【機胡録(水滸伝+α)制作メモ 001】宋江

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※補足1:生成画像は全てDALL-E(Ver.4o)を利用している。
※補足2:メモ情報は百度百科及び中国の関連文献等を整理したものである。
※補足3:主要な固有名詞は日本訓読みと中国拼音を各箇所に当てている。

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『水滸伝(水滸伝/shuǐ hǔ zhuàn)』の概要とあらすじ:中国の明王朝の時代に編纂された、宋王朝の時代を題材とした歴史エンターテイメント物語。政治腐敗によって疲弊した社会の中で、様々な才能・良識・美徳を有する英傑たちが数奇な運命に導かれながら続々と梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó:山東省西部)に結集。この集団が各地の勢力と対峙しながら、やがて宋江(そうこう/sòng jiāng)を指導者とした108名の頭目を主軸とする数万人規模の勢力へと成長。宋王朝との衝突後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受けた後、国内の反乱分子や国外の異民族の制圧に繰り出す。『水滸伝』は一種の悲劇性を帯びた物語として幕を閉じる。物語が爆発的な人気を博した事から、別の作者による様々な続編も製作された。例えば、『水滸後伝(すいここうでん/shuǐ hǔ hòu zhuàn)』は梁山泊軍の生存者に焦点を当てた快刀乱麻の活劇を、『蕩寇志(とうこうし/dàng kòu zhì)』は朝廷側に焦点を当てた梁山泊軍壊滅の悲劇を描いた。
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宋江(そうこう/sòng jiāng)

DALL·E 2024-05-16 16.32.22 - A detailed line drawing in the style of illustrations from 'Water Margin' (Shuihu Zhuan), depicting a serious man with a mustache and goatee, wearing .jpg
<三元論に基づく個性判定>
33番 **弱い生存欲求**、**とても強い知的欲求**、**とても強い存在欲求** - **「理論的社交家」** - 知識を他者と共有し、理論的な思考を持ちながら社交的に振る舞う。

<概要>
宋江(そうこう/sòng jiāng)、字は公明(こうめい/gōng míng)、綽号(あだな)は呼保義(こほうぎ)、及時雨(きゅうじう/hū bǎo yì)、孝義黒三郎(こうぎこくさぶろう/xiào yì hēi sān láng)。古典小説『水滸伝』の主要人物の一人で、梁山泊の108将の一人、第一位に位置している。

宋江(そうこう/sòng jiāng)は元々山東省の郓城県(うんじょうけん/yùn chéng xiàn)の押司(役人)であったが、彼と山賊の晁蓋(ちょうがい/cháo gài)との友人関係が毒婦の閻婆惜(えんばせき/yán pó xī)に発覚し、怒りに任せてその閻婆惜(えんばせき/yán pó xī)を殺害、実家に逃げ帰り隠れた。その後、彼は清風寨(せいふうさい/qīng fēng zhài:「寨」は地方統治を行う城砦)に向かい、副知寨(副長官)の花栄(かえい/huā róng)を頼る。しかし、灯籠祭りで正知寨(正長官)の劉高(りゅうこう/liú gāo)の妻に陥れられ、入獄。彼は青州(せいしゅう/qīng zhōu)への護送中に燕順(えんじゅん/yàn shùn)らに救出される。彼の父が息子の行く末を案じ、帰郷して恩赦を受ければ再び役人としての道を歩めると考え、病死を装って彼に手紙を描く。宋江(そうこう/sòng jiāng)はその父親の手紙を読んで急いで帰郷しようとしたが、捕まって江州に流刑となった。江州(こうしゅう/jiāng zhōu)の潯陽楼(じんようろう/xún yáng lóu)で酩酊した彼は思わず反体制的な意味を含む詩を壁に書いてしまい、それが原因となり死刑を宣告されたが、処刑当日に梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó)の仲間に救出され、遂に梁山泊(りょうざんぱく/liáng shān bó)に落草(らくそう/luò cǎo:山賊の仲間に帰属する事)。地方勢力の曾頭市(そうとうし/céng tóu shì)の攻撃で、梁山泊の頭領であった晁蓋(ちょうがい/cháo gài)が戦死し、これを受けて彼が梁山泊の頭領となった。その後、彼は梁山泊の頭領として仲間たちの尊敬を一心に集めながら、参謀の呉用(ごよう/wú yòng)と共に梁山泊集団を指揮。朝廷討伐軍の制圧後に招安(しょうあん/zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)を受け入れた後、梁山泊集団は朝廷側の軍として遼国(りょうこく/liáo guó)、田虎(でんこ/tián hǔ)勢力、王慶(おうけい/wáng qìng)勢力、方臘(ほうろう/fāng là)勢力を平定する多大なる功績を打ち立てる。朝廷内の奸臣(かんしん/jiān chén:腐った政治家)である蔡京(さいけい/cài jīng)、童貫(とうかん/tóng guàn)、高俅(こうきゅう/gāo qiú)が、彼のこれらの功績に対して恐怖・嫉妬・憎悪を覚えて、策謀により彼を毒殺。彼は蓼児洼(りゅうじか/liǎo ér wā)に埋葬され、物語に終止符を打った。

<人物の外見>
丹鳳(たんぽう/dān fèng:伝説的な神の鳥)のような輝く瞳、臥蚕(がさん/wò cán:眠期の蚕)のような太い眉。耳には珠が掛かり、目は明るい。唇は四角く、口は正しく、髭は軽やか。額が広く、頭頂は平ら。座っている時は虎のようで、動く時は狼のよう。三十歳になると万人を養う度量を持ち、六尺の身長で四海を清浄する心機を発揮した。志が高く、胸襟(精神性)が美しい。刀筆(とうひつ/dāo bǐ:刀やその他の鋭利な道具で文字を書く北方文化)の分野では蕭相国(しょうしょうこく/xiāo xiāng guó:本名は蕭何、劉邦の功臣)を凌駕する程で、その名声は孟嘗君(もうしょうくん/mèng cháng jūn:古代戦国時代の功臣)に劣らない。(『水滸伝』第十八回「美髯公智穩插翅虎 宋公明私放晁天王」より)。

<性格の特徴>
彼の性格には、孝、義、忠、智の四つの側面が見受けられる。

- **孝**: 彼の父兄への感情が作品中で深く描かれています。例えば、彼は北宋の徽宗(きそう/huī zōng)が暗い政治を行なって奸臣で周囲を固めている事を早々に見抜き、天下がいずれ大乱に陥ると察知している。また自身が江湖の好漢と交わることを愛し、いずれ問題が起こると予感して、父を連累しないように自分が家族と縁を切っていると告げさせている。(連累の「累」は被害や消耗などを意味する言葉。連累は二次被害の意。)北宋の法律では、父が子を絶縁していると宣言すれば、父子関係が断絶し、仮に子が犯罪を犯しても連座する事は無かった。彼のこの孝行は、苦しい孝行であったと言える。

- **義**: これは特に英雄義気に表れている。彼は情商が高く、兄弟愛と英雄義気を重視し、感情が豊かだ。この義の性質により、梁山泊集団の全ての好漢(こうかん/hǎo hàn:才能・良識・美徳を備えた英傑の意)の心を容易に掴む事が出来た。彼は意見の異なる好漢に対しても、真摯で謙虚な態度を貫いた。

- **忠**: 彼には国家への揺るぎない信念があった。梁山泊集団の中で、豪傑で粗暴な性質を帯びる李逵(りき/lǐ kuí)や魯智深(ろちしん/lǔ zhì shēn)らは反体制的な見解を示していた。彼ら以外の仲間たちは明確な国家に対する観念を持っていなかったが、彼だけは国家を最重要視していた。その忠の精神によって、梁山泊集団は腐敗した朝廷討伐には及ばず、招安による朝廷軍として遼国、田虎、王慶、方臘の征伐へと繰り出す道へと進んだ。彼は国家体制を尊ぶあまりに根本的な構造の改革には着手しなかった為、必然的に彼の結末は腐敗した家臣たちの毒酒によって悲劇的な末路を辿るしかなかった。

- **智**: 彼のこの知見的な才能は主に戦争の際に表れ、最後の勝利は優れた智謀と組織能力を発揮した。このような優れた智謀は、梁山泊集団を共に導いた参謀の呉用(ごよう/wú yòng)に共通するが、精神性を含んだ統率力については梁山泊集団において彼の右に出る者はいない。

孝、義、忠、智。これらの技能・良識・美徳が彼の思想を支え、大事を成し遂げる事に繋がった。しかし、彼の行動原理の限界もまた、この四文字に濃縮されているとも言える。臨事の恐れ、朝廷に対する使命感、兄弟愛の深さ。これらは多種多様な人材が集う梁山泊集団を求心的にまとめ上げる原動力となったが、またそれらによって最終的な破滅に至る原因にもなった。

<人物の原型>
宋江(そうこう/sòng jiāng)には人物描写の原型となった実在の人物が存在する。歴史上の彼の生年月日や死亡年月は不明だが、記録によれば、彼は淮南の盗賊として36人の頭領を従え、北方、特に山東省内を縦横無尽に駆け巡り、数万の官軍でも彼らを討ち取る事が出来なかったそうだ。その後、腐敗した朝廷に対して彼らが反乱を起こした。彼が朝廷に降伏した経緯については二つの説がある。一つは皇帝が家臣の侯蒙(こうもう/hòu méng)の建議(けんぎ/jiàn yì:意見の上申)を受け入れて降伏を認めたこと。もう一つは張叔夜(ちょうしゃくや/zhāng shū yè)の朝廷軍に敗れて降伏したことだ。いずれにせよ、彼らは朝廷による招安後に『水滸伝』同様、異民族の方臘(ほうろう/fāng là)勢力の討伐に参加した。その後、彼らの物語が民間で伝説や演劇の題材となり、後に施耐庵(したいあん/shī nài ān)、羅貫中(らかんちゅう/luó guàn zhōng)によって物語が整理され、文学的な形象が作り上げられた。

<人物の評価>
・宋江の思想は梁山泊の好漢たちの思想や願望に合致しており、またその時代の人々の主流の思想でもあったが、招安後の結末は悲惨なものだった(内蒙古日報評)。

・宋江の忠義の観念の限界が、梁山泊集団の反抗精神の悲劇的な結末にある程度反映されている(紅学家李希凡評)。

・宋江の人物設定の醸成が、『水滸伝』成書以前の様々な文献に見受けられる。『史記』における郭解の事跡と『水滸伝』の宋江の事跡を比較すると、宋江が元々の単純な「勇悍狂侠」の人物像から「江湖の教父」へと変容していった様子を確認できる(南開大学文学院教授陳洪評)。

・宋江の一生は、「革命を望まないところから」「革命に向かうことになり」「最終的に革命を裏切る」という三部作により構成されている(武漢大学教授唐富齢評)。

※画像:DALL-E

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