ある人のブログにこんなことが書いてありました。
「人の評価やお金等を得ることだけに執着する人生を生きる」
これが質の低い人生だそうです。
そして、
「自分という人間の、心の奥に存在する、ありのままの自分の想いを大切にして、その想いに正直に生きる」
これが質の高い人生だそうです。
なるほど。
考え方は人それぞれなので結構だと思います。
飛び抜けた独創性があるとは思いませんが。
それはいいとして、私は以下のコメントをしました。
「質の高い人生も、質の低い人生も、死ぬときは大した違いはないのではありませんか。
死に臨んで質の高い人生だったと自己満足して何か意味があるのでしょうか。
私は平均寿命から見てあと10年も生きられないと思いますが、もう人生の質には頓着しないですね」
これに対する返事はなかったのですが、これもまあいいでしょう。
答えにくいことは間違いありませんから。
ただ、このコメントが本当に最近の私の人生に対する考え方なんですね。
誰が見ても素晴らしい人生を送ってきた偉大な人が100歳まで生きて大往生する。
みんなに褒めたたえられ、その死は心から惜しまれます。
これに対して、人に迷惑ばかりかけてきて、しかしなぜか長生きで100歳まで生きた後、一人で寂しく惨めな最後を迎える。
普通の人は前者のほうを選ぶでしょう。
死ぬときも本人は大満足で、悔やむことなんかまったくない。
後者は、一人ぽっちで誰にも看取られず、後悔にさいなまれながらもがき死んでいく。
でも、死ぬときに満足しようが、後悔しようが、死んでしまえばどっちにしても意味はないでしょう。
いずれの場合も無に帰るだけです。
どんなに偉大な人でも、死ねば無に帰ります。
それではあまりにも残念といういうか、虚しいので、死後の世界といった考えが生まれ、宗教ができたのだと思います。
私は前からいっていますが、厳しい修行を数十年も重ねてきて、悟りを開いたとして、それが何になるんだろうと考えています。
死ぬときに悟った頭で死を従容として受け入れたとしてもただそれだけのことです。
他の精神修養も同じことですね。
結局はただの自己満足でしかない。
まあ本人がそれでよければ他人が口を出すことではありませんが。
ひょっとしたら他人も褒めたたえてくれるかも知れません。
素晴らしい大往生だとか。
しかし、死に方を褒められても、死んだ人間にとって何か意味があるとは思えません。
とはいえ、こう書いてきたからといって、無茶苦茶な生き方をしてもいいとは考えていません。
やはりさまざまなしがらみがありますから、それを無視することはできないでしょう。
大体、好きなように生きようと思っても、世間が許してくれません。
無理に自由に生きようとすると、必ずさらに不自由な生活を強いられることになります。
ですから、今は、できる範囲の中で、無理をせずに適当に流されて生きていけたらと思っています。
どうせそれほど長い時間ではないですから。
冒頭の話に戻ると、私も若いころはいろいろと考えることもありましたが、質の高い人生、質の低い人生なんていう考え方にはもうこだわらなくなったということです。
では