【機胡録(水滸伝+α)制作メモ ex02】仁宗皇帝(宋仁宗/赵祯)

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※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。
※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。
※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

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『水滸伝(水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。
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仁宗(宋仁宗/赵祯/zhào zhēn)
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<三元論に基づく個性判定>
22番. **強い生存欲求**、**強い知的欲求**、**強い存在欲求** - **「均衡型の探究心」** - バランスの取れた探求心を持ち、様々な分野で活動する。

<概要>
仁宗は北宋の第四代皇帝。名は趙禎(ちょうぜん/zhào zhēn)、初名は趙受益(ちょうじゅえき/zhào shòu yì)。『水滸伝』の第1回にのみ登場する皇帝であり、国内に蔓延する疫病に心を痛めて解決に奔走する姿勢が垣間見られる。実在の仁宗も名前に相応しい名君であり、彼の治世は「仁宗盛治」と高く評価されている。

<功績>
北宋を全盛期に導いた立役者であると言える。乾興元年(1022年)、当時13歳で即位した彼は、章献明粛皇后劉氏(しょうけんめいしゅくこうごう:前代皇帝の2番目の側室で仁宗の母親)による垂簾聴政(皇后や皇太后など女性が皇帝の代わりに政治を主導する体制)により朝廷に座し、明道2年(1033年)、23歳から親政(皇帝ひとりが主導する体制)へ移行した。内部の党争問題も外部の武力衝突も慌ただしく起き続ける難儀な情勢であったが、知人善用の才を持って、ひとつひとつの社会課題を堅実に解決し続けた。『水滸伝』第1回にも登場する功臣、参知政事の范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)の力も大きい。文化面では学問と科挙の改革にも着手し、成功に導いている。結果、彼の治世には多くの名臣が輩出され、治安の安定と経済・技術・文化の躍進が実現した。

<崩御>
寛仁と恭謙の精神性、そして学問に対する熱意を持っていた名君。彼自身も書道に優れ、特に飛白体に秀でていた。その名君が崩御したのは、嘉祐8年(1063年)の旧暦3月29日(4月30日)。1ヶ月前から重病を患っていた彼は、東京福寧殿でこの世を去った。享年54歳、諡号は「神文聖武明孝皇帝」、廟号は「仁宗」。崩御後、都の京師(この呼び方は官語:一般的な口語では「東京」「開封」)では市が閉じられ、人々が数日間泣き続け、乞食や子供までもが皇宮前で紙銭を燃やして哀悼した。(紙銭:あの世で故人がお金に困らないように、お札を模した黄色い紙を燃やす葬儀の風習)また、『水滸伝』では敵対者となる異民族の遼国(りょうこく/liáo guó)も彼の崩御を悼み、皇帝の道宗(耶律洪基/やりつこうき/yē lǜ hóng jī)が北宋の使者に向けて「四十二年不识兵革矣(彼が在位していた42年間は、彼のお陰で我々は戦う必要がなかった)」と賛辞を送ったという。

<特記事項:疫病について>
近代史における天然痘、HIV、結核、SARSといった感染症、直近では我々が直面した新型コロナウイルスのパンデミックのように、人類と微生物は常に共存・共生の為の戦いを続けている。『水滸伝』の物語も「疫病の蔓延」から幕を開ける。北宋時代における疫病との戦いには、具体的に次のようなものが存在した。記事『北宋君臣防疫記』から抜粋する。

①14回のパンデミック:
後周顕徳7年(960年)1月2日、後周の殿前都点検であった趙匡胤(927-976)は陳橋で兵変を起こし、即位して皇帝となって、建隆と改元した。これによって北宋王朝が成立した。北宋が成立してから王朝末期に至るまでの約200年間(960-1127)、北宋王朝では14回もの疫病問題(パンデミック)が発生したという。

②両浙の疫病事件
真宗咸平3年(1000年)、両浙(浙東と浙西を合わせた江南地区の通称)で疫病が発生した。泰州(現在の江蘇省)の知州(宋王朝時代の地方行政長官)が上奏して「餓死者が多く、遺体の片付けもできず、溝渠には死体があふれている」と報告した。地元の僧侶が遺体の埋葬を手伝ったが、1000体に及ぶ遺体をまとめて埋葬するしかなかった。災害が最もひどかった越州では、蕭山県だけでも3000以上の家庭が逃亡し、県内にはほとんど生存者がいなかった。しかも仁宗治世の明道2年(1033年)、南方で大干ばつが発生して作物が全滅し、多くの民衆が流浪を余儀なくされた。この食糧事情と生活環境の悪化によって疫病がますます蔓延して、多数の死者が発生した。

③都城の疫病事件
人口密集地である都城も疫病の発生が多く、北宋時代全体を通じて合計6回もの疫病事件が発生している。太宗淳化3年(992年)、5年(994年)、真宗咸平6年(1003年)、仁宗慶暦8年(1048年)、至和元年(1054年)、嘉祐5年(1060年)の疫病事件の記録が残されている。

④疫病と相乗的に交わる社会問題
『宋史』には「民の災患」として四つの憂が書かれている。「一に疫病、二に干ばつ、三に洪水、四に家畜の疫病」である。疫病は当時の人々にとって最も恐れられる自然災害のひとつであった。

⑤第二代皇帝・太宗の疫病戦
第二代皇帝・太宗、本名は趙匡義、即位後に趙炅と改名。在位期間は976〜997年までの21年間。淳化3年(992年)、河南府、京東西、河北、河東、陝西及び亳、建、淮陽の36州で大干ばつが発生し、その後に疫病が大流行をした。やがてこのパンデミックは都の京師(東京・開封と同様)まで押し寄せた。記録には「京师大热,疫死者众(京師は非常に暑く、疫病によって多数の人が死亡した)」と記録されている。これを受けて、太宗は『行聖惠方詔』を発布。新たに編纂された『太平聖惠方』を京城と全国に頒布し、新しい医学知識を用いて疫病の流行を防いだ。この『太平聖惠方』は全100巻に及ぶ医学書であり、太宗が翰林医官院に命じて収集させた万余の処方から特選されたもの。さらに、太宗は太医署を疫病治療の指揮機関に命じ、良医10名を京師の要所に配置して、疫病の調査と病人の診療を徹底した。

⑥第四代皇帝・仁宗の疫病戦
上述の通り、名君の仁宗も疫病と戦っている。天聖6年(1028年)、仁宗が即位したばかりの頃、臨安(現在の浙江省杭州市)で大疫病が発生した。仁宗は自らの資金を貧民の治療と薬の購入に充て、棺を購入して死者を収容し、疫病で亡くなった兵士の家族を慰めた。また、慶暦8年(1048年)の年末、大雨が続き、田地が洪水で破壊され、多くの人々が飢饉に見舞われた。これに対して仁宗は即座に内府の資金と絹を三司(塩鉄、度支、戸部)に割り当て、河北の災民に対する救援に使用した。併せて、河北の官府に命じて流浪の民に住居支援を行い、彼らが再び流浪しないように生活環境を整えた。その翌年に河北で疫病が発生したが、もし仁宗がその前年に的確かつ迅速な干ばつ対策を実行していなかったら、無尽蔵の死者が発生してしまったに違いない。疫病発生後、仁宗は同じく即座に特使を派遣して薬を頒布し、各州に薬を購入して治療を徹底するように命じた。加えて、80歳以上の老人や重病者には米一石、酒一斗を与える物資支援も行った。この後、仁宗は慶暦初年(1041年)に国内各地に義倉を設立。いわゆる災害時の備蓄倉庫である。嘉祐2年(1057年)には広惠倉も設置した。これらの義倉は災害発生時にすぐに役立つ事となり、老若貧病を養護する事に大いに貢献した。この備蓄制度は北宋時代の全体に影響を与える事となり、累代にわたって有効な災害対策として継承された。総じて、仁宗は疫病が発生した際、「官吏を処罰せず」「災情を隠さず」「誠実かつ迅速に対応を行った」。この指導者として民を守る君子の行動が、宋王朝の安定と繁栄を支えたと言える。

※真逆の事例がある。『金史』によると、金朝が滅亡する2年前、正大9年(1232年)5月に「汴京で大疫病が発生し、50日間で90万人以上が死亡した」と記録されている。疫病蔓延が確認されてから1か月後の記述にあるのは「棺売り、僧侶、医者たちが大きな利益を得た」という文章のみ。防疫対策が放置され、利己的な人間が身勝手に動いていた様子が確認できる。災害や疾病などの有事を解決に導く為には、適切で迅速な政治介入と指導が不可欠だ。

⑦宰相・富弼の疫病戦
仁宗の功臣のひとりである富弼(ふせつ/fù bì:1004-1083)は、范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)に見出されて登用された宰相。字は彦国、諡号は文忠、河南洛陽出身。慶暦8年(1048年)、河朔で大洪水が発生。当時、青州知事を務めていた富弼(ふせつ/fù bì)は公的および私的な住居を集めて10万以上の場所を災民の避難所を速やかに整えた。更に彼は地元の退役官員や待機官員を動員し、一定の報酬を与えて救援活動に参加させた。また、非常時には国有の「山林陂沢の利益」を開放し、流民に生計を立てさせた。加えて、死者の即時埋葬体制により疫病の拡散を防いだ点も非常に有効な防疫対策であった。この富弼(ふせつ/fù bì)の対策によって50万人以上の災民が救われたと言われている。尚、仁宗はこの防疫対策の成功を聞き、使者を派遣して彼に褒賞を与えようとした。しかし、富弼(ふせつ/fù bì)は「これは私の本職であり、職責を果たしたに過ぎません」として、褒賞の辞退を固辞した。彼の才能・良識・美徳に溢れる功臣としての行動は天下の模範と評された。

⑧参知政事・趙抃の防疫戦
趙抃(ちょうべん/zhào biàn:1008-1084)は、規範を遵守する厳格な態度と揺るぎない公平性から「鉄面御史(鉄のような正義の精神を持つ役人」と評された人物。浙江衢州出身、字は閲道、号は知非子。熙寧8年(1075年)、両浙路で干ばつと蝗害が続き、その後疫病が発生。特に越州(現在の浙江省紹興市)が深刻さを極めた。趙抃(ちょうべん/zhào biàn)がこの越州に派遣され、救援活動の陣頭指揮を展開。彼は募金を募ると共に、米価の自由解放化によって市場の動きを活発化させ、食糧の収集に努めた。これによって一時的に米価が暴落したが、そのお陰で民は災前よりも低い価格で食糧を手に入れる事が出来るようになった。その米価の取り組みを含め、「生者得食,病者得药,死者得葬(生者は食を得、病者は薬を得、死者は埋葬を得る)」という循環性を実現させた事により、疫病の蔓延が大きく防がれた。後に唐宋八大家の一人である曾鞏が、趙抃(ちょうべん/zhào biàn)のその防疫対策を「その施策は越州で行われ、その仁徳は天下に示された」と称賛した。

⑨翰林学士・蘇軾の防疫戦
蘇軾(そしょく/sū shì:1037-1101)も仁宗の功臣のひとり。仁宗の垂簾聴政時代から政治に参画している。字は子瞻、一字は和仲、号は鉄冠道人、東坡居士。翰林学士、侍読学士、礼部尚書などを歴任し、諡号は富弼(ふせつ/fù bì)と同じように「文忠」が贈られた。(諡号/おくりなとは、貴人や僧侶などが逝去した後に与えられる称号)蘇軾(そしょく/sū shì:1037-1101)は 元祐4年(1089年)、二度目となる杭州知府に命じられる。この着任早々、疫病事件が発生。蘇軾(そしょく/sū shì:1037-1101)は即座に仁宗に災情を報告し、朝廷の支援を求めた。仁宗らはこれまた即座に20万石の大米を救援物資として輸送し、併せて一部の上納糧の免除支援も行った。続けて、蘇軾(そしょく/sū shì)は友人である巢谷の秘方である「聖散子」を医者の庞安に提供し、民衆の治療に活用。この秘方は元豊2年(1079年)に黄州で瘴気による疫病を治療したものであり、秘方ゆえに厳格な保護権利が主張されていたものであったが、蘇軾(そしょく/sū shì)はその権利を解放させて普及させた。緊急時におけるこの権利の解放が、多くの人命を救う事となった。更に彼は朝廷からの支援金と自らの資金を投じて「安楽坊」を設立し、医僧を配置して病人の治療を展開した。

⑩劉安節の疫病戦
仁宗治世からもうひとり。劉安節(りゅうあんせつ/liú ān jié:1068〜1116)は、後に民から「范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)に勝るとも劣らない大人物だ」と評される人物。字は元承、浙江永嘉出身。元符3年(1100年)に進士に合格して以来、その思考性の深さと真面目な態度から監察御史(裁判長・検察・弁護士を兼ね備えたような多角的な要職)に任命。この監察御史の時代には多くの冤罪事件を解決に導いている。その後、宦官と意見が衝突して饒州知事に左遷された。この饒州で饑饉に苦しんでいた地元民の為に食糧を調達し、懸命に災民の救済を遂行した。宣州知事に転任した後、大水害が発生。ここでも彼はすぐに官兵を派遣して救援活動を展開し、難民を寺院に収容する措置を講じた。そして政和6年(1116年)には疫病が流行。彼は医療と薬の提供に奔走し、多くの命を救い出した。自らが陣頭に立って最前線で防疫戦を行っていた為、自身も疫病に感染。49歳という若さで逝去した。宣州の住民は彼の死を心から悼み、祠を設けて彼を祭った。


※画像:DALL-E
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