《わが心の飲み屋》

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コラム
いまでは少なくなってしまったが、どこの町にも仕事帰りにちょいと一杯飲みに行くサラリーマン御用達の飲み屋があると思う。
僕の知っているその店は、東京の郊外で工場が立ち並ぶ町の、あまりにぎやかとは言えない商店街にある。夕方になると自転車屋がある路地の古ぼけた赤ちょうちんがぶらさがった店から、焼き鳥の焼けるあのうまそうなにおいが辺りに漂っている。その焼き鳥屋ののれんをくぐると、五人掛けカウンターと四人用の座卓が二つというちっぽけな店に、ホワイトカラーのサラリーマンが集まっているのが目に入る。狭い店だが壁には商売繁盛のための神棚があったり、泥棒逮捕に協力したとして賞された表彰状や、長年の営業を称えて市長から贈られた感謝状が自慢げに飾られているが、それに目を向けるお客はいない。

その店は、町内の噂話なら何でも知っているという話好きで有名なおばあさん(常連客からは、ばあさんと呼ばれている)と、パチンコ、競輪、ボートレースなどギャンブル好きで、左肩には桜の花の刺青が二つ入った元チンピラというおじいさん(こちらもじいさんと呼ばれている)とで営まれている。

本物の炭火で焼かれる焼き鳥は、トリ、カシラ、ハツ、タン、レバー、のどれをとっても肉が大きく、肉、肉、ねぎ、肉で串刺されている。「焼き鳥はやっぱり塩だよ」と言う人も、ここではタレにしたほうがいいかもしれない。ばあさん秘伝のタレはちょっぴり甘くこってり醤油味なので、焼き鳥だけでなく市販されているうなぎの蒲焼にそのタレをかけたらとてもうまかったとか、ごはんにそのタレだけを食べるという熱烈なファンがいるくらい、あっぱれなお味なのだ。隠し味は決して教えてくれないが、何でも元種は30年前からのものらしい。

その日の仕入れ具合で具が替わるおでんだって負けていない。昨日仕込んだであろうおでん種は、ダシの効いた汁がたっぷり染み込んでいて、「食べ時はいまだ」と言っている。豆腐とバラ肉を、にんにくと醤油味の汁で煮込んだだけの肉豆腐も、ビールにぴったりと多くの愛好家が言っている。

驚きなのは、店が混んでいると常連客は「ばあさん、ビール二本もらうよ!」と言って、自分たちで店の外の冷蔵庫からビールを持ってくるのだ。そのときばあさんは、一言「ああ」というだけ。お客がそこまでやってくれるのだ。それでも手が足りないときは、隣に住む小学生の孫が借り出されることになる。その男の子がばあさんの代わりにお客さんのお勘定を計算するのだ。(ばあさんは小学一年までしか行ってないらしく、細かい計算が得意ではないようだ。ましてやレジスターなどが使えるわけがなく、そのためにかなりのどんぶり勘定でお代をもらうこともある。)お客のほうとしてみれば、思っていたよりもずっと安いので、「ばあさん、これでいいの?」という客もいるが、誰も安くて文句は言わない。

そのじいさん、ばあさん(私の祖父母)の店、焼き鳥屋「鳥鈴」は、いまから十数年前、僕がまだお酒の味を知らないうちに店を閉じました。そして間もなく祖父母は他界しました。
いまでは自転車預かり所となり、以前そこが焼き鳥屋だったことを知る人はほとんどいなくなってしまいました。でも一歩店に足を踏み入れると、焼き鳥の焼けるあのいい匂いがしてくるような気がして、懐かしさがこみ上げてきます。
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