「何これ?」
煌々とした白い照明の中で、自分の精液と血の付いたパンツを広げられ、比嘉冷射士は肌を粟立てた。そして反射的に奪い取ろうとしたが、相手は闘牛士のようにパンツをはためかせながら躱した。
「君、溜まってんの?」
ルームシェアしている同居人が、鼻で笑いながら比嘉冷射士のベッドに腰かける。
比嘉冷射士は必死に激情を抑えながら、同居人がいきなり開けて入って来たドアを閉じ、相手に関する情報を整理した。
――こいつは先週の木曜日に入居している。名前は加藤だったか、川藤だったか……とにかく、シングルマザーであることは確実だ。挨拶に来た際にそう言っていたし、傍らには4、5歳の子供がいた。
「そんな怖い顔してないで、お喋りしようよ。」
同居人が口を尖らせながらベッドの脇を叩く。比嘉冷射士は誘いに乗らず、相手を観察する。
――化粧っ気のない顔。剃ってある眉毛のせいで、人相が悪い。根元が黒くなっている茶髪のポニーテールに、上下灰色のスウェット。そのポケットからアイコスを取り出し、断りもせずに人の部屋で吸っている。そして立ち上がってこっちに……。
比嘉冷射士は思索を中断し、接近する相手に身構えながら後ずさりした。同居人は不敵な笑みを浮かべたまま、比嘉冷射士を壁際に追い込み、壁に手をつけて鼻息が当たる距離まで顔を近付けた。
唇の前に垂れている前髪が発声に合わせて揺れる。
「そうゆう風に構えて生きるのって、しんどくない?」
不意に本音を代弁された気がして、比嘉冷射士は息が止まりそうになった。そして相手の胸を押しながら、
「プライバシーの侵害ですよ。」
と言うと、同居人はアイコスの水蒸気を吐きながら、鼻で笑った。
「守るほどのものじゃないと思うけど。」
「あなたに何が分かるんですか。」
同居人のあっけらかんとした口調に、比嘉冷射士は思わず言い返した。そして言下に挑発に乗ったことを猛省した。
同居人はそのような比嘉冷射士の様子を眺めながら、一層悠然と振る舞った。
「自分の心の傷をアイデンティティーにしている内は、まだまだ子供ってことよ。」
「ちょっと待ってください。俺が心に傷を抱えてる証拠でもあるんですか?そのパンツの染みだってただの生理現象ですよ。」
「証拠はその必死な態度だよ。」
相手の指摘に、比嘉冷射士は口を噤んだ。
「いい?誰もが何かしらの辛い過去を抱えてるもんなの。自分だけが不幸だと思っている時点で、君はお子ちゃまってこと。」
――「誰もが」?親からネグレクトされ、育ての親を性的対象として見て、拒絶され、あげくの果てに好きでもない奴からレイプされた俺が、特別じゃない?いや、それはあり得ない。
「皆、色々抱えてるからね。」同居人が呟く。比嘉冷射士は、自分が無意識に思考を口に出していたのかと勘繰ったが、同居人は内省しているようで、目の焦点がどこにも定まっていない。
――こいつ自身の辛い記憶を思い出しているのか?
比嘉冷射士が想像していると、不意に、廊下から同居人を呼ぶ子供の声が聞こえる。しかし同居人は虚空を見つめたまま、口から煙を漏らしている。
「いいんですか?」
比嘉冷射士が尋ねると、同居人は返事をするのも辛そうに「大丈夫」と呟いた。そして少ししてからドアを開け隙間から、
「だから部屋でじっとしてて。」
と言い、少しの間子供の様子を見た後、後ろ手にドアを閉めた。
「ごめんね。」
「いや……。」
反射的に返した後、比嘉冷射士は内心でかぶりを振った。
――何だ今のやり取りは?
まるで2人切りの時間を邪魔されたみたいじゃないか。そもそも……。
「何しに来たんですか?」
比嘉冷射士は、根本的な謎を思い出し、改めて同居人に尋ねた。すると少しの間黙った後、同居人は手元のパンツに視線を落としながら、
「だから、お喋りしたいだけだよ。」
と言った。裏がある様子だった。
「どうして俺に?」
「その、寂しかったから。皆まで言わせないでよ。」
同居人は冗談めかして言ったが、比嘉冷射士の鋭い視線に観念して、まごまごと喋り始めた。
「初めて見たときから君のことが気になってて。それでさっき共有のゴミ袋にゴミを捨てようとしたら、あ、空き缶だったんだけど、入れていい袋なのかと思って、皆分別とかしてるのかと思って中を見たら、ドンキのビニール袋があって、君が数日前にそれを持って帰って来たのを見たから、開けてみたの。
そしたらパンツが出て来て、これを交渉材料というか、まぁ、脅しの道具にすれば、喋れるかなと思って。」
同居人は言い終わると、比嘉冷射士の顔色を伺いながら所在なさげに歩いた。その態度が、比嘉冷射士の目の中の同居人を縮めた。
――思ったより大した相手じゃないな。刺激さえしなければ。
比嘉冷射士は床に胡座をかいた。
「何を喋りたいんですか?聞くから、それ返してください。」
と手を伸ばした。
それから、同居人は堰を切ったように身の上話をした。その内容は悪い男に騙され続けた遍歴だった。
同居人は、大学生の頃から、年上のフリーターに貢ぐために風俗で働き始め、やがて貢ぐ相手がホストになり、若さと金を使い果たした後で、一般企業の契約社員になるも、その会社の営業部長の不倫相手になり、妊娠を告白すると自分との再婚を約束してくれたが、中々離婚せずに最後には別れを切り出され、その間に出産していた子供を、不倫の噂が広まって職場を追われた状態で、1人で育てることになったのだった。
話が終わる頃には、そこに初めの達観した態度を取っていた同居人はいなかった。ただ現実に押し潰されまいと体を強張らせる一人の女性がいた。
比嘉冷射士は、眼前の同居人に空虚な眼差しを向けていた。彼もまた、同居人を通して現実を見ていた。2人は共に向かい風の中で踏ん張っていた。
――こいつは、「皆が不幸なんだ」と思っていないと、心を保てないんだ。
だから、こいつは不幸な人間を慎重に探していたのだろう。そしてやっと見つけたのが俺というわけだ。
――話してもいいかもしれない。
比嘉冷射士はそう思い、パンツを汚した精液と血のいきさつについて、告白しようと思った。
しかし口に出す前に、比嘉冷射士は同居人に覆い被さられた。
垂れた髪が同居人の顔をトンネルのように縁取っている。その陰った顔の中で、瞳だけが爛々と光っている。
「お願い、寂しいの。君も溜まってるんでしょ?」
同居人はそう言うと、比嘉冷射士の首元に吸い付き、繰り返しキスをした。その間、比嘉冷射士はただ天井を見上げていた。
円盤状の照明の底に、沢山の虫の死骸が溜まっている。中央に近付くほど多く、淡い影の点になっている。端で死んでいる羽虫は、辛うじて輪郭を保っている。
微かな高音の耳鳴りがしている。いつから鳴っているのか。気にし始めた途端、脳の中を音の針が掻き毟る。
――俺が、俺こそが唯一の不幸な人間なんだ。
比嘉冷射士は同居人を突き飛ばした。そして同居人が壁にぶつけた後頭部を撫でようとした手を捕まえ、両手の自由を奪い、口に舌を突っ込んだ。同居人は呻き声を漏らしたが、徐々に侵入を許した。
それから、比嘉冷射士は同居人を籠絡するために、徹底的に愛撫した。初めは声を抑えていた同居人も、やがて廊下に漏れるほど大きな嬌声を出しながら果てた。
その瞬間、比嘉冷射士の脳内には否応なく同居人の子供の姿を浮かんだが、比嘉冷射士はそれを睨め付けながら、こう思った。
――お前も食ってやるからな。
読んでいただきありがとうございました。
あなたの不幸がありふれたものでありますように。