「異邦人について」慶應義塾大学文学部2014年

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学び

(1)問題



日常のなかの異邦人次の文章を読み、設問に答えなさい。

① 異邦人――という言葉は、私にとって特別の響きを持っている。

② もう半世紀以上も前のこと、学生時代に読んだカミュの『異邦人』の読後感は、鋭利なナイフで心臓を切り裂かれたかと思うほど強烈なものだった。戦後になって現代フランス文学が怒濤のように翻訳されるようになった中で、高校時代には、理想主義の文学とも言うべきロマン・ロランの気高い精神性に惹かれて傾倒し、ロランの様々な作品が翻訳されると、すぐに買って読んだ。やがて上京して大学に入ると、友人の影響もあって、太宰治などの小説で脳みそを軟化させられ、そこヘカミュが入ってきた。十九歳から二十歳にかけてのこと。

③「異邦人」「不条理」という言葉が、突然脳内を闊歩し始めたのだ。世界と人間は不条理な出来事に満ち満ちている。たとえば、親が難病で全面介護に明け暮れているさなかに、子どもが交通事故で死亡し、勤務先の会社は倒産、自分も胃がんが見つかるといったぐあいに、自分を現代のヨブと言いたくなるほど、苦難がこれでもかこれでもかと襲ってくる時、当人にとって世界も人生も不条理の塊に見えるだろう。それでも人は、ほどほどに他者と妥協したり、嘘をついたり、自分を問い詰めることをしなかったりしながら、何とか生きていく。

④もし妥協も誤魔化しもしなかったらどうなるのか。殺人の罪を問われた『異邦人』の主人公ムルソーは、社会や宗教から与えられた教義を真理と考えない。自分が存在すること、世界と他者について感じることが、世界認識の出発点であり、その自己のあるがままが真理なのだ。真理を貫くために、虚飾を排除し、嘘をつかない。母親の葬儀で涙を流さなかったことを検事に認めるなど、社会通念に反するような矛盾に満ちた自分のことを率直に供述すると、どうなるか。検事は法廷で陪審員に向かって、こう言い放つ。「母の死の翌日、この男は、海水浴へゆき、女と情事を始め、喜劇映画を見に行って笑いころげたのです」と。弁護士が、「要するに、彼は母親を埋葬したことで告発されたのでしょうか、それとも一人の男を殺害したことで告発されたのでしょうか?」と反論しても、陪審員は関心を示さない。

⑤カミュがこの小説で表現しようとしたことは、新潮文庫版(窪田啓作訳)の解説でフランス文学者・白井浩司氏が紹介しているカミュ自身の言葉(英語版への自序)によって明快に述べられている。
 ……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。(中略)ムルソーは人間の屑(くず)ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。(以下略)

⑥私が学生時代にこの小説を読んで強烈な影響を受けたのは、ムルソーが焼けつくような太陽の光に耐えかねて、ピストルの引き金を引いたといった、不条理さを派手に表現した点よりは、むしろムルソーが嘘も取りつくろいもない自分の真実を貫こうとすると、たちまちにして社会的には悪役に祭り上げられて疎外されてしまうという、個としての人間存在の危うさを完璧に描き出した点だった。

⑦それまで私の脳内の辞書にあった異邦人という言葉は、誇りを持った同朋人とは異質な、立ち位置の安定しない異邦からの人間といった意味で使うものだった。上から見下ろす目線による他者なのだ。しかし、カミュの『異邦人』は、そんな表面的なとらえ方を突き崩した。異邦人とは人間の内面に潜む問題であって、たとえ同朋の中にいても、自分がいつ異邦人と見られ、疎外されるかわからないのだ。

 ⑧さて、哲学者・鷲田清一先生が著書『「聴く」ことの力-臨床哲学試論』(阪急コミュニケーションズ)の中で、興味深い異邦人論を述べられていることについて、その議論をもう少し丁寧に紹介すると、こうだ。その議論では、「臨床」と「歓待」が重要なキーワードになる。「臨床」とは、第一義においては、(ひとが特定のだれかとして他のだれかに遇う場面)という常識的なとらえ方がされる。そのうえで深い意味づけが加えられる。すなわち、第二義において、ルネ・シェレールというフランスの哲学者の論を踏まえて(その詳論は省略するが)、〈ひとがある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな=(歓待される)関係のなかでじぶん自身もまた変えられるような経験の場面〉と規定される。

⑨また、「歓待」とは、シェレールによれば、〈《客》を迎え入れる者(ホスト役のひと)を本来の自分から逸脱させるもの〉、〈いいかえるとそれは、「社会的分類の中での範疇化された」自己を揺さぶり、つきくずすきっかけとなるもの〉であり、主客逆転の結果をもたらす行為ととらえられる。
⑩鷲田先生はこれら二つのキーワードのはたらきを明確にしたうえで、歴史に名を残した小説家、画家、音楽家などが「異邦人」となったことによって、いかに才能を発揮させたかを焙り出す。ただし、この議論においては、「異邦人」と言っても、必ずしも疎外された者ではなく、持てる才能ゆえに「歓待」された者(古代、中世、近世における王侯などによる「歓待」だけでなく、「異邦の地」で苦労しながらも作品が認められ受け入れられた者も含む)となっている点は、留意しておく必要はあろう。この議論における「異邦人」とは、人格も存在も疎外された者という、カミュがテーマにした異邦人とは全く違っている。で、鷲田先生が挙げた西洋の人物は、次のとおりだ。
 ルソー、ベケット、アポリネール、カンディンスキー、ヴァン・ゴッホ、ジャコメッテ、シャガール、ピカソ、ショパン、ストラヴィンスキー、レヴィナス、ゾラ、そしてナボコフ、ゴンブローヴィチ、リルケ……。

 ⑪そして、シェレールの言葉を続ける。彼らはすべて、異邦の地に客となって、そこでその作品のすべてを、ないしその一部を生みだした。

 ⑫なかなか興味深い着眼だ。オランダ出身のヴァン・ゴッホのように、パリに出て、「歓待」してくれるパトロンはいなかったが、印象派などの画家たちから大きな刺戟を受けたという場合も、「異邦の客」と呼んでも本質的には差しつかえはないだろう。

⑬では、なぜ「異邦の客」となると、輝かしい才能を発揮することができるのか。シェレールの「歓待」論が意味を持つのは、まさにその問いに対してなのだ。

⑭人が主人として誰か他者を客として歓待し、自分の座に坐らせると、その人は他者にとって他者となる。自分が他者の他者となった時、それまでの狭い枠のなかの自分(つまり自分を縛っていた本来の自分)を容易に突き崩して解放することができ、新しい自分を奔放に伸ばすことができるようになる。シェレールをベースにした鷲田先生の異邦人論をくだいて言えば、そういうことだろう。

⑮そこに私見をつけ加えるなら、感性の鋭敏な若い時期に、異邦の客になると、様々な異質の才能の持ち主に遭遇してどんどん刺戟を受けるし、生活を取り巻く環境も大きく違う。井の中の蛙ではいられないし、故郷でお山の大将になっていられるような甘えは許されない。故郷にいたのでは、自分を何かに映して省みるということは発想もしないが、異邦の地では緊張感も加わって、たえず周囲の反応に映し出される自分を見てしまう。才能は発達し、人間的な成長もするだろう。よく海外留学をして帰国すると、一まわりも二まわりも成長した感じになると言われることと似ている。

 ⑯物事には、しばしばプラスとマイナスの両面がある。一面だけを見ていたのでは、深い真実あるいは物事の全体像をとらえることはできない。また、対立するように見える事象であっても、深層においては、同じ基盤の上にある問題であるケースが少なくない。

⑰既述のように、自分の真実に忠実であろうとすればするほど、群れの中で孤立した異邦人となり、疎外され抹殺されるという、カミュが描いた世界が、一方にある。他方、シェレールの所説によれば、歴史に名をとどめる多くの作家や芸術家たちは、「異邦の客」として歓待されたことで才能を開花させたという。

⑱これら異なった使われ方をした二つの異邦人と呼ばれる人間は、外見的には相反する方向を向いている。だが、二項対立的に相容れない関係にあるのかというと、私はそうとは思わない。それぞれに噛み砕いた解釈を加えると、両者は対立するものでないどころか、同じ庭に生えた同種の樹木とも言うべき関係にある。

⑲私の解釈は、こうだ。嘘もとりつくろいもなく、自分の真実をひたむきに貫いて生きるなら、確かに群れの中で疎外されるだろうが、そのような人間がそれでもなお絶望することなく、何らかの活動領域において生きなおす力を獲得するか、個性的な活路を見出すなら、その人の人生は極めて積極的なものとなるだろう。

⑳ちなみに、『異邦人』の解説のなかで、自井氏は、主人公のムルソーについて、「否定的で虚無的な人間にみえる」が、「人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である、という命題は、到達点ではなくて出発点であることを知らなければならない。ムルソーはまさに、ある積極性を内に秘めた人間なのだ」(傍点・柳田)と、この人物の造形にこめられたカミュの意図を明解に腑分けしてくれている。さらに氏は、「(この小説は)不条理に関し、不条理に抗してつくられた、古典的作品」というサルトルの評を付して、「積極性を内に秘めた人間」の意味をしっかりと補強している。

㉑一方、数多くの作家や芸術家たちが異邦の地に客となって、優れた作品を生んだというシェレールの言説に対する私の解釈は、こうだ。未来に夢を抱き、生まれ育った地を離れて異邦に旅立った人々は、貧しい移民まで含めると、世界にゴマンといる。だが、ここで目を向けたいのは、作家や芸術家のように、高いレベルの表現活動の場を求めたり自らの才能を大きく開花させたいという意識から、異邦の地に出立した人々のことだ。

㉒そういう限られた数の人々のすべてが、客としての歓待を受けたわけではない。しかも歓待を受けた人々の中でも、歴史に名を残す作品を生み出し得たのは、一部に過ぎない。平凡に人生を終えた人々のほうが、はるかに多いはずだ。しかし、だからといって異邦の地が才能の開花とは無関係かというと、そうではなかろう。異邦の地という特異な環境が、人生を危くしかねない毒を含みつつも、前頭葉の言語野や感覚野を劇的に活性化する特効薬の効能を秘めているのは確かだ。

㉓なぜこのように私は、「異邦人」や「異邦の地」という言葉の内実にこだわるのか。それは、長年にわたって、がんや難病の人々の生き方について取材し考えてきた中で、そういう人々の心模様の中に、異邦人意識とでも言うべき特別の感情がかなり強く見られるのを、どのように解釈すべきかとずっと考えていたからだ。

㉔たとえば、幼い子どもが二人もいるのに、母親が進行したがんであることがわかった時、「なぜ私ががんにならなければいけないの!何も悪いことをしていないのに。私が死んだら子どもたちを誰が世話するのよ。神様はなぜこんなむごいことを私に科すの?」と、神を恨む。そして、「この苦しみは誰にもわからない」と孤独感に打ちひしがれる。それまで仲良くつきあっていた、子どもたちの通う小学校や保育園の母親たちの元気で明るい顔を見るだけで心が傷つき、会うのが辛くなってくる。自分がこの世でいちばん不幸な人間だと思ってしまう。彼女は異邦の地に移住したわけでもないのに、心理的にまさに異邦人になってしまったのだ。

㉕このように、治癒の困難な病気になった人が絶望的なまでの孤立感や孤独感の虜になる例は少なくない。「日常のなかの異邦人」と言おうか。事故や脳卒中などで、身体に重い障害を背負う身になった人々のなかにも、同じような傾向が見られる。

㉖かつて治療薬がなかった時代の結核やハンセン病の患者たちは、社会的な偏見から赤裸々に疎外され排斥されたがゆえに、追放された異邦人として、苛酷な人生を送ることになった。最近においては、そうした社会的な偏見は薄くなったが、医学・医療の発達や公衆衛生の向上などによって、健康でいるのが当たり前という錯覚にとらわれる時代になったぶんだけ、重大な病気になった時の、他者との相対的な幸・不幸の落差感が大きく、そのことが「日常のなかの異邦人」という心理状態を引き起こしているように見えるのだ。

㉗昨日までは、以心伝心でわかり合える同朋のなかで暮らしていると思いこんでいたのに、進行がんが見つかったとたんに、まるで言葉の通じない異邦の地に投げこまれたような心理状態になるというのは、誰にでも起こり得ることだ。明日は、自分かもしれない。人みな異邦人、とりわけ病者みな異邦人というのが、現代なのだ。

 ㉘ただ、現代におけるがんや難病の病者は「日常のなかの異邦人」であって、往年のハンセン病や結核の病者とは、質的な違いがある。後者においては、地域社会の中で冷酷に差別され忌避された異邦人だった。とくにハンセン病患者は戸籍から抹消され、家族からさえ排除され、生涯を隔離された施設で暮らさなければならなかったのだから、人生も人格も奪われた異邦人だった。

㉙ともあれ、社会的にであれ心理的にであれ、異邦人となった病者が、挫折と絶望感のその先で精神生活を支えたものは、何だったのか。数は多くはなかったけれど、絵を描いたり、詩歌を詠んだり、随筆や小説を書いたりして、精神性の豊かな日々を過ごした人々がいた。それらの人々の中には、文学性の高い作品を残した人々がいた。代表的な作品としては、ハンセン病では、北条民雄の実体験の小説『いのちの初夜』や村越化石の数々の句集、結核では、堀辰雄の『風立ちぬ』、がんでは、高見順の『死の淵より』など数え切れないほどある。

㉚なぜ、人は病者となり、命の限界を悟った時、精神性の高い優れた文学作品を生み出すのか。その質問を解く鍵は、すでに書いたカミュの『異邦人』をめぐる考察やルネ・シェレールの″異邦人歓待論″をめぐる考察の中に示されている。答は明確だ。病者という異邦人になったことによって、同朋に対してさえ隔絶感を抱き孤独になったがゆえに、否応なしに自分がそれまでの自分ではない他者に見えてくる。しかも異邦人となった自分は、それまでの自分を縛っていたあるべき自分像のままではなく、変容した自分になっている。その衝撃の日々を、書くという才能なり生活習慣を持つ者であれば、書かないではいられないという高揚した気持ちになる。

㉛そこに言葉が生まれ、立ち上がってくる。死とせめぎ合ういのちの叫び、いのちの呻きとしての言葉が。ほかの誰かによって使い古されたのではない、その人のその瞬間の息づかいを映した言葉が立ち上がってくる。
(柳田邦男『言葉が立ち上がる時』より)

設問I この文章で論じられている「異邦人」について、三〇〇字以上三六〇字以内にまとめなさい.

設問Ⅱ 「異邦人」とはどのような存在か、この文章を踏まえてあなたの考えを三二〇字以上四〇〇字以内で述べなさい。


異邦人.png


(2)解答例

設問I 
自分の真実を貫こうとすると社会的に孤立して抹殺される。同朋の中にいても自分がいつ疎外されるかわからない、というカミュが書いた人間の内面に潜む問題としての異邦人論がある。一方、感性の鋭敏な若い時期に、異邦の客になると環境の変化や緊張感、人との出会いによって刺戟を受け、周囲の反応に映し出される自分を見ながら才能は発達し、人間的な成長もする。このような持てる才能ゆえに歓待された者というシェレールと鷲田清一の異邦人論がある。筆者はこれらを総合して、病者としての異邦人論を唱える。これは、がんや難病の患者、重度障害者が孤独感に陥り日常のなかの異邦人となる。社会的・心理的に孤絶した病者には、異邦人としての境遇から、死とせめぎ合ういのちの叫びや呻きの言葉が生まれる。このような文学活動を通して病者は精神生活を支えることになる。(358字)

設問Ⅱ
  異邦人とは、外部性に触れた者をいう。社会通念などの表層的なルールで成り立っている日常生活の中で、性的な欲動といった自己の内面に忠実であろうとする姿勢は、社会から見れば逆説的な意味での外部である。また、異国から来訪する者は字義通りの外部性を持つ者であり、さらに、私たち生ある者にとっての外部は死である。
 文学はこのような私たちの生活を成り立たせている日常的な平面と想像を絶する非日常的な外部との接触面から発生する。私たち市井人は未知で暗黒の外部に対して恐怖や不安を抱く一方、期待や好奇心も同量に併せ持つ。
 異邦人は外部の持つ両義性を有する。日々の暮らしを寿ぐ一方で警告を告げる預言者でもある。異邦人の創る文学は、一見すると安定的な日常生活の虚飾を掘り起こし、私たちの住む世界を外部へと押し広げることで豊かな実りをもたらす。このような意味で文学は地平を開拓するフロンティアの役割を担う。

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