【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex04】宿元景

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※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。
※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。
※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

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『水滸伝(水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。
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宿元景(しゅくげんけい/sù yuán jǐng)
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<三元論に基づく個性判定>
50番 **とても弱い生存欲求**、**とても強い知的欲求**、**強い存在欲求** - **「戦略的な理論家」** - 理論を駆使して目標を達成し、他者と協力することに価値を見出す。(※『械胡録』の宿元景は実在する北宋の功臣、范仲淹を原型とする。よって、個性判定は范仲淹に準拠する。)

<概要>
『水滸伝』に登場する役人。物語では皇帝・徽宗の親信の官員であり、殿前太尉(軍司令官)に任じられている。容姿端麗で、髭はない。人柄は寛大で、部下に優しい。四姦(朝廷を腐敗させていた四人の奸臣)に反対する立場を貫き、朝廷では徽宗に民間の苦しみを訴え、忠臣良将を推薦していた。また梁山泊勢力についても肯定的で、彼らを制圧する軍事行動に異議を唱えると共に、招安(反体制集団の梁山泊勢力に恩赦を与えて朝廷に組み込む措置)を強く主張した。徽宗はこれを受け入れて詔を下し、宿元景はその詔を携えて梁山泊へ向かって招安を実現に導いた。この招安後、内憂外患の要因となっていた異民族の遼国や国内山賊集団の田虎を勢力を討伐するべく、梁山泊勢力を討伐隊に推薦した。

<考察>
『水滸伝』という物語の重要なマクガフィン(物語の進行に強い影響を与える要素)となる宿元景(しゅくげんけい/sù yuán jǐng)。仙女「九天玄女」が梁山泊の指導者となる宋江(そうこう/sòng jiāng)に三巻の天書を授けるという幻想的な場面があるが、その巻の一節に「遇宿重重喜(宿元景との出会いが歓喜をもたらすだろう)」と予言されている通り、梁山泊と宿元景との関係は極めて蜜月的だ。ただ、それにも関わらず登場の回数は少なく、存在感も強くないという不思議な人物である。この宿元景の言動を考察する中国の記事には、次のようなものが見受けられる。

- 燕青(えんせい/yàn qīng)が招安のために宿元景(しゅくげんけい/sù yuán jǐng)のもとを訪ねた時、彼は宋江と一度会ったことがあるのをほとんど忘れていた。「遇宿重重喜」というのは九天玄女の一方的な願望に過ぎず、九天玄女が宋江に描いた大きな餅に過ぎなかったのではないか?
- 同じ場面で燕青が宿元景に自分の目的を説明した際、彼はすぐには態度を明らかにしなかった。しかし文章を深読みすれば、その後に宿元景は燕青から差し出された金珠宝物を受け取るや否や、態度を改めているようにも感じられる。結局の所、彼もまた他の奸臣のように堕落した役人のひとりに過ぎなかったのではないか?

私は『械胡録』の制作において、梁山泊勢力を善として描く正道『水滸伝 七十回・百回・百二十回』『水滸後伝』と共に、朝廷勢力を善として描く詭道『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』の要素も織り込みたいと考えている。「梁山泊が善、朝廷が悪」というハリウッド方式が娯楽作品としては適切であろうが、私の論理学の師がドストエフスキーと孔子である以上、人間や社会を極端に単層化する描き方は許されないと考えている。現実世界の人間の関係性というものは玉石と陰陽が入り混じる複層的なものであり、それゆえに「梁山泊、朝廷、それぞれに善悪が混合する」という状態として描きたい。したがって、悪辣な奸臣たちが無尽蔵に跋扈している『水滸伝』の世界に、「圧倒的な善と徳を持つ役人としての宿元景」を盛り込むべきであると私は考えている。その原型となるのは、先の個性判定でも触れた通り、実在の功臣である「范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)」となる。

<范仲淹の功績>
北宋の第四代皇帝・仁宗治世において、その善政に最大の貢献を果たした人物が范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)だ。彼の概要については既に前の記事で描いた通りである。以下はこれの補足として、宿元景(しゅくげんけい/sù yuán jǐng)の原型となるその范仲淹の政治・文化の功績を記す。(※一部、前回の記事と重複する。)

- 「新政の実施」:慶暦3年(1043年)8月、范仲淹は北宋の内憂(官僚組織の巨大さと行政効率の低さ)と外患(遼と西夏が北方と西北の辺境を脅かしていた状況)に対応するため、《答手詔条陳十事》を提出し、十項目の改革綱領を提案した。これには、吏治の清浄化、科挙の改革、軍備の整備、徭役の減免、農業生産の発展などが含まれており、政治、経済、軍事、教育、科挙など各分野に渡った。この范仲淹の取り組みに、富弼(ふせつ/fù bì)や韓琦(かんき/hán qí)などの功臣たちも賛同し、改革が一気に推進した。この新政の短期間の実施により、政治状況は一新。官僚機構が簡素化され、科挙では実用的な議論文の評価が強調され、特別な才能を持つ者が抜擢されるようになった。また全国的に学校が普及した。しかし、慶暦5年(1045年)、一連の改革によって不利益を被った夏竦(かしょう/xià sǒng)ら改革反対派が、范仲淹たちを「混乱を引き起こす朋党(同じ思想や利害を共にする政治家の集団:いわゆる現代の政党)である」と非難。この政治闘争が朝廷を二分させてしまう。仁宗は范仲淹を支持する立場にあったが、反対派の勢いが凄まじく国政がままならなくなった事から、致し方なく改革を進めていた范仲淹や富弼などの功臣たちを左遷する決断を下した。こうして、「慶暦の新政」という国政改革はわずか一年しか実施されなかった。しかし、これが北宋の改革の先駆けとなり、後に王安石の「熙寧変法」へと繋がった。

- 海堤の修築:范仲淹が泰州西渓塩倉監に任命されたとき、4万人以上の民衆を徴発して海堤を再建した。これは天禧5年(1021年)から天聖4年(1026年)にかけて完了し、新しい堤防は通州、泰州、楚州を横断し、全長約200華里にも及んだ。これにより、当時の人々の生活、耕作、塩の生産が保障され、その後の災害防止にも重要な役割を果たす事となった。地元の人々はこの堤防を「范公堤」と名付け、その遺跡が現在でも残っている。

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※画像:「百度百科」より引用

- 「蘇州の治水」:景祐元年(1034年)、蘇州は長雨による洪水で積水が退かず、良田が放棄され、農業生産が打撃を受け、民衆は飢餓に苦しんでいました。范仲淹は蘇州の知事に就任後、水性と地理環境に基づき、昆山と常熟の間の「五河」を開浚し、積水を太湖に導いて海に流す治水計画を提案した。范仲淹の治水計画は、「修囲、浚河、置閘(堤防の修復、河川の浚渫、閘門の設置)」を主とし、その成果は時代を越えて評価された。(浚渫とは、川底から土砂などの堆積物を取り除く作業の事。堆積物が溜まると河川が氾濫しやすくなる為、浚渫はこの危険を予防する効果がある。閘門は運河などに用いられる水量を調節するための堰。この設備があると、河の高低差を調整して船が円滑かつ安定して通過出来るようになる。)この治水策は南宋から元、明の時代にかけての二浙地方でも模範とされた。

- 「災害救済」:明道2年(1033年)7月、全国的に大旱魃と蝗害が発生。江淮と京東一帯は特に深刻な被害を受けた。范仲淹は仁宗の詔を受けて災害救済を行い、倉庫を開いて民衆を救済した。また、災民が飢えをしのぐために食べていた野草を朝廷に持ち帰り、贅沢三昧の日々を送っていた六宮(皇后の住居)の貴族に戒めを与えました。(自然災害によって食を失った流民たちは野草で飢えをしのぐ事が多かったが、植物学の知識を持たない者が多く毒草を口にしてしまう者も多く、それによっても大勢の命が失われた。彼らがどれだけ悲惨な状態であったか。飽食の時代を生きる現代人同様、六宮の人々もまったく想像が出来なかった事だろう。)

- 「災害救済」:皇祐2年(1050年)、呉中で大飢饉が発生。この時、浙西を主管していた范仲淹は、一方で糧食を調達して救済し、他方で大規模な土木工事を実施し、民衆を雇用して官府が毎日の飲食を提供した。この方法で数万人の日々の生活が安定し、杭州の状況は落ち着き、災民の流出は生じなかった。また皇祐3年(1051年)、青州の知事を務めていた際も、河朔の飢饉に際して同様の策を実施し、糧価を安定させ、青州の民衆が困難な時期を乗り越える手助けを敢行した。

- 「軍事改革」:康定元年(1040年)、范仲淹は西北前線に派遣され、辺防の主将を務めた。西北地区の広大で人が少なく、山谷が交錯し、地形が険しい特徴に対して、范仲淹は「積極防御」の戦略を提案。要害地に城寨を築き、防御工事の強化と辺塞の軍隊の訓練を徹底する事で、防御を攻撃の手段とすることを目指した。

- 「軍事改革」:軍隊制度では、官職による兵の指揮を廃止し、敵情に応じた戦術を取るために戦将を選んだ。また、営田制を設けて軍需を解決し、軍隊の姿を一新し、応変能力と作戦能力を大幅に向上させた。防御工事の面では、城寨を築き、城池を修復し、烽火台を建設して、大順城を中心とする堅固な戦略体系を形成した。沿辺の少数民族に対しては、誠心誠意で接して団結を促し、寛大な待遇と厳格な賞罰規約を提供して信頼関係を築いた。これにより、西北軍には狄青、種世衡、郭逵などの名将が現れ、張亢、王信、周美なども范仲淹により抜擢された。また、強悍で戦いを恐れない兵士を訓練し、この軍隊は北宋末年まで宋朝の一大強力軍となった。

- 「軍事改革」:范仲淹の積極防御の思想は西北の軍事防衛に根本的な変化をもたらし、辺境の状況が抜本的に改善された。慶暦4年(1044年)、北宋と西夏は最終的に合意を結び、西北の辺境は再び平和を取り戻している。北宋と西夏のこの和議締結は、范仲淹の功績なくして絶対に実現しなかった。

- 「教育方略」:范仲淹は教育改革者としての功績も大きい。主なものでは、慶暦の学興、北宋三次の学興、義学、蘇州文廟府学、嘉嶺書院、稽山書院、花洲書院などが挙げられる。

- 「教育改革」:范仲淹は儒家の正統な教育思想を受け継ぎ、発展させ、「興学」を人材育成と救世の根本手段に位置付けた。『上執政書』では、「重名器」(慎重な選挙、教育の重視)を明確に提唱し、当時の科挙が試験で人材を選んだ。当時の教育を軽視する世情について、「耕作せずに収穫を求めるようなものだ」と喩え、「学問を勧めて才能を育てる」ことを主張し、科挙と教育を結びつけることを復古しようとした。

- 「教育改革」:慶暦年間の政権時、范仲淹は「復古興学校,取士本行実」を再び提案し、科挙試験制度の改革、教育システムの整備、学堂の管理強化に力を注いだ。各地でも勅命に従い学校が建設され、地方の学堂が雨後の筍のように次々と出現した。これによって人材育成が躍進した。

- 「教育改革」:教師の選抜では、范仲淹は名師を育てることを提唱し、抽象的な学問ではなく、実務と実学を最重要視した。こうして范仲淹は教師の育成と選抜に力を入れ、「師道」を教育の中心に据えた。彼が推薦した名師には、胡瑗、李觏などがあり、いずれも北宋の著名な教育家として歴史に名を残している。また教育内容について、范仲淹は「宗経」を提唱し、儒家の経典を通じて「六経」に通じ、国を治める術を身につけた人材を育てることを重視した。同時に、算学、医薬、軍事などの基本技能も兼ね備えた実用的な人材を育てる事に努めた。

- 「教育改革」:政治闘争に果敢に立ち向かった范仲淹は、幾度となく左遷させられ各地を転々としたが、どこに派遣されても学堂を設立した。その教育の恩恵が広く行き渡った事は言うまでもない。晩年には義田を設け、義学を建て、族中の子弟に無料教育を施し、「読書の美」を奨励した。范氏義学は族人の教化、社会の安定、風俗の改善に大きな成功を収め、中国古代の基礎教育段階での無料教育の新しい風潮を切り開いた。

- 「論理学改革」:宋の建国から仁宗に至る70余年の間、朝廷は基本的には祖宗の家法に従って循谨(法の遵守)を重んじてはいたが、その一方で浮華奢靡(娯楽的で軽率な文調が尊ばれる様子:現代日本にすっかり馴染んでいる消費的な文化の氾濫状態のようなもの)が横行していた。范仲淹は学識を伴う言葉(文章)こそが政治の重要な有機的構成部分であり、社会の風俗や国家の興亡に直接関わるものであると主張。范仲淹は宋初文壇の柔靡な文風に断固反対し、宗経復古、文質相救、風化を厚くする文学思想を提唱。范仲淹の文章は、政治に立脚し、文学に依存せず、揚雄、王勃、韓愈、柳宗元などの宋初の復古文論と同じ価値観を持っており、歴史的意義と復古精神を体現した。これは宋初の文風改革に多大なる影響を与えた。

- 「論理学改革」:散文創作では、范仲淹の作品は政疏と書信が多く、時政を述べ、厳密な論理性に基づく強い説得力が示された。蘇軾は《上政事書》を「天下に伝わり読まれる」と評した。《灵乌赋》では「宁鸣而死,不默而生(鳴いて死ぬことを寧んで、黙して生きることをしない)」という彼らしい義の心が示された名句が示されている。また彼の名作《岳阳楼记》では、友人に「物に喜ばず、己に悲しまず」という中庸の精神を体現するものであり、その文章は記叙、景写、抒情、議論を一体化させ、動と静が生まれ、思想境界の高いものであった。「先天下之忧而忧,后天下之乐而乐(天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみの後に楽しむ)」は千古の名句となった。

- 「論理学改革」:詩歌において、彼は孟子の「浩然の気」を継承し、曹丕の「文気説」、陸機、鐘嶷の「感物説」と「天人合一」の詩学思想を融合させた。その上で、范仲淹は「范围一气、与时消息(一気を込め、時と共に消息させよ)」という原理を主張。詩人の創作の衝動と意向が大道の「一気」を継承するべきであり、それによって万物に感じ、万物を通じて表現できると考えた。そして「与時消息」は、劉勰の「情のために文を作る」という観念と、白居易の「文章は時のために著し、歌詩は事のために作る」の主張を継承するものであり、政治教化と情感の文作りを有機的に結びつけた。范仲淹は宋初詩壇の盲目的模倣と無病呻吟を批判し、詩歌創作は現実生活に忠実であるべきであり、空言ではないと主張した。

- 「論理学改革」:范仲淹の詩歌は305首が現存し、その内容は広範囲に亘る。志を言い感懐を述べ、偉大な政治抱負を表現したり、民生に関心を寄せて憂国憂民の情懐を発揮したり、山水を記し、祖国の美しい風景を称賛したり、物を咏じて興を寄せ、自己の人格操守を示したりした。詩意は純粋で真実味があり、芸術手法は多様で、清を美とする特徴が際立ち、文を詩にし、議論化の傾向が非常に明確であった。白描手法と叠字の使用にも注意を払い、当時の白体、晚唐体および西昆体とは異なる風貌を呈し、宋初の詩歌が唐音から宋調へと転換する重要な道筋を示した。

- 「論理学改革」:《渔家傲·秋思》では、辺塞の生活の困難を反映し、侵略に反対し、辺防を強化する決意と意志を表現し、外患未除、功業未成、長く辺地に駐屯し、兵士が故郷を思う複雑な心情が描かれている。范仲淹以前には、詞という新しい詩体形式で辺塞生活を描写する人はほとんどおらず、唐人韋應物の《調笑令·胡馬》に「辺草無窮日暮」とあるが、これは生活の基礎的な描写が欠けていた。范仲淹の詞は実際には辺塞詞の創始者だと考えられる。その内容とスタイルは宋代の豪放詞と愛国詞の創作に直接影響を与え、詞の世界に新たな美学の境地を開き、宋詞が社会生活と現実の人生に密接に関連する創作方向を導いた。《剔銀燈·与欧陽公席上分題》と《定風波·自前二府鎮穰下營百花洲親制》の二詞は、歴史を読み、風景を詠じ、題材が広く、艶情とは無関係である。これは北宋前期の詞壇の創作スタイルと合致している。

- 「論理学改革」:范仲淹の艶情の詞作には、《蘇幕遮·懐旧》と《御街行·秋日懐旧》がある。これらは広大な時空背景を描写しており、同時代の他の詞人の「小園香径」「庭院深深」の狭小な環境とは全く異なっている。その真摯で感動的なスタイルが宋人の創作観念を大きく変え、詞壇の創作風気の変遷を導き、後世の詞壇に深い影響を与えた。

- 「書法の業績」:范仲淹は書道にも優れていた。黄庭堅の『山谷題跋』は「范文正公の書は筆を落とすと痛快で沈着、晋宋人の書に非常に近い。」「范文正公の書『伯夷頌』は前人の筆意を見事に極めている。正書は容易に習得できるが、小楷は清々しく力強い精神を込める事が難しいが、彼はこれを体得している。」と評価している。また朱長文の『続書断』は、范仲淹の晩年に王羲之の『楽毅論』を学んだ点を高く評価し、「彼の筆は一代の墨宝である」と述べている。他、明の唐錦が著した『龙江梦余录』は、范仲淹の書を「非常に力強く美しいが、筆先が乱れることはない」と評価。時代を経て清の高士奇も范仲淹の書に感銘を受け、「力強く美しい。まさに彼の人格を写している。」と称賛している。

※画像:DALL-E
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