あたしは社畜であんたは天狗

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 人間はなんでもすぐ忘れてしまう。
 この世の春を謳歌し、溢れるカネに任せて、自分たちにできないことはなにもない、この繁栄は永遠に続くのだと、信じて疑っていなかったのが、つい二十年ちょっと前くらいである。
 その頃、オフィス街では五時きっかりになると大量に人が吐き出され、そいつらはあちこちの繁華街に我先にと遊びに繰り出していたものだ。
 だが、今はどうだ。
 五時くらいでは、誰も仕事から手を放すことができない。
 最低あと一時間、場合によっては三時間以上、話に聞くブラックとかいうのに捕まると、帰宅自体がぜいたく品だといわんばかりに……連中は、働かされる。
 夜陰を圧する煌々としたオフィス街の明かりを、あたしは上空はるかから見下ろす。
 つまらなくなったな、と夜風に独り言ちる。
 こんなすり減った連中を、ちょっと前みたいにからかっても、余裕がないせいか、そう面白い反応が返ってくることはまれで。
 第一、覇気がない、覇気が。
 明日にも自分の国が滅亡するかのような悲観に苛まれたニンゲンどもをさらにいたぶって悦に入るほど、あたしは悪趣味じゃないんだ。
 それでもまあ、ニンゲンにちょっかいを出すのがやめられないのが、あたしの性分で。
 せめて、何か面白い反応を返してくれる奴を求めて、虹色の翼をはばたかせる。
 まあ、この翼に限らず、あたしが望まない限り、ニンゲンにはあたしの姿は見えないんだけど。
 夜風に逆らうように上空を流していると、ふと、眼下に気になる光景を見つけた。
 背中を丸めて急ぎ足の、一人の若い女。
 それだけなら、比較的マシな時間に帰路に就くことができた社畜……というだけだろう。
 だが、その背後。
 夜陰に溶け込む、濃い茶色のスウェットの上下の男が、ひたひたとその女を尾けていた。
 苦いものがこみ上げた。
 次いで猛烈な怒り。
 音もなく翼を駆って、急降下した矢先に、男が暗い路地で女にとびかかった。
 悲鳴が聞こえたが、男が口を――
 一撃。
 あたしは天狗の怪力で、男の後頭部に一撃加えた。
 死なないように手加減はしたが、死んでも別に良かったような。
 昏倒した男の下敷きになった女を、あたしは地面に立って引っ張り出した。
「おおい。大丈夫かい?」
 バレッタでセミロングの髪をまとめ、くりっとした目の、割とかわいい女だった。
 あたしの姿を見ると、現実感を失った目でぽかんと口を開けた。
 まあ、中世みたいな恰好の、背中に翼の生えた女を見たら、普通の人間は誰だってそうなる。
「……先に名乗っておくとあたしは天狗だ。名前は彩雲(あやぐも)」
 ひょえ!? と女の口から妙な声が漏れた。
 街灯の下に引っ張ってきたから、あたしの姿はくっきり見えているはずだ。
 ……だからこその、反応だろうが。
「お前、才のある人間だな? だが運向きが良くない」
 あたしは一方的に喋った。
 こういう時に、相手の話を聞きつつ……などと悠長なことをしていては、事態は進まないと、経験上――それこそ三百年以上の経験だ――で知っている。
「したがって、あたしがたった今からお前の面倒を見て、うだつが上がるようにしてやる。ありがたく思え」
 はえ? はえ? はえ???
 と、その女は奇妙な声を繰り返した。
 ま、そのうち受け入れるだろう。
「お前、名前は?」
 そう尋ねられた時、一瞬ぽかんとしてから、女はおずおずと口にした。
「東雲(しののめ)です。東雲弓香(しののめゆみか)……」
「弓香か。よし、今からお前の家に付き合ってやる。家がどこか頭に思い浮かべろ」
 眉をひん曲げて怪訝な顔をした弓香だったが、きっかり頭には古びた集合住宅のイメージが浮かんでいた。
 あたしは弓香の手を取り、「跳んだ」。
「え……ええ……? あれ……!?」
 いきなり自宅の電気の点いていない玄関に出て、弓香は頓狂な声を上げた。
「おい、さっさと部屋着に着替えてこい。風呂にでも先に入るか? 私がまともな夕食を作ってやるから、ありがたく思え」
 ちょっとした神通力で用意した食材の入った袋を掲げながら、あたしは一方的に命令した。
 ちなみに作る予定のメニューはビーフシチューとシーザーズサラダだ。
 あたしの神通力によると、こいつは最近ロクなもんを食ってない。
 コンビニでかろうじて売れ残った弁当とか、備蓄のレトルト食品とか。
 とにかく、栄養的によろしくないものばかりだ。
 弓香を風呂に蹴りこみ、その間に手早く夕食の支度をする。
 夕食というより夜食といった方がいい時間だが、この際そんなことは言ってられない。
 まだ現実に追いついていない顔の弓香が風呂から上がってきた時には、夕食の用意は万端整っていた。
「あの……彩雲、さん」
 おずおずと、弓香が切り出した。
「なんで、あの……私の面倒を見てくれる、んですか?」
「ん? さっきも言わなかったか? これが私の趣味なのだ。埋もれた才能ある人間の面倒を見て、うだつが上がるようにしてやるのがな?」
 そう言われて、弓香はきょとんとしたようだった。
「埋もれた……才能……」
「我ら天狗には、そういうのがわかる。そういう奴の芽を出させるのが趣味っていう天狗は昔から多いよ。……というわけで、あたしが今日から面倒を見てやる。あたしが来たからには、それなりのことがあるはずだ」
 人外ってのは、そういうもんだ。
 横柄に言い渡すと、弓香はまだ納得いかないのか「はあ」と間抜けな声を漏らし、次いで何気なく持っていたスマホに目を落とした。
 見る間に、その顔色が変わる。
「……イラスト上げてたサイトにメッセージ……ゲーム会社……?」
 弓香が口にしたのは、今のご時世そこそこ有名なゲーム会社だった。
「次のゲームのイラストレーターに起用したい……えええ!?」
 悲鳴じみた声に、私は笑った。
「あたしが来たからには、そういうことがあるって言ったろ? ま、それより食べろ、冷めないうちにな?」
 無論、弓香はそれどころではなく。
 何度もメールを確認しては感激に耐えかねて天を仰ぐ様子を、私は気持ちよさそうに見ていた。
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