経歴

経歴

  • 小売業 / 事務、経理、WEBデザイナー 2004年1月 2012年3月

    小学校はイジメを受けて不登校。中学校は担任教師とバチバチにやりあって不登校。足掛け4年くらい引きこもっていたけれど、当時はまだ(田舎では)珍しかったPCが扱えたことから仕事をげっと。中卒労働者に。 入社何年目だったか、印象的な同僚がいた。仕事はめちゃめちゃ出来るのに、何故か転職回数が以上に多い人。何か問題があるのだろうか? 礼儀正しくて、仕事もできて、何も問題がなさそうに見える。だけど、一週間も経つとみんなわかった。彼女、明らかにおかしい。立っていても、話している途中でも、突然意識を無くす。寝てしまうんだ。今は知っている人も多いだろうけど、当時は彼女自身も知らなかった病気。それは「ナルコレプシー」。突然、強い眠気におそわれ眠り込んでしまう睡眠障害だった。 有能なのに病気のせいで社会生活がままならないなんて、どんな気持ちなんだろう。辞めていく彼女の背中に、言葉に出来ない感情を抱いたことを覚えている。 そして彼女は、私に劣等感という感情も残していった。 当時の私は自己肯定感の低い人間ではあったが、不思議と劣等感という感情は抱いたことがなかった。多分、一人っ子で他人と比べられることがなく、塾での競争では勝ち組(偏差値70越え)だったからだと思う。 思えば、私のもう一つの苦しみはこの時から始まっていたんだ。 ※休職したり復職したりを繰り返していたので、在籍期間はおおよそです。

  • 小売業 / 事務、経理、WEBデザイナー 2010年4月 2012年3月

    脱引きこもりをして復職。(繰り返しますが、在職期間は適当です) しばらく休んでいる間に事業規模が縮小し同僚が辞め、担当する(せざるを得ない)仕事の幅がずいぶん増えていた。文句はない。人と仕事を分け合うよりかは、自分ひとりでやった方がペースが保てるから。 仕事の内容に文句はなかったけれど、なんだか中卒の肩書が恥ずかしく感じるように…。 大学へ行きたい!と思うようにもなり、大学入学を目指して独学で勉強をはじめるように。 仕事と勉強、二足の草鞋です。この時は、我ながら頑張っていたと思う。

  • 夜のお仕事 2021年1月 2023年1月

    一時期、夜のお仕事をしていました。 女という生き物を売り物にする仕事。昼の仕事が馬鹿らしくなるほど稼げた。単純にうれしかった。もっともっと稼ぎたくて、どうすればお客様に喜んでもらえるのだろう?と日々頭を悩ませて、着実に売り上げを上げて、積みあがっていく通帳の残高に歓喜した。 二十歳そこそこだった私は、とても単純だった。高い値段で売れれば、それが自分の価値だと、自分には価値があるのだと思っていた。売れていたのは「若さ」という付加価値に過ぎなかったのに。あるいは…。 40を間近に迎えた私は、悩んでいる。 一度は「女」を売るなんて下劣だ、そんなものに価値なんかないと切り捨てたけど、「限りあるもの」に高値を付けて売るのはそんなに悪いことだろうか? むしろ賢いことなのでは? と思わなくもない。 いずれにせよ、この時稼いだお金は大学生活を送るうえで、大きな助けになってくれた。後悔はしていない。

  • 大学生 / 商学部/法学部 2012年4月 2016年3月

    最初に目指していたのは名大(名古屋国立大学)だった。だけど、どうしても数学が解らなかった。 わたしは大学受験も独学だったから、わからない所があっても尋ねられる人もおらず、当時はオンライン授業もまだまだ発展してなくて、どうにもならなかった。参考書で調べればいいじゃん、と思うかもしれないけど、わからないところを調べるために参考書を買っても、その参考書にも必ずわからないところがあって、そのわからないところを調べるためにまた別の参考書を…以下エンドレス。どうしても壁を乗り越えられなくて、結局私立しか行けないなってわかった。今思えば、「ああ、そういうことね」ってわかるんだけど、当時は本当に悔しかった…。 大学のどこに行くか、決め手になったのはMDS制度だった。MDS制度とは、複数学部専攻制度。所定の審査を経れば、二つの学部で学べるシステムが関西学院にはあって、そこに惹かれて某大学を目指すことに決めた。 他の大学は一切受けず、志望校1本! 見事合格。商学部へ入学しました。ダブルディグリーでは法学部へ。 就活は……見事に失敗しました。途中までは順調だったんですけどね? 書類選考で落とされたことはないし、たいていは二次選考のご案内を頂くし…。でもね、想像して疲れちゃったんです。 細かいルールが定められた社会の中で、これから何十年と生きていく未来像に。 息が詰まって吐きそうになる未来像を獲得するための就活に、うんざりして、疲れて、鬱になって、脱落しました。 私は4年の前期で卒業に必要な単位は全て取得していたので、後期は引きこもり生活を送りました。 気持ちは「世界よ滅べ」 しかし世界に滅びはやってこなかったので、やむなく実家へリターン…。 ちなみに大学の一般教養で習った「マズローの欲求5段階説」は私の人生を変えました。この話はまたどこかで!

  • 某生命保険会社 / 事務員 2016年5月 2016年7月

    学歴の力を知る。 5月なんて半端な時期であったにも関わらず、最終学歴のおかげで職を得る。 人事の人から「対人関係が地獄のような職場です」と事前に警告された。まあ、何となく想像はつく。だって、いわゆる「保険のおばちゃん」たちにお仕えする仕事でしょ? 推して知るべし、だよね。 いろんな人から「大変だと思うよ」「とにかく頑張って」とネガティブな雰囲気を漂わせながら応援されるも、わたし自身はあんまり心配していない。だって、社交スキルは低くないって自信があったから。 事実、わたしは年若いお姉さんとは仲良くおしゃべりをし、気難しいと評判の老婦人には気に入ってもらうことが出来た。 人に嫌われないコツ、好かれるコツ、派閥ができている中でも上手くわたり歩いていくコツ。意識していれば、そんなに難しいことじゃあ、ない。 対人関係は快適な職場だったけど、3カ月ともたずに離職した。 原因を一言で言うならば、能力不足。生保というのは曲がりなりにも金融機関だから、仕事の何もかもに厳重な手続きが定められているのだけど、わたしはそれを守れなかった。守っているつもりだったけど、守れなかった。 なぜできないのか毎日悩んで、どうしたら出来るようになるのか毎日考えて、ミスは多少減っても完璧にはならず、いつも目の裏側に無能の二文字がちらついた。 その当時は言葉さえ知らなかったけど、後になって「注意欠如型のADHD」だという診断を受けて納得した。そりゃ、金融機関なんて向かないわ…。

  • 教育業界 / 集団塾講師、個別塾講師、家庭教師 2016年7月 現在

    アルバイトで塾講をしていた経験もあって、塾講に転職。塾講と一言で言っても、集団塾、個別、家庭教師、フリースクールの教師、いろいろやった。 いろいろやってみて、一番感動したのは、個別塾で中学1年から面倒見ていた子たちが、見事志望校の大学に合格していったこと。6年も教えていたから、本当に感動した。 やりがいを感じるのは、勉強が苦手だったり、不登校だったり、家庭に問題があったりと、何か抱えている子の助けになれた時。有名大学に合格させるのも、一つのやりがいではあるけれど、気持ちがぐっと入れ込んでしまうのは前者の方。 なので、最近はもっぱら「レールから落ちてしまった」生徒さんを教えています。レール、という表現はあまり好きではないけれど…、多くの人が選ぶ、中学に通って、高校に進学にする、という道を選べなかった生徒さんが、望む未来へ進めるようお手伝いをしています。

  • 執筆 2000年7月 現在

    読むこと、書くことをこよなく愛し、営利/非営利で文字を書いています。ジャンルは問わず、断続的に。 書ければ何でも良い感じ。読むことが出来ればそれだけで幸せ。 ただ、TwitterのようなSNSはあまり好きではありません。どうしても人と比べてしまったり、人に攻撃的になってしまうから。 心の平穏は、SNSの対極にあると思っています。