見失ってしまったそこにある幸せ

記事
コラム
 私たちは気をそらされて、不自然なことに夢中になっている。お金、名声、権力にだ。小鳥の歌を聴いたとしてもあなたにお金が入るわけではない。小鳥の歌を聴いたとしてもあなたに権力や名声が入るわけでもない。蝶を観察したとしても、あなたが経済的に、政治的に、社会的に助かるわけではない。こうしたことは利益には結びつかない--しかし、これらのことはあなたを幸せにする。
 本物の人間は自分を幸せにしてくれるものと一緒にいる勇気を持っている。たとえ彼が貧乏のままだとしても、彼は貧乏のままでいる。彼はそれに何の不満もなく、彼は何の恨みも持っていない。彼は言う。「私は自分の道を選んだのだ。--私は鳥を、蝶を花を選んだのだ。私はお金持ちにはなれない。それでOKだ!私は幸せだから豊かだ」しかし、人間は倒錯してしまった。
 私は次の話を読んでいた。

 テッドおじさんはもう何時間も、川ぶちでつりざおを持って座っていたが、一向に引きがなかった。ビールを何本か開けて飲んだのと、暑い太陽の日差しのために、彼はうつらうつらしていた。元気の良い魚がかかって、糸を引っ張り、彼を目覚めさせたとき、彼は全くその用意ができていなかった。彼はバランスを完全に失って、目が覚める前に、川の中に落ちてしまった。
 一人の人間が興味を持ってその一部始終を見ていた。その男が、やっとのことで水から這い上がったとき、少年は父親に向かって聞いた。「お父さん、あの男の人は魚を釣っているの?それとも、魚があの人を釣ったの?」

 人間は完全に本末転倒している。魚があなたを釣って、引っ張り込んでいる。あなたが魚を釣っているのではない。あなたはお金をどこかで見つけると、もはや自分自身ではいられない。どこであれ、あなたが権力や名声を求めるとき、あなたはもはや自分自身ではない。あなたはすぐに何もかも忘れてしまう--あなたはあなたの生に本来備わっている価値、あなたの幸せ、あなたの喜び、あなたの歓喜をわすれてしまう。あなたは常に外側にある何かを選択し、それを内側にあるものと交換してしまう。あなたは外側に何かを得、内側のものを失う。
 しかし、あなたは何をしようとしているのかね? たとえあなたが足元に世界全体を獲得したとしても、自分自身を失ってしまったとしたら、たとえあなたが世界のすべての財産を征服したとしても、自分の中にある宝物を失ってしまったとしたら、あなたはあなたの得た財産をどうしようというのかね? これは悲惨だ。

~ Joy 喜び OSHO 角川書店 より



 この様になってしまうのは、まず私たちが「幸せになる条件」を探ろうとし、これだと思うものを決めてしまうからだ。
 これが決まってしまうと、その後、彼は現実を、社会を、ありのままに見ることを捨ててしまう。ありのままに見る能力を失ってしまうのだ。
 彼らが見るものは、「幸せになる条件」と決めてしまったことに囚われ、それ以外にも見えている「あるがまま」は、知覚上も認識上も、もはや有象無象の自分には関係ないものとしてしか映らなくなる。

 そうやって、あなたは幸せな時間や、味わう気になれば十分堪能できるはずの出来事を自らのがしてしまう。それらは、もはやあなたの目標からすれば、邪魔者でしかなくなっているのだ。

 あなたは幸せな時間を堪能し、ゆっくり過ごしたいと思ってはいるが、それはあなたの作り上げた「幸せになる条件」を達成するまでは、やって来ないし、来るはずもなく、来るべきでないものだと思っている。
 だからあなたは、そこにあるものを「あるがまま」に見ようとする能力を放棄し、来ない来ないと言いながら、幸せを見逃し続けるのだ。

「〇〇はこれの後でやってくるものだ!」「これを達成するまでは幸せにはなれない(なってはいけない)」という思い込みが、「幸せになる条件」という足かせが、あなたを本末転倒に陥らせてしまった。

もう一度、信念を捨て、こだわりを捨て、もう一度「あるがまま」を見直してみよう。

あなたが決めつけてしまった、不幸な状況や出来事、時間をもう一度見直してみよう。
あなたが決めつけてしまった、幸せなゴールやそのときこそ自分には資格が得られると思っている条件という足かせを捨ててしまうのだ。

そうすれば、いままでのあなたが、これは悲しむべきときだ、怒りを感じるときだ、と条件反射で決めつけていた時間も、同時に宝物もそこに存在していたことに気づくだろう。

あなたは、実は、そのことにもうすうす気づいていたのだから。

サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す