【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 034】韓滔

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※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。
※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。
※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

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『水滸伝(水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。
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韓滔(かんとう/hán tāo)
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<三元論に基づく個性判定>
36番 **弱い生存欲求**、**とても強い知的欲求**、**とても弱い存在欲求** - **「孤独な理論家」** - 他者との接触を避けつつも、自分の理論に没頭する。

<概要>
枣木槊(そうきさく/zǎo mù shuò:ナツメの木で作られた長槍)の使い手。あだ名は「百勝将」で、東京(とうけい/Dōngjīng)出身。武挙(武人の試験)に合格した後に陳州の団練使を務め、その後に呼延灼(こえんじゃく/hū yán zhuó)と共に梁山泊勢力の征伐へ向かった。この戦いで劉唐(りゅうとう/liú táng)と杜遷(とせん/dù qiān)によって生捕りされ、梁山泊勢力へ帰順。百八人の英傑たちが集結した際は第42位に定まり、黄信(こうしん/huáng xìn)、孫新(そんしん/sūn xīn)、宣賛(せんさん/xuān zàn)、郝思文(かくしぶん/hǎo sī wén)に続く「騎兵小彪将兼遠距離斥候隊長」の第五員に任じられた。戦場では彭玘(ほうき/péng qǐ)と連携して行動。最終戦となる方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦において、常州で戦死。戦後、朝廷から義節郎の称号を追封された。

<枣木槊(そうきさく/zǎo mù shuò)>
冷武器(火器を使わない)の「槊」は矛と棒から発展した武器であり、長さは約2mほどに及ぶ。(アメコミ『アクアマン』のトライデントや漫画『うしおととら』の獣の槍といった長さの長尺武器。)主に騎兵が用いる重武器であり、鋭い槊頭(サクトウ)と木製の槊柄(サクヘイ)の二つの部分から構成れる。槊頭は長槍に似ており、特別な槊頭には狼牙(秦明が得意とする狼牙棒の狼牙:先端部に多数の鉄の釘が付いた形状)を用いたものもある。韓滔(かんとう/hán tāo)の場合は枣木(ナツメの樹)を柄に使用した槊となっており、枣木の持つ韧性(ネンセイ:材料が変形力を吸収する能力)の強さが耐久性と威力伝達の効率性に一役買っているものと考えられる。

<印象>
前回までの記事で、関勝(かんしょう/guān shèng)の副将として梁山泊勢力の征伐戦に挑んだ宣賛(せんさん/xuān zàn)と郝思文(かくしぶん/hǎo sī wén)という二人の武人を紹介した。今回もこの人間関係によく似た設定で、梁山泊勢力の征伐戦に挑んだ呼延灼(こえんじゃく/hū yán zhuó)の副将として、韓滔(かんとう/hán tāo)と彭玘(ほうき/péng qǐ)がいる。そして、やはり関勝(かんしょう/guān shèng)、呼延灼(こえんじゃく/hū yán zhuó)というアイコニックな人物像の魅力に引っ張られてか、副将たちの人間としての存在感が原作では薄まってしまっている印象だ。後に金聖嘆が彭玘、韓滔、宣贊、郝思文、龚旺、丁得孫という武人たちを「北宋の朝廷に心から忠義を示している人物である」と評価しているが、その割には韓滔(かんとう/hán tāo)はただ状況に流されていただけという印象も受ける。ただ、逆に考えるならば、韓滔(かんとう/hán tāo)はいずれの場面でも自分の意志を明確に示してはおらず、ただ一心に戦場で優れた武術を披露し尽くしていた様子が鑑みると、確かに彼のような人物は根っからの武人であるのかもしれない。良い意味で彼は呼延灼(こえんじゃく/hū yán zhuó)や宋江(そうこう/sòng jiāng)に徹底的に忠義を尽くして戦士としての自分の使命をまっとうする人物であり、悪い意味で自ら考える力と知識がなく命令に忠実であるだけの機械なのである。

<原型>
韓滔という人物は宋元の史料には見られず、『大宋宣和遺事』、『宋江三十六人贊』および元雑劇水滸戯など初期の水滸の物語や文学にも見られない為、小説『水滸伝』のオリジナルキャラクターであると考えられる。一方、韓滔(かんとう/hán tāo)と彭玘(ほうき/péng qǐ)の名前は、西漢の開国名将である韓信(かんしん/hán xìn)と彭越(ほうえつ/péng yuè)を影射しているという説がある。

<印象2:もし韓信が原型であるのなら>
この韓滔(かんとう/hán tāo)が名前だけではなく性質としても、実在の武将である韓信(かんしん/hán xìn)に原型を求めるとしたら、話はまったく変わってくる。韓信は彼の生涯だけでひとつのドラマが作れてしまうぐらいの逸話の持ち主で、その最期もあまりに劇的だ。(実際、2010年に中国大河ドラマとして『大将军韩信[大将軍韓信]』が製作されている。)韓信は紀元前2世紀に活躍した、淮陰(現在の江蘇省淮安市区)出身の「漢初三傑」と呼ばれる功臣の一人である。もともと彼は平民の出身で幼少期は家庭がとても貧しく、人に寄食し、胯下の辱(跨がれて辱めを受ける行為)を受けた事さえあった。始皇帝が建てた秦王朝の急激な弱体化により農民反乱が勃発した後、彼は最初は項梁と項羽に仕えたが、そこで重宝されなかったので劉邦に仕える事とした。劉邦もしばらくは彼を放置していたのだが、蕭何によって推薦を受けて大将軍に任命され、項羽と天下を争う事になった。韓信はその類稀な軍事才能を発揮し、魏、趙、代、燕、斉の各国を横掃し、幾度となく劉邦の勢力に多大なる貢献を果たした。彼は軍の統治にも優れ、大兵団の指揮にも長けており、秦漢時代の第一級の軍事家という評価もなされている。特に明王朝(『水滸伝』が書かれた14世紀頃)の茅坤は彼を「兵仙(軍事の神)」であると絶賛している。また深い兵学の素養を持っており、兵学著作『韓信』三篇を世に残した事でも名を残した。これは『漢書・芸文志』に記載されている「兵権謀十三家」の一つで、孫武、孫膑、商鞅、呉起などの兵家と並び称されている。だが、彼の晩年は「积怨谋反(積怨による謀反)」によって全てが破滅した。彼は劉邦が自分の才能を畏れて嫌っている事を知り、しばしば病気を装って朝見や随行を欠席するようになった。このような恨みが積み重なり、彼は家で塞ぎ込むようになってしまった。この時、丞相に任命された陳豨(ちんき/chén xī)が韓信に接近。韓信が劉邦から重用されていない状況を把握し、彼から謀反(軍事クーデター)の意がある事を聞いた陳豨(ちんき/chén xī)は、その声に呼応して前197年に反乱を指揮。韓信は表立って行動せず、密かに家臣と共に呂后(皇后:劉邦の妻)と太子を襲撃して反乱を支援する計画を立てたが、この計画の実行前に呂后側に情報が漏洩。これを受けて、呂后側は「自分の計画は知られていない」と考えている韓信を巧みに欺いて入宮させた。直後、呂后は武人に命じて韓信を縛り上げ、長楽宮の鐘室で彼を斬殺。韓信は死の間際に「婦人や子供に欺かれるとは、なんという天意だ!」と嘆いたという。この事件では韓信だけではなく、三族も皆殺しにされた。

時代を代表する軍事的才能がありながらも重用されずに嘆いていた男が、やがて推薦を受けて武功を立て続けに上げたものの、自分の満足のいく評価を貰えずに反乱を計画し、その計画が軍事の専門家でも何でもない婦人に見破られて嘆きながらこの世を去った。その彼の生涯から感じるのは、理論家としての優秀さと孤独な人間関係への希求である。よって、私は冒頭の「三元論に基づく個性判定」に、「36番 **弱い生存欲求**、**とても強い知的欲求**、**とても弱い存在欲求** - **『孤独な理論家』** - 他者との接触を避けつつも、自分の理論に没頭する。」を適用した。『水滸伝』の韓滔も、一部この人間的な性質の設定を適用しても良いと私は感ずる。武芸に打ち込みながらも重用されず嘆いていた男が、やがて呼延灼(こえんじゃく/hū yán zhuó)の推薦を受けて武功を立て続けに上げるものの、満足いく評価を貰えずに更なる武功を焦り、方臘(ほうろう/fāng là)の征伐戦で思いがけない相手からの攻撃で敢えなく戦死してしまった。このような若干の改修をすれば、彼に人間的な厚みが生まれるかもしれない。

***歴史上の韓信に対する、明元時代の評価***
- **董份**:「韓信の智略を見ると、彼は真に天下を動かす意志を持っていた。ただの軍略だけでなく、人傑と呼ばれるにふさわしい。」
- **茅坤**:「太史公(司馬遷)は淮陰侯の兵法を詳しく記さなかったが、それは誤りである。古代の兵家の中で、韓信が最も優れていた。彼は魏を破るのに木罂を使い、趙を破るのに漢の赤い旗を立て、斉を破るのに砂袋を使った。彼の戦法は奇妙で、敵と血戦することなく勝利を得た。古今の兵家の中で、太史公は文の仙、李白は詩の仙、屈原は辞賦の仙、劉阮は酒の仙、そして韓信は兵の仙である。彼がもし魯連のように爵位を辞退して海に逃げていたならば、それが最善の選択となって平穏な余生を遅れたはずだ。しかし、彼は怒り、病を装い、朝見を欠席し、絳侯や灌婴のような者たちと並ぶことを恥じた。それが彼の破滅の原因となったのである。」
- **王世贞**:「淮陰侯(韓信)が初めて高帝に説いたことは、邓禹が光武に説いたこと、諸葛亮が昭烈に説いたことと同様である。彼の才能は本当に素晴らしい。」
- **李贽**:「韓信が劉邦に初めて会った時、彼が項羽について話したことは、すべて劉邦にとって有益であった。彼の軍事の知見は素晴らしかったが、最終的には自己の防衛に失敗した。これは、利欲が智を曇らせ、貪欲が愚を生む為である。」
<三元論に基づく特殊技能>
※一部、上述の改修事項を反映する。

#### 枣木槊の達人(具術)
**説明**: 韓滔は、枣木槊という長い槍のような武器を自由自在に扱う能力を持っている。この具術は、彼の卓越した技術と力に基づき、戦闘において圧倒的な威力を発揮する。
- **効果**:
  - **道具性(とても濃い)**: この具術は、枣木槊という特定の武器に強く依存する。
  - **思考性(中程度)**: 武器の使い方と戦術的な判断力が必要。
  - **関係性(薄い)**: 主に自身の戦闘能力に関わるため、直接的な人間関係への影響は少ない。

#### 歩兵統率の達人(導術)
**説明**: 韓滔は、戦闘中における歩兵の統率性を最適化する能力を持っている。この導術は、彼の高いリーダーシップと戦術的な知識に基づき、歩兵部隊の効率的な指揮を可能にする。
- **効果**:
  - **道具性(なし)**: この導術は、道具に依存せず、韓滔のリーダーシップと戦術的な知識に基づく。
  - **思考性(とても濃い)**: 歩兵の統率を最適化するためには、高い戦術的な知識と判断力が必要。
  - **関係性(とても濃い)**: 韓滔の導術は、歩兵部隊との強い絆を形成し、協力を促進する。

#### 具体的な使用例:
1. **槍術の達人**: 韓滔は、戦闘中に枣木槊を自由自在に操り、敵を圧倒する。
2. **歩兵の指揮**: 韓滔は、戦闘中に歩兵部隊を効果的に指揮し、統率を最適化することで、戦局を有利に進める。

※画像:DALL-E
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