音楽が終わった後で。。。。。5 〜フィーバー!〜

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音声・音楽
ある映画が突如としてヒットして、周囲を巻き込んで大ブームになることがある。映画「サタデーナイト・フィーバー」は正しくその映画の典型だった。
ジョン・トラボルタの大出世作で、日本でも猫も杓子もディスコ!って感じだった。
当然の如く、わちきもディスコに行ったものだった。当時中学2年だったかな。親も放任し放題だったし、当時から同級生よりも大学生の兄やん、姉やんと遊んでいたので、一緒にディスコに繰り出した。
最初は新宿、カンタベリーハウス、ミモザ、ニューヨーク・ニューヨーク。椿ハウスに、玉椿とライブハウスですらディスコ化していた。
ニューヨーク・ニューヨークはサタデーナイト・フィーバーのディスコセットを模したとのことで、こぞって行ったが人がいっぱい入るとどこが一緒?という状態だった。また当時大学生の人たちがハマっていた「ブラコン」とちょっと趣が違っていた。そんな時「六本木に行こうぜ!」ということとなり、高校生になる前に六本木デビューとなってしまった。
当時は金メビと言われていたメビウスを始めとして、レオパートキャット、フーフー、招待券をもらって入ったレキシントンクィーン。その後、レディオキッスあたりまでは六本木のディスコに行きまくった。当時深夜まで開いていたビーナスというレコード店でこれまた当時流行り出した12インチシングルなどを買ってはディスコのDJに頼んでかけてもらっていた。確かレディオキッスは当時深夜放送でセイヤングの後に始まったミスDJリクエストパレートの女子大生がプロデュースとか言っていた気がする。川島なおみさんや、千倉真里さん、川口雅代さんたちだったかな。この後ウィズというディスコまでは20歳くらいまでは通ったものだった。体育会系の大学生だったのでおよそファッショナブルではなく、ジーンズにパーカーといった出立で、スニーカーというラフな格好で行っていたものだった。
その後、ヴェルファーレ、ゴールド、マハラジャというハイパーユーロビートが主流のディスコになり、ワンレンボディコンというお姉様が闊歩するようになり、次第に足が遠のくようになった。自由気ままなディスコだったことだったので、どうしてもパラパラの踊りが馴染めなかた。レオパートキャットが閉店する日に深夜まで店の前で見ず知らずの人達と音楽を語り、最後の曲のアベレージホワイトバンドの『レッツ・ゴー・アラウンド・アゲイン』がかかった時は店の外であるにもかかわらずみんなが肩を抱いて、「またどっかで会おうなあ」と言いながら号泣していたものだった。そんだけ何か青春してたんだろうなあ。

当時「大阪で生まれた女」という曲があり、「踊り〜疲れた〜ディスコの帰り〜これで〜青春も終わりかなとつぶやいて〜」というフレーズが妙に今もあの時はそうだったんだろうなあと回顧してしまうのである。

サタデーナイト・フィーバー以後、サントラ盤で有名ミュージシャンを集めた音楽先行?映画だかミュージカルだかわからないような映画かなり続いた。

やっぱりディスコは一つの熱病だったのかもしれない。
「大阪で生まれた女」のこのフレーズが今も沁みるのであった。

次回は邦楽に関してちょっと回顧したいと思うのです。
お後がよろしいようで。。。。。
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