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音楽が終わった後で。。。。。10 〜AOR〜

Adult Oriented Rockの略なんですけどね。アダルトな音楽。。。。都会的で洗練された音楽とか、メロウな音楽(じゃ、メロウって何?)という表現をされてましたけど、ただこれは和製英語らしくて、本来アメリカでAORという言葉を使ったのはAlbum Oriented Rockというの先にあったようでして。こちらは単純にシングル志向の作品発表ではなく、アルバム単位で作品として提供していた人たちを指していたものらしい。で、日本的AORを意識するようになったのは田中康夫さんの「なんとなくクリスタル」の映画化だったのかなあ。映画は確か大コケした記憶があるのですけどね。かとうかずこさんの映画デビューだったかな。相手役がNASAというバンドの亀井登志夫さんだったかな。この映画のサントラが全編洋楽というもので、日本版のAORにビッタリという選曲だった。当時の時代背景と言えば「ハマトラ」と呼ばれる横浜発祥の女性版アイビーファッションで、その後都内のSHIPSとかボートハウスなどのロゴ入りのトレーナーを来て歩くといった流行があり、当時南青山にあったパイド・パイパー・ハウスはAORやウェストコーストサウンドなど通常の輸入レコード店とは一線を画した品揃えだった。このお店も「なんとなくクリスタル」に出てくる。で、映画のサントラ盤なんですけどね。Paul Davisの超名曲「I Go Crazy」やBoz Scaggs、TOTOなどの曲が使われており、そこからAOR=おしゃれな音楽という構図になってしまっていた。どこからどこまでがAORかというとまた論争になってしまうのだけど、今でもGary Be
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音楽が終わった後で。。。。。9 〜最も苦手なアイドル雑感〜

実はかなり音楽を聴いているという自負はあるのだが、最近のアイドルというものはさっぱり分からない。ちなみにわちきの子供の頃は新・三人娘(森昌子さん、山口百恵さん、桜田淳子さん)、新・御三家(西城秀樹さん、野口五郎さん、郷ひろみさん)だったのかなあ。特に新・三人娘を輩出した「スター誕生!」という番組からは岩崎宏美さん、岩崎良美さん、浅野裕子さん、片平なぎささん(ファンです今も)、石川さゆりさん、伊藤咲子さん、ピンクレディー、中森明菜さんもそうだったかな。兎に角「歌姫」という感じでどんどんアイドルが出てきた時代だった。ここで気が付かれた方もいらっしゃるかと思うけど、ピンクレディー以外はソロ歌手で、グループだとキャンディーズと男性はフォーリーブス辺りだった気がしています。時代が変わり始めたのはフジテレビが週末の深夜枠で始めたオールナイト・フジ。ここで「女子大生」ブームなるものが来て、半ば「素人芸」みたいな女の子たちがもてはやされた時代が来た。まあ実際には事務所に所属していた「玄人」もたくさん混ざっていましたが。彼女たちの勢いで、当時の老舗ラジオ番組「セイ・ヤング」が終了して、「ミスDJリクエストパレード」なる番組を始まった。またこの頃から、「女子大生」を売り物にした飲み屋や風俗も出てきた。当時、ご参戦された殿方は格好は女子大生。暗いところでは女子大生、よく見ると。。。。という経験をされたかもしれません。しかしその勢いは同じフジテレビの夕方の帯番組「夕やけニャンニャン」のスタート以後、高校生に主役の座を奪われた。この辺りから「秋元康」さんが構成作家から作詞家、その後プロデューサー的な仕事
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音楽が終わった後で。。。。。8 〜尾崎豊という孤独〜

彼を初めて観たのは新宿カワノビルのルイードだったと思う。まだ爆発的なヒットもなく、おそらく1stアルバムは最初数千枚程度のイニシャルしか切られてなかったはず。ストレートなロックとバラード。何よりも「色」がある歌に圧倒されたものだった。当時のルイードは後のヒットシンガーが目白押しだった。佐野元春さん、山下久美子さん、渡辺美里さん、白井貴子さん、バブルガム・ブラザーズ。「総立ち」という言葉は見出しになるくらいだった。ライブハウスの階下のブティックの天井の板が落下するといったエピソードもあった。そんな時期だった。彼はわちきの3歳年下。誕生日もほぼ同じだった。その後、深夜枠で「卒業」などのPVが流され始めて、彼の人気に火がついた。ライブハウスから渋公という階段を駆け上がり、あっという間にスターになった。「卒業」の歌詞を見て、どこか「告発」されているような気持ちになった。わちき達の世代から「荒れる学校」「校内暴力」があり、その後始末は全く出来ていない中で忸怩たる思いが残ったままだった。そこに「卒業」歌詞は痛烈なメッセージだった。その後、有明コロシアムの2days、覚醒剤で逮捕後の復活の東京ドームなどを観る機会があった。ステージを駆け巡る彼の姿はどこか悲壮感もあった。特にドームでの彼は痛々しくも感じてしまった。ふとあるミュージシャンのインタビュー記事を思い出した。「1万人以上の観客を前にして、この観衆が一気に自分に押し寄せてきたらどうしたらいいだろうかと思うことがあり、その恐怖感から1曲目を演奏し始めて、楽しそうに踊っている観客を見て拍子抜けしたというか、脱力してしまったことがある」間違っ
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音楽が終わった後で。。。。7 〜混沌の始まり〜

1980年12月8日。当時高校の期末試験(といっても全く勉強はせず、試験範囲も存じ上げなかったんですけど)の勉強のフリなるものを行なっていた時、おかんが階段を駆け上がってきた。「ビートルズの誰かが殺されたみたいだよ」と言ってきた。瞬間、当時モナコでギャンブル三昧だと伝えられていたリンゴ・スターが博打場でトラブったのかと思った。しかしテレビのニュースが伝えたのはジョン・レノンが射殺された。それもダゴタハウスの前でとのことだった。丁度ダブル・ファンタジーを発売し、ハウスハズバンドから音楽シーンに戻って来たばかりのことだった。2月か3月には武道館公演も決まっていたとのことで、「裏」でチケットをお願いしていただけにショックが大きかった。ホテルカリフォルニアよりもこちらの方が「ロックの終焉」と感じたものだった。この訃報から80年代の混沌が始まったと感じている。良い意味で取れば旧態のロックからの箍が外れたということで、新しいスタイルの音楽が始まったのかもしれない。悪い意味で取れば「イズム」がなくなって「商業」がメインになった「稼ぐための音楽」が多くなってきたと言われ始めた。「産業ロック」という名称も出て「売れる」ことを第一に考えたアルバムであって、作品自体のクォリティは高い。売れる要素がふんだんに盛り込まれた音楽という感じが当時の自分の感覚だった。良い意味の代表格は2ndブリティッシュ・ロックの対等だったのかもしれない。パンク、ニューウェイブに始まりありとあらゆる形態の新しいバンドを輩出しビートルズやストーンズが席巻して以来の全米チャートを荒らしまくったことだった。カルチャー・クラブのボー
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音楽が終わった後で。。。。。2

小学校6年の時、通学前の朝のひと時、当時TBSテレビの朝の情報番組「おはよう720」というのがあり、その中で世界中を旅するキャラバン隊のテーマとして流れた「ビューティフル・サンデー」ダニエル・ブーンさんの曲だった。キャラバン隊のメンバーには見城美枝子さんや当時TBSのアナウンサーだった五木田博之さんが担当されており、記憶が正しければ水越恵子さんも出演されていた。兎に角、この曲は流行った。初めて自分の小遣いで買った洋楽のシングルだった。ちなみにB面のスリーピーヘッドと言う曲も秀逸でした。この番組からはオリビア・ニュートンジョンの「カントリー・ロード」やブレッド&バターの「青い地平線」も使われていた。まだ英単語なんてさっぱり分からんと言うわちきも当時発音がカタカナ表記されていた英和辞典を弾きながら歌詞カードを覚えたものだった。不思議なことに未だに曲がかかると何となく歌えてしまう。これが洋楽への目覚めだったのかもしれない。当時はインターネットなどはもちろんなく音楽の情報源はもっぱらラジオだった。深夜放送も今のような形態ではなく、パーソナリティーとか言われていた「大人」が担当しており、中学になったばかりのわちきにとってはかなり背伸びをして聴き入っていた。AM放送がメインだったわちきがFM放送を聴き出し、エアチェック(今は死語か?)をするために当時数社から発売されていたFMの番組表と音楽情報を掲載してた雑誌を買い始めた頃だった。その中の一つが「週間FM」と言う雑誌だった。この雑誌のCMがFMでオンエアされるのだが、そのBGMがBeatlesのYesterdayだった。兎に角ショックだった
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