「もったいない」のパラドックス

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学び
今日はデザイン関係ありません、
いやちょっとだけかすってるかもしれません。

「もったいない」って言葉に対する感情や思いみたいな話です、
「もったいない」ってことがもったいないですよ。

「やり投げ用のスパイクもったいねーな」


この記事を書こうと思ったきっかけがコレ。

ちょうどオリンピックやり投げ競技を見ていた、
親に言われたひとこと。

私は高校時代に陸上部で、やり投げをしていた時期があったのだ、
最初はやり投げを3年間やるんだ!なんて気合を入れていた私。
しかし、ものの数か月で普通に走る種目に移行していった。

そのときに購入したやり投げ用のスパイクがもったいなかったといいたいのだろう、
確かに、スパイクは買ってもらったものだしたいして活躍しないまま終わってしまったことは確かだ。
使わなくなってしまった後、だれかに譲ったりフリマアプリで売ればよかったという気持ちもわかる。

しかしながら、その「もったいない」とう言葉に私は不快感を覚えたのだ。

自分でも「もったいない」という気持ちはある、
ではなぜこんなに嫌な気持ちに支配されているのだろう?

どういう状態か考えてみよう


「もったいない」という言葉には、
嘆く、無駄にしているや、惜しい、後悔など感情がつきまとう。

何かが無駄になっていると判断したときに、
それを惜しむ感情なのだと思う。

つまり、第三者から見たら、私がやり投げをしていたあの瞬間は無駄だったというわけだ。

続けていればもったいなくなかった?
途中でやめたからもったいなかったのであれば、
そのまま続けていればよかったのだろうか?

それはノーである。

そもそもやり投げを始めたのは、
自分は走るのには向いていない、自信がないと思っていたからだ、

ではなぜ陸上部に入ったのか、
他の球技や武道などの運動が、自分に向いていないと思ったからだ。

それなのになぜ運動部に入ったのか、
いままで運動してきた経験が無駄になると思ったからだ。

本当は他にやりたいこと、向いていることがあったかもしれないのに。

「もったいない」で決めたことで、得したことってあるの?


やり投げのスパイクがもったいないことになる前に「もったいない」ポイントが複数あったことに気が付いただろうか。

走ることに自信がないならば、陸上部に入ること自体がもったいないし、
運動が向いていないならば、運動部という選択がもったいない。

「もったいない」って考えは、自分の本当にやりたいことを
隠してしまう。

やりたいことをやらないほど「もったいない」ことはないにもかかわらず。


もったいないと思うことがもったいない!?


やり投げ用のスパイク一つとっても、
いったい何が「もったいない」のか。

スパイクという物?
かかったお金?
やり投げをしていた時間?

ぶっちゃけ全部もったいない。

それでも、やり投げをしたことでやっぱり走りたいと思ったのは確かだし、
やり投げしている間に、自分でも走れるんじゃね?と自信はついたってのもある。

やり投げをしたから、スパイクを買ってまで挑戦したからこそ
やり投げをやりたくないと思えた。

当時「もったいない」全振りした、選択をしていたら…
投げたくもないやりをずっと投げ続ける日々。

いやあもったいないね。

でももったいないと思ったからこそ、別のもったいないが避けられるし、
そもそももったいないと思うこと自体もったいないって意見もあるしね。

今も自分は過去の「もったいない」でできている

やり投げのスパイク以外にもいろいろもったいなかったことはある、

最近もったいなかったのは、
webデザインスクールに約150万円費やしたことだ、
実にスパイクの150倍である。

それでも、webデザインスクールに通っていたときは
webデザインがしたかった、

スパイクを買ったときはやり投げがしたかったのだ。

そして、今は身に着けたwebデザインでお金を稼がせてもらっている。
もったいないからという理由だけでは続かなかったって思うし

あのときもったいないで、やりを投げ続けていたら、
もったいないでwebデザインを身に着けなかったら、
別の今があると思う。

なんだろう…
「もったいない」って感じてもいいけど、
「もったいない」で選択肢が狭まるのはいやだな!

そんなわけで、webデザインスクールに
150万円ほど費やした私が教えます。






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