マリオ

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最近任天堂の夢ばかり見る。マリオを3dでクリグリ動かしていて、まだシェーダー等が入っていないもんだからベッタベタの汚いマリオ動かしている夢を見ている。私は将来任天堂にでも入るのか、私がマリオのゲームを将来しているだけなのか。しかしオリガミキングの絵面ではないのだ。どちらかというとマリオ64の頃の彩度高めの感じである。正夢だとすると私は任天堂に受かるかもしれない(食い気味に)

ダンガンロンパ2で七海ちゃんが死んだあたりまで見てしまった。七海ちゃん字・・・・・・めちゃくちゃ汚いね・・・。頭いい人は字が汚いっていう理由なのか、七海ちゃんは何かしらの教育を受けなかった絶望少女だったのか七海ちゃんの過去が気になる所である。ダンガンロンパ2、今考えてみるとめちゃくちゃ濃厚なキャラでできていたのだなと思う。最後まで命を張り倒したガンダムや、誰かにかまってもらう為なら文字通りなんでもする罪木。なんていいメンツなのだろうかと惚れ惚れする。

デスゲームはキャラクターの濃さで全てが決まると言っていいだろう。モブが死んでもなんとも思わないが、生き様を通したキャラが死んでいくのは悲しいものである。後死に方のバリエーションなんかがいい感じである。デスゲームを昔は毛嫌いしていた。漫画のデスゲームはモブのようなモブが死んでいくのでなんとも思わなかったのだ。今は考えを改めた。デスゲームはいい。最高だ。要は書き手によるのだ。書き手がなんとなくで子供騙しに作ったデスゲームなんかは面白いわけがないのだ。ファンタジーもSFも時代劇も時代遅れといくら言われようが全てはこの一言

”作家による”

この一言で全て片付いてしまうのだ。ふふふ。可能性は無限大じゃないか・・・!!
余談だが、声の形を見た。声の形は普通にクズしかいないが、クズほどいいキャラをしているもんだなと思えるから不思議だ。ほんと、顔がいいだけのクズばかりである。ダメンズウォーカーなのかもしれない。全員自己中なところが好きである。私に似ていて好きである。もしもこの自己中な所が作家に似ていると思うとあまりにあんまりでゾクゾクしてしまう。声の形は背景が神なのでもう少し映画版では背景に頑張ってもらいたかったのは否めないがいい作品だった。

私はろう者に対して差別するだろうか。小学校の私なら確実に石田と同じことをしていただろう。その子の補聴器が高額なのも知らないし、その子にも家族があるのを想像できないからだ。今の私なら、社会人の私なら差別こそしないが・・・いや、差別するだろう。でもろう者限定の話ではない。経済活動に参加できなかった全ての生き物に対して”労働の苦しみも知らないくせに”と恨み言の一つや二つは吐くという意味でだ。なぜなら私もまた弱い生き物だからだ。”こんなに自分が頑張っているのに”という承認欲求に加えて”自分だけが被害者”かのような社会人生活を「普通」と認識して生きていかなくてはならない。それを認識するということは「異常」を認識するのと同じである。多様性を認めず、異常者を排外する行為は、”非情な普通”を受け入れる人間にとっては当たり前の行為である。それはろう者だから差別するのではない。小さな範囲から始まるのだ。”この人は同じブランドのバッグを買わない”や、”この人は同じ人を嫌いになってくれない”や、”この人は共通の趣味がない”など、それが大きくなれば差別になるし、小さくなれば気づかれない。ただそれだけの話なのだ。

自己中は私だけではない。簡単な話、pairsを覗けばわかることだ。自分では”恋愛工学に基づいている”と言いながらくだらない”直結主義”になっている男が女がどれだけいようか。pairsに電子工作を趣味にしてるメーカーの男なんかは居ない。投資をしてる人間なんて居ない。要は肉棒の肉穴の代替品として男女を欲しがっているだけなので表面の情報だけ晒せばそれでいいのである。将来性なんてあったモンじゃないしpairsは苦手である。だからと言って合コンに参加してもそのような男は現れないことを私は知っている。そんな陰鬱な男は既に恋人を作ってしまっているもんである。燃やしたい、この世界を。

全然関係のない話になってしまった。えっと・・・モテない話をしていたんだっけな?

おわり


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