電子データを作るのも人間である

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こんにちは。『徒然なる世界』の管理人リュードです。
今回は少し刺激的な話をしたいと思います。

日本人のあまり良くない傾向として、
「直接手に取ることのできるモノ」には高い価値を見出すが、
「直接手に取ることのできないモノ」に対してはお金を出し渋る、
ということがあると思います。

もっと言い換えれば、日本人は
「質量を感じることができるモノ」を大切にする一方、
「質量を感じることができないモノ」は大切にしない、
そういう国民性なのだろうと思っています。

日本は昔からものつくり、いわゆる職人文化を大切に守り育ててきました。

それ自体は決して悪いことではないのです。

ですが、そのものつくり文化を重視しすぎるあまり、
ハードウェアそのものやそれを作る人に対してばかりお金を出し過ぎて、
それに付随するソフトウェアやそれを作る人に対してはあまりお金を出さない、
ということが往々にして発生しているという状況があります。

インターネットを始めとしたコンピューターの技術が高度に発達し、
様々なことを電子で完結させることが可能となった現代社会。

それはコミッションの世界においても同様で、
イラストでも、小説でも、音楽でも、
それを電子データとしてやり取りすることが可能となっています。

しかし、電子データに質量はありません。

そして、日本人は得てして質量を感じることができないモノを大切にしない傾向にあります。

ですが、それが電子データであろうとも、それを作っているのは紛れもない人間なのです。

電子データであっても、その背後には間違いなくそれを作っている人間がいるのです。

電子データのやり取りであっても、そこには確かに人間がいる。
そして、そこには確かに人間のぬくもりというものが存在する。

電子データは単なる0と1の羅列ではなく、
人間の手によって生み出された有機的な存在である。

今、私たちはこのことを改めて考えなければならないのではないでしょうか。
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