音楽が終わった後で。。。。。8 〜尾崎豊という孤独〜

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音声・音楽
彼を初めて観たのは新宿カワノビルのルイードだったと思う。
まだ爆発的なヒットもなく、おそらく1stアルバムは最初数千枚程度のイニシャルしか切られてなかったはず。
ストレートなロックとバラード。何よりも「色」がある歌に圧倒されたものだった。
当時のルイードは後のヒットシンガーが目白押しだった。佐野元春さん、山下久美子さん、渡辺美里さん、白井貴子さん、バブルガム・ブラザーズ。
「総立ち」という言葉は見出しになるくらいだった。ライブハウスの階下のブティックの天井の板が落下するといったエピソードもあった。

そんな時期だった。彼はわちきの3歳年下。誕生日もほぼ同じだった。

その後、深夜枠で「卒業」などのPVが流され始めて、彼の人気に火がついた。ライブハウスから渋公という階段を駆け上がり、あっという間にスターになった。

「卒業」の歌詞を見て、どこか「告発」されているような気持ちになった。わちき達の世代から「荒れる学校」「校内暴力」があり、その後始末は全く出来ていない中で忸怩たる思いが残ったままだった。そこに「卒業」歌詞は痛烈なメッセージだった。

その後、有明コロシアムの2days、覚醒剤で逮捕後の復活の東京ドームなどを観る機会があった。ステージを駆け巡る彼の姿はどこか悲壮感もあった。特にドームでの彼は痛々しくも感じてしまった。

ふとあるミュージシャンのインタビュー記事を思い出した。「1万人以上の観客を前にして、この観衆が一気に自分に押し寄せてきたらどうしたらいいだろうかと思うことがあり、その恐怖感から1曲目を演奏し始めて、楽しそうに踊っている観客を見て拍子抜けしたというか、脱力してしまったことがある」間違っていなければ吉田拓郎さんが記者の質問に答えたものだと思っている。
またテレビのインタビューで矢沢永吉さんが「今の若いミュージシャンで誰か会ってみたい人っていますか?」と聞かれ、暫く考えて「尾崎豊には会ってみたかったな、今はもう叶わないんだけど」と答えていた。

拓郎さんも矢沢さんとも大きな会場での修羅場はいくつも潜ってきた。両者ともいい意味で「客を裏切る」ことで上手く体をかわしていたようにも思える。

ところが彼は急激にとても早いスピードでカリスマ化という階段を駆け上がってしまった。そのプレッシャーはどれほどのものだったのだろうと思う。彼の「存在」という曲の歌詞に「受け止めよう」と連呼する部分がある。彼はきっとファンや取り巻きの全てを「受け止めて」しまったんじゃないかと思うことがある。

彼の死後、縁があって有明のライブのバックでキーボードを演奏されていた方とお話をさせていただける機会を得た。彼もバンド活動をしており、再始動のライブの際はクロコダイルで拝見した。とても楽しそうで、肩の力が抜けて、音で遊んでいるというような演奏だった。彼にこの感覚があればひょっとしたら違った景色が広がったのかもしれないと思っている。

とてつもないスピード感と、優しさの裏にある脆さが彼の魅力でもあった。
彼の死をどうこう論ずるつもりはない。ただ、ただもっと彼との時間を共有できればと思うし、年を重ねた彼がどのように過去の彼と対峙するのかを見たかったというのは本音だ。

「彼が彼であるために得たものは?失ったものは?」この答えは永遠になってしまった。。。。。

お後がよろしいようで。。。。
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