中3物語/私の個人主義。ちゃんと個人主義。

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2022年4月7日
学習塾リバティ 木村友彦


 真・善・美。それから理。普遍性がある。でも、受け止め方は個人によって違う。どうなってるのかな。理がすべてを支配するならば、ウクライナは説明ができないじゃないか。
 西欧に起源をもつ個人主義は、キリスト教とセットになって発展してきたという経緯があるようだ。河合隼雄に学んだ。神の前の人間として、倫理の裏打ちをもっていたという。何につけても絶対の神の前で人間は死後に神の審判を受けるところまで支配されていたという。ルネサンスを経て人間の方が力をもつようになり、やがて「神は死んだ(ニーチェ)」のである。欧米の現代の混乱はそのことに尾を引いているというのが一般的な見方と考えてよいようだ。
 一方、日本では、近代になって宗教性のないままに、日本民族の習性のままに個人主義だけが輸入されたと河合隼雄は言う。現代の核家族にあるような日本の個人主義には、このような背景があると「私」は認識している。
 震災があっても何も語らない龍安寺の石庭はちょっとたりないと思う。人間なんだから嬉しいときは笑い、悲しいときは泣けば良い。さらさら流れる禅の流儀は「私」にはものたらない。お釈迦様は娑婆を苦しみと捉えて人々を救う教えを開いたというが、私に言わせれば、娑婆は楽しむべきところだ。人生は楽しむためにある。「私」はそう思う。
 では、倫理は?私の考える「個人主義」では<自由>のうちに倫理がある。自分が自由であるためには、他者を尊重しなければならないではないか。他者から認められずして自分の自由はない。これは仏教と同じで、私は自分のために自らに「修行」を課す。好きにさせてもらおう。
 自由と寛容が「私の個人主義」の骨格である。こんなことはだれかがもう言ったことだと思うが、私にとっては「私」が到達したこととして意味を持つ。ちゃんと個人主義をすると倫理性とか宗教性のある世界へ至ることができると考えている。
 これ。あくまで自己表明であって、他者に強いるつもりが全然ない。あなたはあなたの神にそえばそれで良い。そう思う。寛容の国。無宗教的な国。日本。もしかしたら遠い将来には<自由>の文化が根付かないかなと期待する。
 プーチンは他者の神を侵害しているところがいけない。人を殺すこと。それはもちろんいけないが、「私」の理屈は上述のようになっている。
 スラブ民族はどういう性質をもつか私には知識がない。しかし、腐敗したとはいえ、偉大な革命を起こした民族だ。きっといつかは「理」は通じるだろうと思う。それまで、私にできることは、教室で子どもたちの「個」を尊重すること。子どもたちと喜びを共有すること。
 「子どもの味方の大塩平八郎」は、侵害されてしまう「個」の味方だ。子どもだけが対象という訳ではないのである。

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