「公衆の啓蒙」青山学院大学総合文化政策総合文化政策(個別学部B方式)2021年

記事
学び

(1)問題

◆啓蒙の定義
①啓蒙とは何か。それは人間が,みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ,未成年の状態とは,他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは,理性がないからではなく,他人の指示を仰がないと,自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において,未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば。それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

◆未成年の利点
②ほとんどの人間は,自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年),他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに,死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僣称(せんしょう)したがる人々も跡を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも,未成年の状態にとどまっているのは,なんとも楽なことだからだ。わたしは,自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り,良心を働かせる代わりに牧師に頼り,自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば,考える必要などない。考えるという面倒な仕事は,他人がひきうけてくれるからだ。

③そしてすべての女性を含む多くの人々は,未成年の状態から抜けだすための一歩を踏みだすことは困難で,きわめて危険なことだと考えるようになっている。しかしそれは後見人を気取る人々,なんともご親切なことに他人を監督するという仕事をひきうけた人々がまさに目指していることなのだ。後見人とやらは,飼っている家畜たちを愚かな者にする。そして家畜たちを歩行器のうちにとじこめておき,この穏やかな家畜たちが外にでることなど考えもしないように,細心に配慮しておく。そして家畜がひとりで外にでようとしたら,とても危険なことになると脅かしておくのだ。ところがこの(危険)とやらいうものは,実は大きなものではない。歩行器を捨てて歩いてみれば,数回は転ぶかもしれないが,そのあとはひとりで歩けるようになるものだ。ところが他人が自分の足で歩こうとして転ぶのを目撃すると,多くの人は怖くなって,そのあとは自分で歩く試みすらやめてしまうのだ。

◆未成年状態から抜けだせない理由
④だからどんな人にとっても,未成年の状態がまるで生まれつきのものであるかのようになっていて,ここから抜けだすのが,きわめて困難になっているのである。この未成年状態はあまりに楽なので,自分で理性を行使することなど,とてもできないのだ。それに人々は,理性を使う訓練すら,うけていない。そして人々をつねにこうした未成年の状態においておくために,さまざまな法規や決まりごとが設けられている。これらは自然が人間に与えた理性という能力を使用させるために(というよりも誤用させるために)用意された仕掛けであり,人間が自分の足で歩くのを妨げる足枷なのだ。

⑤だれかがこの足枷を投げ捨てたとしてみよう。その人は,自由に動くことに慣れていないので,ごく小さな溝を飛び越すにも,足がふらついてしまうだろう。だから自分の精神をみずから鍛えて,未成年状態から抜けだすことに成功し,しっかりと歩むことのできた人は,ごくわずかなのである。

◆公衆の啓蒙
⑥このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが,公衆がみずからを啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば,公衆が未成年状態から抜けだすのは,ほとんど避けられないことなのである。というのも,公衆のうちにはつねに自分で考えることをする人が,わずかながらいるし,後見人を自称する人々のうちにも,こうした人がいるからである。このような人々は,みずからの力で未成年状態の(くびき)を投げ捨てて,だれにでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めてゆき,理性をもってこの信念に敬意を払う精神を周囲に広めていくのだ。しかし注意が必要なことがある。それまで後見人たちによってこの(くびき)のもとにおかれていた公衆は,みずからは啓蒙する能力のない後見人たちに唆(そそのか)されると,みずからをこの(くびき)のもとにとどまらせるようにと,後見人たちに迫ることすらあるのである。これはあらかじめ植えつけられた先入観というものが,どれほど有害なものかをはっきりと示している。先入観は,それを植えつけた人々にも,そもそもこうした先入観を作りだした人々にも,いわば復讐するのである。こうして公衆の啓蒙には長い時間がかかることになる。

⑦おそらく革命を起こせば,独裁的な支配者による専制や,利益のために抑圧する体制や,支配欲にかられた抑圧体制などは転覆させることができるだろう。しかし革命を起こしても,ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ。新たな先入観が生まれて,これが古い先入観ともども,大衆をひきまわす手綱として使われることになるだけなのだ。

◆理性の公的な利用と私的な利用
⑧ところが公衆を啓蒙するには,自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由,すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。

⑨ところでわれわれはあらゆる場所で,議論するなと叫ぶ声を耳にする。将校は「議論するな。訓練をうけよ」と叫ぶ,税務局の役人は「議論するな,納税せよ」と叫ぶ。牧師は「議論するな,信ぜよ」と叫ぶのである。好きなだけ,好きなことについて議論せよ,ただし服従せよと語っているのは,この世でただ一人の君主[フリードリヒ大王]だけなのだ。

⑩こうしてどこでも自由は制約されている。しかし啓蒙を妨げているのは,どのような制約だろうか。そしてどのような制約であれば,啓蒙を妨げることなく,むしろ促進することができるのだろうか。この問いにはこう答えよう。人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない,理性の公的な利用だけが,人間に啓蒙をもたらすことができるのである。これにたいして理性の私的な利用はきわめて厳しく制約されることもあるが,これを制約しても啓蒙の進展がとくに妨げられるわけではない。

⑪さて理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として,読者であるすべての公衆の前で,みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは,ある人が市民としての地位または官職についている者として,理性を行使することである。公的な利害がかかわる多くの業務では,公務員がひたすら受動的にふるまう仕組みが必要なことが多い。それは政府のうちに人為的に意見を一致させて,公共の目的を推進するか,少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。この場合にはもちろん議論することは許されず,服従しなければならない。

⑫しかしこうした機構に所属する人でも,みずからを全公共体の一員とみなす場合,あるいはむしろ世界の市民社会の一人の市民とみなす場合,すなわち学者としての資格において文章を発表し,そしてほんらいの意味で公衆に語りかける場合には,議論することが許される。そのことによって,この人が受動的にふるまうように配置されている業務の遂行が損なわれることはないのである。

◆三つの実例
⑬だからたとえば,ある将校が上官から命令されて任務につきながら,その命令が目的に適ったものではないとか,役に立たないなどとあからさまに議論するとしたら,それはきわめて有害なことだろう。命令には服従しなければならないのである。しかしその将校が学者として,戦時の軍務における失策を指摘し,これを公衆に発表してその判断を仰ぐことが妨げられてはならないのは当然のことである。

⑭また市民は,課せられた税金の支払いを拒むことはできない。そして支払い時期が訪れたときに,こうした課税について知ったかぶりに非難するのは,すべての人に反抗的な行動を唆(そそのか)しかねない不埒(ふらち)な行為として罰せられるべきである。しかしその人がこうした課税が適切でないか公正でないと判断して,学者としてその考えを公表することは,市民としての義務に反するものではない。

⑮教会の牧師も,キリスト教の教義を学んでいる者たちや教区の信徒には,自分が所属する教会の定めた信条にしたがって講話を行う責務がある。それを条件として雇われたからだ。しかしこの牧師が学者として,教会の信条に含まれる問題点について慎重に検討したすべての考えを,善意のもとで公衆に発表し,キリスト教の組織と教会を改善する提案を示すことは,まったく自由なことであるだけではなく,一つの任務でもある。良心が咎(とが)めるようなことではないのである。

⑯教会の仕事を担う牧師の仕事を遂行する際には,教会の定めにしたがって,自分の名ではなく教会の名のもとで語らねばならない。自分の考えにもとづいて教える自由な権限はない。牧師は,「わたしたちの教会ではしかじかのことを教えています」とか「教会は教義の証明のために,これを証拠として使っています」と語るだろう。そして自分では確信をもって支持できないとしても,教える義務があると判断すれば,教区の信者たちに実践的に役立つと思えるすべての教義を活用するだろう。こうした教えのうちに真理が潜んでいる可能性も否定できないからであるし,内面的な宗教生活に矛盾するものがそこには含まれていないからである。もしも矛盾するものが含まれていると考えるならば,牧師としての職をつづけることはできないはずであり,職を辞すべきなのである。

⑰だから教会から任命された牧師が,教区の信者たちを前にして理性を行使するのは,私的な利用にすぎない。教区の集まりは,それがどれほど大規模なものであっても,内輪の集まりにすぎないからだ。この理性の私的な利用の場合には,牧師は自由ではないし,他者から委託された任務を遂行しているのだから,自由であることは許されない。ところが同じ牧師が学者として,本来の意味での公衆に,すなわち世界に向かって文章を発表し,語りかけるときには,理性を公的に利用する聖職者として行動しているのであり,みずからの理性を利用し,独自の人格として語りかける無制約的な自由を享受するのである。公衆の後見人である聖職者が,宗教の問題に関して,みずからも未成年であるべきだと考えるのは不条理なことだ。こうした不条理な考え方は,その他の不条理を永続させる結果をもたらすだけなのだ。
出典:イマヌエル・カント,2006年,「啓蒙とは何か」,『永遠平和のために 啓蒙とは何か』所収,中山元訳,光文社(原著は1784年),注はすべて省略した。

問1 本文の主張を200字以内の日本語で要約しなさい。

問2 問1で要約した主張に対する論理的な反論を200字以内の日本語で述べなさい。

問3 問1と問2を踏まえた上で,あなたはどちらの立場に立つか表明し,それを現代の具体的な事例をあげながら300字以内の日本語で展開しなさい。
カント.png


(2) 考え方

問1
項目を立てて、項目ごとにまとめる。

◆啓蒙の定義
・啓蒙とは人間が,みずから招いた未成年の状態から抜けでること
・未成年の状態とは,他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということ
・啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば。それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

◆未成年の利点
・ほとんどの人間は,自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年),他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに,死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僣称(せんしょう)したがる人々も跡を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも,未成年の状態にとどまっているのは,なんとも楽なことだからだ。
・そしてすべての女性を含む多くの人々は,未成年の状態から抜けだすための一歩を踏みだすことは困難で,きわめて危険なことだと考えるようになっている。しかしそれは後見人を気取る人々,なんともご親切なことに他人を監督するという仕事をひきうけた人々がまさに目指していることなのだ。

◆未成年状態から抜けだせない理由
・だからどんな人にとっても,未成年の状態がまるで生まれつきのものであるかのようになっていて,ここから抜けだすのが,きわめて困難になっているのである。この未成年状態はあまりに楽なので,自分で理性を行使することなど,とてもできないのだ。それに人々は,理性を使う訓練すら,うけていない。そして人々をつねにこうした未成年の状態においておくために,さまざまな法規や決まりごとが設けられている。これらは自然が人間に与えた理性という能力を使用させるために(というよりも誤用させるために)用意された仕掛けであり,人間が自分の足で歩くのを妨げる足枷なのだ。
・だれかがこの足枷を投げ捨てたとしてみよう。その人は,自由に動くことに慣れていないので,ごく小さな溝を飛び越すにも,足がふらついてしまうだろう。だから自分の精神をみずから鍛えて,未成年状態から抜けだすことに成功し,しっかりと歩むことのできた人は,ごくわずかなのである。

◆公衆の啓蒙
・このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが,公衆がみずからを啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば,公衆が未成年状態から抜けだすのは,ほとんど避けられないことなのである。というのも,公衆のうちにはつねに自分で考えることをする人が,わずかながらいるし,後見人を自称する人々のうちにも,こうした人がいるからである。このような人々は,みずからの力で未成年状態の(くびき)を投げ捨てて,だれにでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めてゆき,理性をもってこの信念に敬意を払う精神を周囲に広めていくのだ。
・それまで後見人たちによってこの(くびき)のもとにおかれていた公衆は,みずからは啓蒙する能力のない後見人たちに唆(そそのか)されると,みずからをこの(くびき)のもとにとどまらせるようにと,後見人たちに迫ることすらあるのである。
・先入観は,それを植えつけた人々にも,そもそもこうした先入観を作りだした人々にも,いわば復讐するのである。こうして公衆の啓蒙には長い時間がかかることになる。

◆理性の公的な利用と私的な利用
・ところが公衆を啓蒙するには,自由がありさえすればよいのだ。
・自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。
・しかし啓蒙を妨げているのは,どのような制約だろうか。そしてどのような制約であれば,啓蒙を妨げることなく,むしろ促進することができるのだろうか。この問いにはこう答えよう。人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない,理性の公的な利用だけが,人間に啓蒙をもたらすことができるのである。

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(3)解答例


問1
啓蒙とは人間が他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない未成年の状態から抜け出ることである。人間の怠慢と臆病が原因で抜け出せないので,自ら理性を使って知る勇気をもつことが肝要である。公衆のうちにいる,自分で考える人が自ら考える使命と固有の価値があるという信念を広めてゆく。公衆を啓蒙するには自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由がありさえすれば,人間に啓蒙をもたらすことができる。
(200字)
問2
啓蒙とは人間が他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない未成年の状態とカントは定義し、自分で考える人が自ら考える使命と固有の価値があるという信念を広めてゆくことで、公衆は未成年の状態から抜け出るとするが、まさにこうした事態こそが公衆が他人の指示を仰ぐことになり、定義と矛盾する。カントの定義を忠実に踏まえて人間が未成年の状態から脱するには公衆が自らを啓蒙しなければならない。(192字)
問3
私は問2の立場でカントに反対する。現代社会で「自分で考える人」とは大学の教員や評論家等の知識人や経営者が代表的である。前者は情報化が進展した現代では公衆に対する影響力を失っている。後者は労働者の支配権を掌握し労働者に対して指示を出し、これに従わない労働者は解雇される。物理空間において自分の理性を公的に使用する自由は保障されていない。ネット空間において自分の理性を公的に使用する自由が保たれているが、大多数のユーザーは理性ではなく感情に突き動かされて書き込みをし、自らの理性ではなく、他のユーザーの意見に流され、同調しているのが実情である。以上より、人間に啓蒙をもたらすことは限りなく困難である。(298字)

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