人助け、も大事なのですが『神助け』・『仏助け』もそれ以上に大切である、とずいぶん前に理解したことがありました。
神社仏閣は、基本的に荒らされています。
もちろん、大体は『人』のしわざです。
それを正したり、清めたりする人はいますが、肝心の人手が少ないのが近況であります。
神仏には次元階層ごとにレベルがあります。
表現は悪いですが、『ピンキリ』なのです。
しかし、『神仏』ですので学習能力のようなものは高い、と言われております。
神仏を『集合意識』ととらえることもあります。これは、信仰の世界において成立している概念とも言えますが。宗教が悪いわけでも、信仰が悪いわけでもないですが、『宗教的信仰』にはやや警鐘をならしております。
人の本来の在り方を見失うため、やめたほうがよい、という意味です。
信仰、正直申せば『要りません』と本当の神仏は言います。
わざわざ、『神様仏様』などと妄信的態度で崇める在り方は、まあ、やめていったほうがよい、といいます。
けれども、ずうずうしく人間が慢心することが多かったため、多少の方便的表現が必要だと考えたようでした。
すべてではありませんが、『祟り』や『怖い』と言われている神仏のいわれは、人間の欲やエゴに関係しているため、軽んじられると困るわけです。
「人として生きている、存在している意味」
を真剣に問うたならば、信仰の意味は全く違う意識から考えることができるでしょう、と申しておりました。
「人が外側の欲だけの世界に意識と目線を向け続けていけば、本当の神仏は消える(感じられなくなる)」
信仰が必要になってしまったからくりでしょう。
集合意識的に言えば、
「『人』よりも『神(と呼ばれている意識)』のほうが疲れ切っていた」
ということもございました。都合の良いときだけ『神様仏様』と手を合わせられても、正直申せば「困る」ようです。
「信仰は一生続けなければいけない」
と脅しにかかるような仏格意識もいるのですが、別にその方が特段『怖いから』というわけではなく、
「生まれてきた本当の役割だとかやるべきことを全うするのか?」
とどの仏格でも申すでしょう(その仏様が本物ならば)。
方便、霊的道徳心が低い者に対し、『信仰』という概念を持ち出して導かなければいけない時代を、昔、『末法』とあらわしていた、そう記憶しています(今もそうなのか?そんなわけないと思いたいけれど)。
今の神仏は、
「なんでもかなえてくれる便利屋」
ではなく、
「本当に必要な事しか後押しできない」
と、申し出るほうがマジョリティ、のようです。
前ほど『献身的に人間に寄り添うスタンス』から離れていくものもおります。時代や次元が変わったこともありますが、
「もういいか」
となってしまっている、ようです。
神仏ももう、
「『人』を選びたい」と懇願している場合も多くあるようでした。
そうなのか……。
まあ、そうなのでしょうね。たぶん。