人は人を裁けるの?

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コラム
みなさん心地はいかがですか?
考えることに陥っていませんか?

頭で考えてるこのひとときも
私たちの命は完璧に育まれています。

安らぎのなかで。
その安らぎの心地を感じてみませんか?
すると、考えはただ起きてきているということが
浮き彫りになってくるでしょう。

今ここはただただ静かにあるなかで
頭だけが騒がしいということに・・・

ふと”裁き”ということが浮かびました。

人は人を裁けるのでしょうか・・・
本当にこの一瞬だけみて、善悪の判断ができるのでしょうか。

この春裁判員に選出される経験がありました。

精神的病を持っている言われると娘を殺害したという年老いた父親。

殺人は決して許されることではないかもしれませんが、
私たち人がそれを裁けるの?と
期間中も様々な議論が成されますが
最後まで、父親にも娘にもこのひとときだけではわからない
苦悩や心情があって、
私たちには裁けないのではないかと
意見し続けたのでした。

(裁判にならないですよね・・・)

その答えのようなものが
先日出会った『アメイジングジャーニー』
MBQK1918.JPG

という自費出版から広まったという映画の中にありました。

人には主観というものがあり
その小さな視点でしか判断ができない。

神という存在があるのだとしたら
全ての人を赦した視点の中で全体の中のそれを見ている。

赦しの視点。
裁きというのがあるのだとしたら
ある人がある人を殺すということがあるのだとしたら
ある人を裁く。
じゃあ、ある人のその親は?
それも同罪だというのならその親は?
かぎりがありません。

ある人も原因があっての結果なのですよね。
その原因はどこまでさかのぼればいいの?

刑を重くしなくても、
十分そのある人は罪を犯したことで
心は罰せられてるのではないか。

どれだけ見ないようにしたとしても
その闇は必ず心につきまとうだろう。

劇中の中で
”私たちは罰しない、罪自体が罰だから・・・”
そのような神の言葉がありました。

娘を殺害した父親も、30年という共に過ごした中で
計り知れない何かがあったのかもしれない。

その父親も育てられた親のもと何かを抱えていたのかもしれない・・・

刑は軽くても、実生活の中で自分自身のしたことの重みを
感じ、悔い
少しでも豊かな心で一生を終えれたら。。。

その時そんな風に感じていたのでした。

裁判官から実刑判決の最後に
裁判員の言葉を代弁していただけるのですが、

”自分のしたことを悔い、少しでも残りの人生を豊かなものとしてほしい”
そのような言葉で締めくくっていただくことができました。

人それぞれ考え方はさまざまですね。
何かを裁いている自身に気が付いたら
その”考え”は本当に正しいのだろうか・・・


いつも振り返ってみたいなと感じています。







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