ただ目立つ絵を描くにはの技法を試してましたね。デザイン専攻でしたので、アクリルガッシュしかなくて、それで描いてました。本格的には油絵とか描くのでしょうが、引きこもりするような根性なしですから勘弁してください。 高校在学中には、ニューペインティングの流行に乗って、その手法で高校生ポスターの公募展など、賞を何個か頂いてました。高校生レベルでは、その手法が受けるのはわかっていたのですが、流行に乗っているだけに、それを捨てないとヤバイと感じ、何かないかとトライしていましたが、大規模なイラストレーション展に出品しても、全く引っかかりませんでしたね。 金もなく、絵の具も尽きて、周りを見渡すとエロ本しかありませんでした。試しにエロ本の紙をちぎっては貼って、絵を描き始めました。デッサンは高校から予備校まで5年間やって来たので、ある程度の自信はあったのですが、貼り絵になるとこれが思うようにいかない。 この不便さにハマって、ほぼ2年間やってましたね。 こんな時期には死にたくもなるのですが、友がこの時期に2人死んでしまい、それより価値のない自分が死ぬことも許されないのではないかと、必死にエロ本をちぎってましたね。 この頃、免許ぐらい取れと言われ、自動車学校に行くことになりました。家にいることも嫌だったので、合宿免許のシステムに乗って家を出ることにしました。ところが10月で免許合宿に来る人は僕しかおらず、自動車学校内の木造プレハブに免許が取れるまで一人で暮らすことになっていました。 自動車学校は山の中腹にあったので、営業が終わると、生徒・教官は帰り、山の木造プレハブには僕一人が取り残されます。まるで山を管理してる用務員です。 親も自動車学校もよくそのシステムで受け入れたと思います。どうせ引きこもりですからね。

  • 上京>事故>手術入院>リハビリ / 患者 1988年5月 1991年12月

    多摩美術大学に合格した予備校時代の友を頼り八王子にアパートを借りる。焼肉屋でバイトを始める。 1年も経たないうちに自動車事故に遭う。同じアルバイトの女の子が運転する車に同乗者として乗車。自損事故。新聞に掲載される程の事故で、車を切断しなければ救出できないぐらいの迫力。事故にあった本人は車に乗る随分前から記憶が全く消えています。 目覚めたのは、2日後の病院のベットの上。看護師が僕の意識を戻す為、頬を殴っています。 しかし事故前から僕の記憶が消えてますので、本人は寝ていると思ってました。僕はその看護師に「うるさい!」と怒鳴った後、すぐにまた意識を失いました。2回目に意識が戻った時には、目の前に母親がいて無言で僕をギュ!っと抱きしめてくれました。僕は「あーもう死ぬんだ」と悟りました。 身体中にビニールチューブが繋がれていて、鎖骨骨折、肋骨3本骨折、頭蓋骨にヒビ、右耳から出血、右顔面麻痺。同じ病室の患者は、頭の両側から直接金属の棒が出ていて、それが直角に曲げられ、両肩に直接刺さっています。どんなトリックであんなことになっているのでしょう? そこの病院は死ぬか生きるかの患者しか入院できないので、骨折していても命が助かった僕は退院しなければいけなくなりました。 その骨折の体のまま新幹線に乗って、岐阜まで帰えり即入院。岐阜の病院で手術。鎖骨の接合手術で骨が繋がったのですが、片方だけ肩幅が狭くなっていました。命を拾っただけでも儲けもんだと気にしません。右耳も24時間耳鳴りが続いており、聴力も低下。今だに耳鳴りが続いているので、静寂が苦手です。 人が死ぬ時には、自分が死んだかどうかなんて気づかないまま、死んでしまうのだと感じました。 あなたが帰り道で、霊に会ったとしても優しくしてあげてください。

  • 各種アルバイト多数 / Mac9500購入/自主学習 1992年1月 1998年12月

    当時のデザイン業務というと、紙の上にレタリングを貼ったり、写真の色味指定をメモで指示したりと。印刷屋さんがする業務をコントロールすると言う立場でした。90年代初期頃からDTP(写真も文字も完全デジタル入稿)の技術が登場します。デザイン事務所・印刷会社もDTPに移行する時期が来ます。 と言うことは、デザイン事務所と個人が同じスタートラインに立てると言うことです。 この頃は、アルバイトをしながらアナログイラストを描いていて、アルバイトも色々していました。 焼肉屋>ボーリング場の配線工事>恐竜展示会場の備品作り>葬儀場の警備&電話番>地方での不動産販売の小間使い。 中でも不動産販売のバイトは破格に賃金が良かったです。金曜日〜月曜まで地方に行って7万円。宅地化できる土地以外(調整区域)を専門に販売する会社でした。都市のインフラを充実させる為、都市化の範囲を限定する法律で国土を分けています。その都市化が不可な方を調整区域と呼びます。 誰が買うかと言うと、工事屋さんなどの資材置き場だったり、将来宅地化を期待しての投資目的。 実際、調整区域の見直しは、4年に一度の改正が行われますので、その改正で都市化区域になれば、価値が3倍〜5倍になります。調整区域専門の営業20年の人に聞いたのですが、今まで売った中で都市化区域になった所は一度もないと言っていました。僕は4年バイトしていましたが、一箇所栃木で都市化区域になるのを見ました。 なんの話をしていたのでしょう?あっDTPの話でした。 そのバイトで稼いだ金をAppleMac9500につぎ込みました。本体にメモリー16Mbを4枚積んで100万円・NANAOモニター40万円で30kgありました。全くPcなど触ったことが無いのに思い切りました。画面が立ち上がるまでに半日かかりました。Pcの前に付いいている、あの小さい丸いアクセサリーがスイッチだと認識できなかったのです。当時のスイッチはOn/Offのカチャカチャ切り替える物がスイッチだと思い込んでいますから。 金がもう尽きたので、ソフトとフォントは友達の友達を頼りにかき集めてました。 今ではしっかりクラウド管理になってますね。 ある程度の知識を得ると、DTPも理解できるようになり、不動産屋のチラシも自主制作で完結できるようになる。

  • コナミ・カネボウ化粧品・パイオニアビデオ / 企画事務所の外注 1994年1月 2000年12月

    不動産屋が忙しくなり、僕の他にアルバイトが1人必要になり、その人員を、八王子の岐阜県人会のアパートとゆうものがあり、そこに住む大学生に毎週代わる代わる来てもらってました。そこの卒業生に誘われ、渋谷の企画事務所のデザインを手伝う。ここで完璧なDTPと印刷の関係を把握。 バブルが弾け、不動産会社の社長も土地が売れず、資金調達していた反社から追われてると噂を聞く。バイトに行ってもバイト料がもらえず、チラシの制作料金も支払われなくなる。 一方、世の中的にもDTPが主流になっていき、急速にDTPと印刷の相性が良くなる。 表現の多様化で、表現の一つとして、コナミのPOPなどで、日本製3DソフトのShadeを使い始める。 当時このソフトは、3D業界の主流のポリゴンは使わずベジュ曲線(Aiで使う線)で作る仕様になっていた。よってデータは軽いが、10時間以上のレンダリングをしてもフォトクオリティーには程遠いものでした。個人用の最速なマシンを持ってしてもこの程度。実用に使うには相当な気合いと時間が必要でした。

  • 川崎市中央卸売市場北部市場 / 魚河岸アルバイト 2001年5月 2003年8月

    企画事務所が潰れ、負債を負わせた下請けのデザイン事務所に貰われる形で在籍。クライアントの意向そのままの作業に嫌気がさし、突発的に退社。なぜか魚河岸でアルバイト。朝3時から昼2時までの労働でクタクタでイラスト作成の時間の余裕などありません。 その中でも、トラックドライバーの人と話す機会があり、愛車のクライスラーPTクルーザーを3Dで作ってくれとの依頼。もちろん無料で作りましたが、モデリングを丁寧に作っても、Shadeのレンダリングでは、ちゃっちい仕上がりになってしまう。レンダリングに10時間もカケてですよ? このころは光の質に無知でしたので、そのせいかもしれません。 この期間はこれしか仕事してません。 その代わりに、魚の名前はいっぱい覚えました。岐阜県には海が無く、海無し県の育ちですので、魚といえば、鮎とマグロくらいしかスーパーで見ませんからw。 魚河岸の休日は水曜日なのですが、料亭の配達担当のおじさんに、乗合舟で、初めて海釣りに連れて行ってもらいました。 それからちょくちょく誘われ、50cm大のシーバスを釣ってはうちの夕食にしてました。 シーバス(スズキ)をサバくには、まず腹わたを抜いて、頭を落とし、3枚に下ろします。 釣って来た新鮮なスズキの頭を落とし、その頭を三角ゴミ入れに捨てると、 なんと頭だけのスズキが、呼吸をするために口を大きく「ハァ〜!」と開けました。全身鳥肌です。台所から避難し、スズキ君の怒りが収まるのを待つ羽目になりました。 雑草魂どころか、すごい生命力です。

  • 大日本印刷 / 外注デザイナー 2003年1月 2020年8月

    高校からの友達が、大日本印刷アートディレクターになっていて、仕事をもらいに会いにいきました。その部署は食品パッケージデザインが主で、割と自由度の高いポテトチップスの袋のデザインの仕事をいただきました。とは言ってもパッケージデザインのアイデア範囲がわからず、2案提出するのに、通常の考え方としては、1案は手堅いノーマルなものを作成するのですが、気合を入れすぎ、2案とも自由すぎるデザインを提出し、当時の担当様には、随分ご迷惑をおかけいたしました。ごめんなさい。 技術と発想が豊かでも、コンセプトに則っていなければ、デザインの意味をなさない事がようやくわかりました。遅すぎですね。 仕事をして3年目に運良くパッケージ賞をいただきました。大喜びしていましたが、ハイマットと言う新しい印刷技術を使った事が評価されての受賞。全くのラッキーパンチでした。 ポートフォリオでも一部紹介してますが、 山吉製菓/おやつカンパニー/湖池屋/明星食品/日清グループ/山崎ビスケットのパッケージデザインを作成いたしました。メインは山吉製菓さんを担当していたので、月に4デザイン案として、10年間で500タイトルはデザイン作成した計算になります。 事務所を持たずに1人でデザイン作業アイデアを作成してますが、仕事のその都度にカメラマン・フードコーディネーター・書家・衣装デザイナーの力を借りながら続いて来ました。30年もデフレが続くと、さすがに仲間に払う予算が出ません。予算が低くなると、当然デザインできる範囲が狭くなるので均一化します。 そうなると低賃金競争になり、今では、Aiのプログラムでロゴができてしまう時代です。 洗練とは人々の共通認識から生まれるもので、プログラムが最も得意とするところです。 かと言って、へたうまの世界観も、プロから素人まで公開できる世界になったので、見慣れてしまった。 その先には、人それぞれの生活スタイルから根差してくるアイデアが正解になるのでは? 例えば、味噌汁を食べる日本人は、味噌汁臭いアイデアが出るとか? それが特別スペシャルなアイデアだと評価されるみたいな。 こんな感じの作品に向かうのではないかな? https://www.youtube.com/watch?v=vmV86wXmVnA

  • インスタグラム/Twitter/ココナラ / FaceBook/Tシャツトリニティー 2019年1月 2021年8月

    現在コロナ過では、大手メーカー各社で新商品の発売は止まっています。当然ですが、新規のデザイン発注も消滅しています。 遅まきながらSNSに初めて投稿し始めました。 2019年4月Instagramで、なんとミス日本グランプリの世良マリカ氏から絵画作成のオファーがありました。 僕の絵は直接会って写真撮影をしてから再構成するタイプなので、世良さんに来てもらい、自宅スタジオでの撮影を希望したのですが、コロナ過での移動を禁止とゆう事で流れてしまいました。 うちの娘の1つ上の世良マリカさんですが、サインだけでも欲しかったです。

受賞歴・執筆歴・講演歴

  • 受賞

    第44回 ジャパン パッケジ コンペディション 洋菓子部門賞 2005年8月